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大和の声が、物理的に聞こえたわけではないのだろう。
もし、本当に普通の音として聞こえていたのなら、鈴音の方が先に気付く筈なのだから。
だが、だからこそ胸が騒ぐ。
リム、大和、何があった?
直線で森を抉らない程度に、災害にならないレベルで最速に、俺たちは駆けた。
麓を過ぎエスト山脈の中腹に向かって。
走り出した時から、鈴音は気配を捉えている。そこだけは心配要らない。
大和と、その傍らに、リムもいる。
大丈夫、生きてる。
気配は一つの谷の奥にあった。渓流を遡り小さな泉のその畔。
足を抱え込み、その膝に顔を埋めるように小さく座り込んだリム。
傍らに身を伏せているのは大和だ。
よかった、どうやら無事らしい。
まあ、体だけは、といったところか。
大きな図体をしながら、まだまだ幼い大和の心細げな視線が俺をとらえる。
うん、大丈夫だぞ。父さんが来た。あとは任せろ。
母さんが落ち込んで、ビックリしたんだよな。
もう大丈夫だ。よく呼んでくれた。
安心させるように大和に頷きかけ、俺は、敢えて足音をたてながら、ゆっくりと近付いていった。
枝を踏み折る音に、リムの肩が、ピクリと震える。
「リム、何があった」
「なにもない」
嘘つけ。何もないわけがないだろう。
「本当になにもなかった。ただ、どうしたらいいか、分からなくなっただけ」
ん?
なにか様子が違うな。
ゆっくり近付き、俺はリムの横に立った。
リムはまだ、顔をあげようともしない。
そのリムのすぐ前に、可憐な、白い花が一輪、咲いていた。
ああ、そういうことか。これを、見つけてしまったのか。
「ミントスの花か。思ったより、可愛らしい花だな」
ガバッと、勢いよくリムがこっちを見上げる。
うん、別に泣いたりはしていないようだな。本当に、途方に暮れていたのか。
「なんで分かるの?」
「前に教えてくれたじゃないか。これを摘みに、谷を出たって」
敢えて平静に、答える。
さて、リムはどうしたいのだろうな。いや、それが分からないのかな?
「父さんと母さんを思い出した。弟たちも」
そうか、兄弟がいたのか。跡継ぎを残すためにリムを捨てたのだとしたら、その心は複雑だろうな。
「会いたくなったか?」
「分からない」
果たして、リムは恨んでいるだろうか。
リムの両親は、後悔していないだろうか。
よし、試してみるか。もしリムを苦しめるようなら、殲滅すればいい話だ。
「しかし、よく見つけたな。六年越しかあ。お前の両親も、待ちくたびれているだろうな」
「何を言っているの? 私は、谷を追われたの」
「さて、どうかな。俺が聞いたのは、お前がミントスの花を摘んでこいと言われたってことだけだ。摘めたんだから言いつけ通り、だろ?」
屁理屈、と思うかな。思うよな。
それでも、それで前に進めるのなら、安いもんだ。
「六年かかったけど、その代わり、花だけじゃなくて旦那も子どもも連れてきたよ、ってのはどうだ?」
「ふ、ふふっ、それはビックリするだろうね」
ほんのちょっとだけ、リムの表情が緩む。
少しは、落ち着いたかな?
無理難題を言いつけるのは、本当はやりたくないことをせざるを得ないから、自分を納得させるためだろう。だから、課題を果たせるならそれで済む。
あと、何より、周りの住人を納得させるためでもある筈だ。
課題を果たしさえすれば、戻ってきたとしても、周りの文句を封殺できるのだから。
ルクアに貰って以来、何となく懐に入れっぱなしの魔法の収納袋を取りだし、起動させる。
「摘んで帰るか。風の谷はどっちだ?」
鈴音で探ればすぐに分かるのだろうけど、ここは敢えて、リムに聞く。
「砦に戻ろうと思ってた。その前にちょっとお水を飲もうとしたら、見つけた」
「そうか」
不思議な縁もあるもんだ。本当に偶然の産物なんだなあ。
「まあ、帰る前に谷に寄っても良かろうよ」
「う、うん。……大丈夫かな」
「大丈夫だろ。駄目なら殲滅するだけの話だ。どちらにせよ、帰る場所はあるんだから」
「それは過激に過ぎる」
俺に突っ込みを入れながら、リムはようやく立ち上がった。すぐに鼻面を寄せてくる大和を撫でながら。
麓に向かって降りていく道中、狭い谷に張り付くように、風の谷はあった。
さすがに上から降りてくる人間は想定されていないのだろう。
まともな出入り口などなく、幾重もの防壁で谷は塞がれていた。
しまったな。
壊すわけにもいかないし、乗り越えるしかないか。
まあ、この面子なら余裕で飛び越えていけるだろうけど。
さて、一騒動は起きるだろうな。
木々の隙間から、見張り台が見える。
「行くぞ、リム」
「うん」
無理しやがって。手が震えてるぞ。
そっと手を握り、指を絡める。リムの手に、力が戻った。
「うん、行こう」
そして、俺たちは森から出た。まず目立つのは間違いなく大和だ。
途端に鳴り響く半鐘の音。
「魔獣だあーっっ!」
「狼が出たぞーっ!」
「でかいぞっ!」
おうおう、大騒ぎだな。大和に気をとられて、俺たちが見えていないのかもな。
いい気味だ、と思ってしまうあたり、俺も狭量だよなあ。
まあ、いつまでも騒がせるわけにはいかない。リムの印象まで悪くなってしまうからな。
リムの手を引き、一歩前へ。
「静まれっ! 魔獣ではない。俺たちは人間だ!」
まさか、言葉が返ってくるとは思っていなかったのではないか。
あれだけざわついていた谷が静まり返っていた。
俺の声が大きすぎたわけではあるまい。
そして、リムがさらに一歩前へ。
「ザーレムとエナの子、リム。ミントスを摘んで戻った」
澄んだ声が谷を通り抜けていく。
途端にざわつき始める谷。先程までとは種類が違うが。
矢を射つための狭間かな?
男がこっそり覗きこんで、すぐに姿を消した。
面通し、なら、あれがザーレムだろうか?
頬のシャープな感じが、リムに似ていなくもなかった。
「何者だ。銀髪の娘など知らん!」
守備隊長か、村長か、まとめ役っぽい男が叫び返す。
ああ、しまったなあ。外見が変わりすぎたか?
さて、俺たちの知名度は、どれ程上がっているだろうか。ここにも、届いているかな。
「俺たちは、エルメタール団の祐とリムだ」
「なんだって? ファールドンの金狼姫か? いや、だが、髪の色が話とは違う……」
おやおや、リムにそんな渾名がついていたのか。なら、今後は銀狼姫だなあ。
「まさか、エルメタールのリムが、ザーレムの娘だったのか?」
「いや、だが、髪の色が……」
結構、髪の色にこだわるな。
「銀狼の力を継いだんだ。髪の色くらい、いくらでも変わるさ。顔を見て確かめたらどうだ」
髪の色が変わるのは、やっぱり珍しいのかね。
純化させずに魔珠を入れれば、体に変化など結構出そうなのにな。
「壁を越えるぞ。いいか?」
「え、いいもなにも、この壁を越えるってのか?」
戸惑ったような声。
信じられないだろうな。
ふふん、見てやがれ。
「エルメタール団を舐めるなよ」
「ばっ、馬鹿なっ!」
唖然とする谷の人間を尻目に、リムと二人、あっさりと壁を飛び越えた。
もちろん、大和も一緒だ。二度、三度と跳躍を繰り返せば、眼下の広場に集まる人間たちが見下ろせた。
慌てたように、蜘蛛の子を散らすように人が避けていった隙間に、三人音もなく降り立つ。
さっき面通ししたのはあいつだな。表情は、怯え、か?
いや、まあ、大和がいる時点で怯えない人間はいないか。拠り所の防壁もあっさり越えられたしなあ。
谷の奥の方からこちらに向かって駆けてくる気配は、もしかしたらエナだろうか。呼びに行ったのだろう誰かを先導に走ってきているが、結構走るのが早いぞ。先導者を追い抜く勢いだ。リムのすばしっこさは、母親譲りだったのかね。
「さて、改めて名乗ろうか。エルメタール団食客、祐だ」
「ザーレムとエナの子、リム」
ざわつく広場。
遠巻きに眺める人々。その中から、先程から対応していたまとめ役っぽい男が出てきた。改めてみると若いな。まだ二十歳過ぎくらいじゃないか?
しっかりと装備を固めているし、主戦力っぽいな。
「谷長の息子、トレオンだ。その、本当に、リムなのか?」
お、顔見知りかね。
いや、よくよく考えれば谷の人間はほとんど、子ども時代のリムを知っている筈だよな。みんな顔見知り、か。
「そう。レオン兄ちゃん、久しぶり」
「……リム、本当に……」
おいおい、両親より先に感動の再会とか、でしゃばりすぎじゃないか、トレオン君?
しかし、ザーレム、出てこないな。よほど後ろめたいか?
「……母さん」
ほんの微かなリムの呟き。
エナが着いたか。
リムの視線を追えば、人を掻き分けて前に進み出る女性が一人いた。
かなり息を切らせている。
その彼女を支える位置に、ザーレムも移動していた。
いや、まあ仮定が確信に変わっただけなんだが、これが、リムの両親か。
済みません、お嬢さんはもう貰ってしまいました。
いや、むしろ貰われてしまったわけだが。
ザーレムとエナ、そしてもう一人、子どもが寄り添ってこちらに向かって来る。
あれが、弟、かな。たちと言うからには、他にもいるんじゃないかと思うんだが。
「リム、本当にリムなんだね……」
エナの涙。無言のザーレム。戸惑ったような子ども。
まだ十にもなるまい。もしかしたら、リムが谷を出た時のことは、よく分かっていなかったのかもな。
さて、俺がこんなにものんびりと皆を観察しているのには理由がある。
リムが、動こうとしないのだ。
まあ、無理もあるまい。
「リム、ただいまくらい、言ったらどうだ?」
「う、うん。父さん、母さん、レムス、ただいま……」
おずおずと囁くようなリムの声に、エナはもう涙を抑えられないようだった。
ザーレムを突き飛ばす勢いでリムに駆け寄り、抱き締め合う。
大丈夫だぞ、大和。敵じゃない。
固い表情のザーレムは分からないけどな。
まったく、どこの世界でも、お父さんは、娘の彼氏には厳しいものなのかも知れない。
やれやれ、だ。