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シャナを引き取りたい、アルマーン老は確かにそう言った。
あまりの衝撃に、言葉が出てこない。
気に入っているとは思っていたが、まさかそこまでとは。
俺のそばから、シャナが、いなくなる?
「シャナは……シャナは、なんと言っている……?」
「さての、聞く必要があるのかね?」
なんだって?
どういう意味だ。シャナはもう奴隷ではない。アルマーンはそれを、共に喜んだ筈だ。
このような言いぐさ、信じられないぞ。
「貴公の了承があれば、シャナに否やはあるまいて。それとも、聞いてみるかね。己の意志が、何処にあるのか、と」
なんだ、これは。なんなんだ、これは。
喧嘩を売られているのか?
いや、待て、そんな筈があるまい。
一度は信じたアルマーン老だ。それに、商会として、今、俺と決裂するメリットなどある筈がない。
どう考えても、おかしい。
意図はなんだ?
何を考えている?
「シャナが、了承するとでも……?」
「そうさの。改めて言おう。貴公の了承があれば、シャナに否やはない」
強い断定。
本当にそうなのか?
それだと、奴隷の時と何も変わっていないじゃないか。
シャナに意志がないと、本当にそう思っているのか?
もし、立場的に口に出せないとしても、感情は?
感じる心が無いとでも?
「……シャナを呼ぶ」
絞り出すようにそう言った俺を、アルマーン老は黙って見ていた。
「シャナ、アルマーン殿が、お前を引き取りたい、のだそうだ」
シャナ、どんな反応をする?
どんな反応をしてくれる?
シャナは、一瞬、息を飲んだようだった。だが、自信がない。
本当にそうだったろうか?
そうあって欲しいという俺の思い込みが、錯覚させたのではないか?
そう思ってしまうほどに、シャナの表情は変わらなかった。
「お望みとあらば、お命じ下さいまし」
完璧な礼。
この時、ショックを受けなかったと言えば嘘になる。
だが、アルマーン老は別の見解を持ったのかもしれない。
少し驚いたような、かすかに目をみはるような、表情の動きが見て取れたからである。
分からない。
彼が何を期待しているのか。シャナの答えの何に反応したのか。
俺がここでどうしたいのか。
行くな、と、引き留めればいいのか?
俺はそうしたいのか?
いや、俺のことは置いておこう。シャナはどうなんだ。
「シャナは、それでもいいのか」
「いいのか、とは?」
心底、不思議そうに首をかしげるシャナ。
これか。
アルマーン老が言った通り、なるほど、俺の意向に依存しているんだ。
いいか、悪いかを、シャナは考えていない。考えないようにしているのか?
それとも、考える機会がなかったか。
奴隷として育てられたシャナには、確かに自分の意思を表明する機会はなかったろう。下手をしたら、そういう発想すら与えられなかったかもしれない。
だが、諦観から解放され、執着の生まれ始めたシャナには、その発想がなくとも、感情はある筈。
本当の望みは、何処にある?
「ユウ殿はの、華桑の姫君とご結婚なされるそうだ」
アルマーン!
何故、今、このタイミングでそれを言う!
だが、シャナの反応は、俺の予想の遥か斜め上を行っていた。
笑顔が輝く。
「それはようございました。おめでとうございます」
え、祝福?
「それで、そなたはどうしたいかね」
アルマーンが言葉を継ぐ。
「華桑のしきたりは存じ上げませんが、身の回りのお世話をさせていただく事をお望みいただけましたら、嬉しゅうございます」
これが望みか?
これがシャナの感情か?
違うだろう。
「シャナ、そうじゃない、お前の望みはないのか」
思わず口を挟んでいた。
シャナが言っていることは、シャナの望みではない。
こちらがシャナに望み、命じることの、どれが一番嬉しいか、という話に過ぎない。こちらの望みに対する、シャナの評価でしかないのだ。
「私の望みは……」
考えたことがなかったのではないか。言葉が途切れるシャナ。
これか。これをアルマーン老は見せたかったのか。呪いを解いただけで、シャナが奴隷でなくなったわけではなかったのだ、と。
アルマーン老がそっと、耳打ちしてくる。
「シャナは、望みとあらばと言ったの。貴公にシャナが救えるか」
重い問いかけ。そのまま、アルマーン老は部屋を出ていってしまう。
おい、ここで放置とか勘弁してくれ。俺はどうしたらいいんだ?
「さての、あとは若い二人に任せるとしようかのう」
まるで見合いについてきた親戚みたいなことを言うハク。
俺に、シャナが救えるか?
だが、考えるまでもなく、答えはあった。
救いたい。
出来るか出来ないかではなく、やりたいかやりたくないかで考えれば、すでに答えは見えていた。
あれ、何か引っ掛かるな。
やりたいか、やりたくないか、か。
「私は、何を望んで良いのでしょうか?」
ぐああ、そう来るか。
奴隷教育など、滅んでしまえ。
「なんでもいいんだ。良いも悪いもない。何を望んでもいい」
「何を望んだら許されるのでしょうか」
「だから、違うんだよ。許すも許さないも無い。例え許されないことでも望むことはできる。叶うか叶わないかも関係ない。望むことは始まりに過ぎない。叶うか叶わないかは、その次の話だよ」
何て言えばいいんだ。
分かってくれるだろうか。言ってる俺もよく分かっていないというのに。
「グリードが攻めてきた時、感じてくれたよな。失いたくない、と。共にありたい、あり続けたいと思ってくれたよな」
「そう……ですね」
「それだよ、それでいいんだ。俺たちは勝ったから、今、一緒にいられるけど、負けていればそうではなかった。あの時、俺も死にかけたからね」
「そうなんですか?」
あ、やらかしたか。
シャナの目が怖くなった。やばかったこと、誰にも言ってなかったよなあ。修行の必要性を感じたとは言ったが。
まあ、いい。
怒ってくれるのは嬉しい。シャナの執着の表明だからだ。だから、先に進もう。
「そうなんだ。だから、結果と望みは別なんだよ。まあ、望んでくれたから、あの戦いで頑張れたんだけど」
そうだ。結果を恐れて望まない、というのはナンセンスだ。望みがあるからこそ、努力も生まれる。望むことは、スタートなんだよ。
シャナ、奴隷だった過去から、新しい未来へ、スタートして欲しい。
「シャナ、許されるかどうかはあとから考えよう。あの時、シャナから口付けしてくれた時、許されると思ってした訳じゃないだろう? あの時みたいに、シャナの心のままに……」
シャナの頬が朱に染まる。
鎖を断った時、シャナは飛び付いてきた。
感情が昂った時、動く心があることを、俺は知っている。
「私の望みは……ユウ様の望みに応えることです」
いや、ちょっと待てよ。そうじゃなくて、俺の望みは置いておいてだなあ、って、あれ?
何かニュアンスが変わったか?
「私は、私の望みがよく分かりません。どうしたいのか問われても、やりたい事、というものがどういうものなのか、分かりません。でも、叶うならば私は、ユウ様のために生きたい。下さった未来をユウ様と共にありたい。ユウ様が喜ばれたら私は嬉しい。私は、ユウ様の望みを叶えたい」
なんという重さ。
今、俺の上に、シャナの人生全てが乗った。
プロポーズなんてレベルじゃないぞ。
今、命を預けられた気がする。
俺はどう応える?
シャナにかけた問いが全て、俺に返ってくる。
俺は、どうしたい?
「ユウ様は、私に何を望んで下さいますか?」
真っ直ぐな視線。
俺を見つめるひたむきな瞳。
俺は、どうしたい?
望みならあった。感情もあった。可愛いと思う気持ち、いとおしさ、失いたくない執着、手に入れたいと思う欲望、全てがあった。
そして、そこに踏み込めない俺がいた。
なんだ、これは。
ここで俺が足踏みすれば、シャナにかけた言葉が全て嘘になる。
いや、むしろ、シャナにかけた言葉全てが、ブーメランとなって俺の尻を叩く。
俺は何に足踏みをしている?
家庭か。家族か。
だが、どうしても、俺が誰かの家族になれるとは思えない。
俺はどうして家族を信じられない?
見たくない答えが、そこにあった。
答えは、分かっていた。
父の顔、母の顔を思い出せない俺が、家族を信じられる筈がなかった。思い出せないのではない。思い出したくなかったのだ。
俺をいないものと扱い、離れに押し込み、金だけくれて関わろうとしなかった両親の事を。
「シャナは、俺の家族になることを望んでくれるか」
「ユウ様が望まれるなら」
それは、望んでくれているのと同義だよな。
「俺は、家族が怖い。家族を信じられない」
俺は、凛と家族になりたいと思えたか?
答えは否、だ。
結婚という名の契約相手、むしろ好ましい同盟相手というように見ていなかったか?
リムとは一歩踏み込んでしまったが、そこに後ろめたさを感じてしまっていた。
家族、を、俺は拒否している。
「シャナ、聞いてくれ」
父は入り婿だった。母方の実家が資産家で財産の権限は母にあり、だが、事業の才覚など、実務の権限は実質、父にあった。
財産目当てと揶揄されていたことをはっきりと覚えている。
そして、母は愛を求めた。冷えきった父相手にではなく、別の誰かに。
確証はない。だが、俺は不義の子なのだろうと思う。
嘘でも本当でも、どちらでも関係ない。どちらにしろ、俺は後ろ指を指されていたから。
自由に出来る金があったにも関わらず、俺の回りに人は集まらなかった。
たった一人だけ、あいつだけは、回りに何を言われようが、ずっと俺と一緒にいてくれたが。
自分自身も八分にされながら、笑って俺と一緒にいてくれた。
「俺は、両親に愛してほしかったのだと思うよ。最初は頼んだ。いい子であろうと努力した。でも、何をしても、振り向いてはもらえなかった。そんな俺が誰かを愛せるのか? 本当に振り向いてもらえるのか? 振り向いてもらえないのは嫌だ。自分から愛するのが、怖い」
口に出して、初めてスッキリした。
そうか、俺はこう考えていたんだ。
見ようとしていなかった自分の心が、今、ようやく分かった。
「私には分かりません」
考え込むような、シャナの言葉。
そうだよな、別に分かって欲しい訳じゃないと思う。分かってくれなくてもいいよ。仕方ないよな。
「ユウ様は、エルメタール団のために、様々に尽力して下さいました。皆が振り向くと、確証を持って尽力下さったのでしょうか?」
あれ?
予想と違う言葉が来たぞ。
「いや、そうではないと思う。小細工は考えたけど、振り向いてくれるように努力したと思うよ」
「ルクア様を治療された時は、いかがでしたか?」
「……俺が、失いたくなかっただけだよ。ルクアさんにどう思われるかとか、考えなかった」
まあ、お陰で綺麗なお姉さんはいなくなってしまったが。
「私を振り向かせるために、私の鎖を断ってくださったのでしょうか?」
「違うな」
ああ、なんだろう。
シャナの思いが伝わってくる気がする。
「自分から愛する、という事と、ユウ様のこれまでのなさりようとが、どう違うのか、私には分かりません」
そうかな、本当にそうだろうか。
「私たちは、もう既に愛していただいていると思います。ユウ様は、愛せます」
静かな断言。
胸に突き刺さる断言。
ああ、いつもシャナは、俺の魂の置き所をくれる。
俺は愛せているのか。
俺は愛していいのか。
シャナに言った言葉がそのまま返ってくる。
振り向いて貰えるかどうかは関係ない。自分から愛すること、それはスタートに過ぎないのだ。
凛は、そしてリムは、スタートを切ってくれた。俺も、共に走り出したい。
許されるのならば。
「シャナ、俺は、お前が欲しい。共にいてくれ」
「ユウ様のお望みのままに。それが、私の望みなのだと思います」
一歩近付くと、シャナも一歩、近付いてきてくれた。
もう一歩。シャナも、もう一歩。
「約束を、果たすよ」
「お待ち申し上げておりました」
交わした口付けは、俺からのようであり、シャナからのようでもあった。
長いような、短いような間をおいて、どちらからともなく身をはなす。
そのタイミングを見計らったかのように、部屋の扉が開いた。
ハクを先頭に、アルマーン老も一緒に入ってくる。
なんだろう、全てが、掌の上だったのだろうか?
なんか悔しいので、シャナと引っ付いたままでいてやる。畜生、あんたにはやらんぞ。
「さて、ひとつ鞘に納まった様だの」
「全く、世話の焼ける」
いや、ハク、それを言ったら台無しじゃないか?
「ところで……」
アルマーン老が、ニヤリと恐ろしげな笑みを浮かべる。
元々怖いんだから、勘弁してくれ。内心、一歩引いてしまう。
「我がアルマーン家の娘を、側室として迎え入れてはもらえないだろうか」
なんだって?
死んだ娘が一人娘じゃなかったのか?
何を藪から棒に、……って、もしかして!
「さて、話を戻そう。シャナを引き取らせてもらいたいのだが、いかがかな」
深まるアルマーン老の笑み。
畜生、やられた。