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砦に戻り、見上げれば美しい月が見えた。
そう言えば、ずっと満月だな。満ち欠けを見た覚えがない。
理科は苦手だったからよく覚えていないが、月の公転周期が星の何と一致するんだろう?
星座の話は好きだったが、天文学になった途端にちんぷんかんぷんだったなあ。
まあ、太陰暦があろうがなかろうがどうでもいい。
満月は美しい。それだけでいい。
その満月をバックに、櫓の上から凛が見下ろしていた。
艶やかな黒髪が、月光を宿して濡れたように光っている。
正直、言葉を失うな。
なんと絵になる姿であることか。
軽く手をあげると、向こうも応じてきた。
橘父の手前ではないが、ここで無視するのもあり得ないだろう。
パワーに任せてひょいと、櫓まで跳び上がる。
音もなく着地。
さすがに驚いたようだな。
これが鈴音と太郎丸の力だよ。凄いだろう?
「貴方は、剣術は修めておられないのか?」
お?
あれ、その質問は、予想外だったぞ?
「どこからその問いが出てきたのかな。まあ、武術の類いは、俺は一切知らないけれど」
戦いの中で四水剣の真似事はしたが、さすがにあれはノーカンだろう。
凛は一瞬、躊躇ったものの、その口を開く。
「もしかしたら失礼な話になるかもしれない。許してもらえるだろうか?」
「構わないぞ。その問いの意味の方が気になるからな」
それに、凛たちは憚ってくれているけれど、本来なら俺相手に失礼とか考えなくてもいいんだよ。
むしろ、俺の方こそが、我ながら傍若無人に過ぎると思うね。改めるつもりもないが。
ずっと自然体でありたいっていうのは、我が儘かなあ。
「では、言おう。貴方の体は、武術的には完成の域にあると思う。修練で目指すべき理想が体現されているようだ」
あれ、マジで?
そんな設定、なにもした覚えはないんだけどなあ。
というか、誉められるとは思っていなかった。照れるじゃないか。
でもまあ、これは前振りだよな。このまま誉めて終わりなら、失礼な要素など何処にもないんだから。
本題はここからか。
「だが、体が出来ているにも関わらず、貴方の動きには技がない。まるで、体の使い方を知らぬようだ」
「そうなのか。刀の最適な振り方は分かっているつもりなんだが」
なるほど、失礼ね。
確かにムッとした。
俺は武術は知らないが、刀を最も適切に振るえる方法を、鈴音に教えてもらっている。
俺が使い方を知らないということは、鈴音の教え方が悪いと言われているみたいじゃないか。
「最適な振り方と言えばその通りなのかも知れないな。言い方を変えれば最適な動きしかない。野生の獣と同じと言おうか。貴方の動きは最速、最短な動きなんだ。そこに技は見えない。貴方の動きの上に、剣が乗るようには見えない」
ズバズバ切り込んでくる凛。
いっそ清々しいほどだ。
うん、結構遠慮がないな。言われている事はもっともだと思うが。
「最速、最短で何が悪いんだ? 昔読んだ本でも、剣術の一流の総帥が、煎じ詰めれば技は不要、太刀行きの速さがあればそれでよい、と言っていたぞ?」
「なるほど、そう教えられたのか。それは確かに一面の真実ではある。だが、それだと、自分より速い相手には勝てぬ、そういう事になるな」
それは当たり前ではないのか?
「己より強い者に克つために武術はある。それなくして、魔獣から人を護ることなど出来ない」
思わず、言葉に詰まった。
奇しくもそれは、俺が先日シャナに言った台詞と同じ意味だったからだ。
シャナに俺が言ったこと。俺たちは俺たちより強いやつよりは弱い、だ。
その時約束した。俺たちは必ず帰ってくると。だが、その根拠はなんだったか。
絶対勝つという精神論か?
それとも、鈴音と太郎丸より強いやつなどいないという確信だったろうか?
確かに俺たちは神竜にも勝った。
だが、凛の言葉に比べて、俺の言葉のどれほど薄っぺらいものか。
俺たちは、俺たちより強い相手に、勝てるのか?
「凛なら、勝てるのか」
「保証はしない。だが、私は貴方より力があると思うか?」
「思わない」
そう、太郎丸の方が強い。
「貴方より速いと思うか?」
「思わない」
そう、鈴音の方が絶対に速い。
「俺の強さは獣の強さと言った。つまり、俺は強力な魔獣みたいなものだな」
「ああ、そう言った」
「俺に勝つために武術があるのか。俺に勝てるのか」
「勝てる」
即答だった。
なんとも気持ちのよい返事だ。
言ってくれるじゃないか。
ならば凛は、あのハクにも勝てたということだな?
「さてのう、お主が試してみればよかろうよ」
いや、だから心の声に返事をするなよ。凛には通じないだろうが。
「やってみればよい。生身で格の違いを思い知るもよし、全力でこてんぱんに伸されるのもよし、じゃ」
俺の負け確定かよ。
「いいぜ、やってやろうじゃないか。下に降りよう」
「分かった」
凛の返答に迷いはなかった。
さて、華桑一の剣才、見せてもらおうじゃないか。
階段に向かう前に、凛は、あっさりと柵を越え宙に舞った。屋根の端を軽く蹴り、危なげなく地に降り立つ。
小袖の裾が翻り、真っ白なふくらはぎが目に眩しかった。なんとも軽い、見事な体捌きである。
負けてたまるか。俺も一跳びで地に降りる。
鈴音によって最適化された俺の動きは、無音。
間をおいて向かい合う。
「その着物でいいのか」
「構わない、と言いたいところだが、貴方を舐めているわけでもないからな。準備はさせてもらおう」
そう言った凛は、無造作に着物の裾をからげる。月明かりの中に、美しい素足を晒して。
思わず噴いた。
「お前、いくら男勝りでもそれはないだろう!」
むき出しになった太ももが、俺の目を奪う。
全く、どこの遊び人だ。着流しの裾をからげて桜吹雪でも見せつけるつもりか。
おみ足は見せつけられているけど。
「目の毒だ、全く、少しは自分の容姿を自覚してくれ」
「そんなもの! 貴方に言われずとも……」
あれ?
この流れで、どうして凛が傷ついたような顔をしてるんだ?
いや、確かに容姿を云々されるのは嫌いなようだが、だが、足を見せつけながら戦うとかは勘弁して欲しい。
「頼むから、着物を替えてくれないか。俺が負けても凛の武術が凄いからじゃない、綺麗な足に気を散らされたからだ、とか言うぞ?」
「その台詞は普通、逆じゃのう」
ハク、黙れ。
頼み込んだ結果、応じてくれた凛は、袴姿で再び俺の前に立った。
多少グダグダ感はあったが、改めて仕切り直しだ。
「鎧の名は太郎丸。刀は鈴音だ。いざ」
「水心流皆伝、凛。推して参る」
その瞬間、俺は凛の姿を見失った。
頭に響く澄んだ鈴の音。
目の前に近づく凛。
違う、見失ってはいなかった。俺の目にははっきりと凛の姿が見えている。
見失ったのは、距離感だ。
そして動き。
その時には、鞘ごと抜いた凛の刀が、俺の額を打っていた。
仮に刀だったとして、太郎丸を抜けたかどうかは分からないが、もし抜けていれば間違いなく即死コースだった。
「次は本気で、頼む」
こいつめ。
悪いが最初から、本気だったよ!
いったい何をされたのか?
さっぱり見当もつかん。
「だったらそっちも抜け。太郎丸に傷をつけることが出来れば御の字だ」
「承知した」
凛が刀を腰に戻し、柄に手をやる。
くそっ、今度はこっちからだ。
一歩踏み込み、鈴音を振るう。
不思議なことに、斬線は一本しか見えなかった。
その線に沿って、全力、最速で斬り込んでいく。
その鈴音の刀身に、凛の刀が横からそっと添えられた。
いつの間に?
次の瞬間、俺は俺自身の踏み込みの勢いで宙に一回転していた。
なんてこった。
時代小説の殺陣シーンから想像するに、刀を軸に投げを打たれた、そういう事だろうか?
考えながら、動きは止めない。身を翻して着地する。
「うん、お見事」
誉めた凛が俺の着地際に打ち込んでくる。
咄嗟に見える斬線は二本。どちらにしようか?
最短、最速の剣と言われたなあ。よし、遠くの線を狙おう。
カウンターで斬り返す。
だが、その剣撃も見抜かれていたのだろうか。
再び、凛の刀が鈴音に触れる。
またかよ、そう思った時には、俺は地面にめり込んでいた。身を翻す間などなかった。
どういうことだ?
俺自身には、鈴音が凄まじいまでの速さを与えてくれている筈だ。
宗助の矢を受けた時のように、引き延ばされた時間感覚をもってすれば、体感時間はどんどん長くなる筈だ。
それなのに、凛と相対していると、体感時間が奪われていく。投げを打たれて、地に落ちるまでの時間が、体感でゼロ、とか、どういうことだ。
殺陣シーンでは、間を盗む、という表現をよく目にしたが、まさか、こういう意味だったのか?
立ち上がろうとする俺の肩に、凛の刀が乗る。
そして、俺の動きは止まった。
何故だ!
太郎丸の力だぞ?
猪の突進を片手でいなすパワー、凛との力比べでどこに負ける要素があるんだ?
往きもならず、退きもならない。
もしかして、そういうことか?
立ち上がろうとする寸前、つまり、動きがゼロの瞬間。
上がる力も下がる力もどちらも働いていない均衡の瞬間。
力を込める寸前。つまり力の入っていない瞬間。
そこを抑え込まれたのか。
仕切り直すしかない。
足を踏み替え、踏ん張り直し、改めて力を込めた途端、だが、凛の力は抜けていた。
勢い余ってたたらを踏み、俺のバランスが崩れる。
そこに凛の打ち込み。
分かっていた。見えていた。
だが、受けられなかった。受けられる体勢になかった。
見た目に軽い打ち込みを食らい、俺は吹っ飛ばされていた。
なんだこれは。
なんなんだ、これは。
グリードを殲滅し、銀狼を破り、神竜に打ち勝った俺が、手も足も出ない。
鈴音と太郎丸に守られながら、何をされているかすら分からない。
一矢報いるすべは無いものか?
もはや勝とうという気など無かった。
だが、このまま終わってたまるものか。
打ち込んでは返される。受けに回っても翻弄される。この身に受けた斬撃は数知れない。
「太郎丸、素晴らしい護りだな」
凛の一言。
太郎丸を誉められて嬉しい筈のその言葉が、俺の背筋を凍らせる。
次に食らった打ち込み。
音が変わった。
低く響くような音、いや、高音で破裂するような音か?
それを食らった俺は、思わず膝をついていた。
太郎丸を透過してきた打撃が、俺の体の芯を揺さぶっている。
内臓が引っくり返るような不快感。
一呼吸で衝撃からは立ち直ったが、不快感は継続中だ。
そりゃあ、外殻の堅い魔獣だっているだろう。対策は万全ということか。
ふ、と、凛が間をあけた。
「私の事を認めてもらえるだろうか?」
そりゃあ、ここまでのものを見せつけられればな。
だが、何のための問いだ?
「竜の血は、私も癒してくれるだろうか?」
「そりゃあな」
まあ、認めるもなにもないからなあ。
「ならば遠慮は無用。手足の二、三本も斬り飛ばしてくれて結構だ。出来るものなら、だが」
……そうかよ。
そう来るか。
遠慮なんてしていたつもりはないが、遠慮しているように見えたのかね。
ならば鈴音よ。
殺す気で、斬線を教えてくれ。
次の瞬間、それまで多くて三本しか見えなかった斬線が、五本に増えた。
「なら、行くぜ。責任はとってやるよ!」
そして。
再び、俺の体は宙を舞うことになった。
斬線が増えようが、凛の体には届かなかった。
畜生、惚れるぜ。