2 食われる心
サブタイトルに表題が付いているものは、別キャラ視点です。
私の名は、ジークムント・フォン・エルメタール。
その昔、神が定めたもうた由緒ある貴族称号フォンを、誇りをもって自認する者である。本名は産着と共に脱ぎ捨ててきた。
大陸中央に安定をもたらす大国ルーデンスの片隅に、僅かとはいえ手勢を率いて雌伏する身の上だ。
そう、雌伏の時である。
決して暴虐な二人組の下風に甘んじているわけではない。
食い詰め故郷を捨てざるを得なかった者、諍いが元で居所に居づらくなった者、自ら出てきた者、逆に捨てられた者など経緯はそれぞれであるが、彼らを率いてエルメタール領を樹立したのがもう六年ほど前になるだろうか。
魔素の具現体たる魔獣の支配に抵抗しながら流浪の旅を続け、都市や街道の合間を縫って安住の地を求めてきた。
三年ほど前に偶然出会ったマジク兄弟はとても腕が立ち、私は喜んで我がエルメタール領の安寧を守る騎士として二人を迎え入れた。
二人がたまに我が領を指してマジク山賊団と呼称するのに忸怩たる思いはあるが、概ねうまくやってこれたと思っている。
一年ほど前には世界中を震撼させた『神のさよなら宣言』もあったが、元々我が身に宿る神の加護は目に見えるものではなく、私はおのが才覚と剣でエルメタール領を切り開いてきた自負がある。動揺を見せることなく領をまとめあげられたことだろう。
転機は半年ほど前だったろうか。
我がエルメタール領と隣接するルーデンス王国との国境争いを避け、魔獣の森を通り抜けていた我々の前に新天地、古き時代の詩に謳われるような廃棄された砦跡が現れた。
私は喜んでこの地を新たなる首都と定め、更なる領土の拡大に取り組み始めた。
しばらくして不思議なことに気がついた。
この世に満ち溢れる魔素が折に触れ結晶化し出現する魔獣。
それが、この砦周りでは全く現れなかったのである。
さよならされた後になって初めて感じられたこれは、神の加護と言って良かったのではないだろうか?
我が領はようやく安穏の眠りを手に入れたのだった。
しかしだ。しかし、である。
安逸が人を腐らせるというのも真実であった。
魔獣討伐に割かれる筈の労力を生活の維持に振り向ける事によって、暮らしに余裕ができればできるほどマジク兄弟はより横暴になっていた。
日々の糧に事欠いていた頃ほど、助け合えていたと思う。
民を守るべき騎士の剣が民を脅かすために用いられる。それを黙って見ているしかないのか?
領を治めるものとして、このままで良いのか?
我が心中には常にその問いが重ねられることになった。
そんなある日の事である。
我が首都を守る複層の探知結界、その内側に突然何者かが現れた。
剣の腕だけで見れば私よりも遥かに上を行き、我が領に来る以前から武名をならしていたマジク兄弟にかけられた賞金は少なくない。定位置を拠点として長期間活動すれば足のつくこともあるだろう。
賞金稼ぎかも知れない。そう考えた兄弟は即座に動ける、戦える者達を集めて迎撃に向かった。
そんな私たちの目の前に現れたのは、珍しい装束、容姿の一人の少年だった。
黒い髪に黒い瞳、あれは古き詩に謳われる華桑の民の特徴だっただろうか。ひどくやつれた面差しはまだ幼いとも言えるほどに若い。
精緻な拵えの立派な鎧に身を包み、細身の剣を片手に下げたその姿は、抜き身を突きつける私たちを前に微塵も臆することのない堂々たるものだった。
腕が立つのだろうか、兄弟を狙ってきたのだろうか。
外縁の結界を悟らせもせずに潜り抜けてきたことが、我々の警戒心を最大にしていた。
だが、マジク兄とその少年とのやり取りから突然、雲行きが変わってきたようだ。
不安、動揺をあからさまに見せる少年はとてもではないが武芸者に見えず、家伝の鎧に着られているだけの頼りない坊やにしか見えなくなったのだ。
そうなるとマジク兄弟が何を考えるか、私には手に取るように分かる。
私の役目も、また。
嗜んだ武芸の一端を披露し、場に呑み込まれたままに見える少年から剣を奪い取るのは容易いことだった。
そう、今、私の手には、この素晴らしい剣がある。
なんだこれは、なんなのだ、これは?
素晴らしいぞ。
握った手から身体中に溢れるこの力はなんだ?
武芸の境地にはいまだ至れぬ遥かな高みがあるというが、私はそこに辿り着いたのだろうか?
この剣があれば、私でもそこに至れると?
マジク兄弟とて足元にも及ぶまい。何もかもが遥か眼下に感じられる。
何もかもをこの手中に納められた実感がある。
そう、全てを思いのままにすることが、今なら何よりも容易いことだろう。
そうなのだ、私の分を超えて。
ちょっと待て、落ち着くのだ、ジークムント・フォン・エルメタール。
いや、ジークムント。
私が、この私が、このような偉大な力に触れさせていただいて良いのか?
この素晴らしき剣に、私の手が触れる、これは、果たして許されることなのか?
触れてどうなる?
触れてどうする?
エルメタール領を守るのか?
いや、言葉は飾るまい、エルメタール盗賊団、いや、今はマジク山賊団か、その下賤な旗を守るのか?
この至高の剣が、そのような低劣なことに?
否。
断じて、否だ。
そのようなこと、許される筈がない。いや、私が許さない。
今まで私が血道をあげていたつまらない矜持など、フォンを僭称し保っていた矜持など、何ほどの値打ちもない。
そんな私に、この剣に触れることを許される、いかほどの価値があるものか?
いや、ある。
一つだけ、この身にも、何者にも代えがたい価値が確かにある。
我が為に剣を振るおうとするから駄目なのだ。
そうだ、この私がこの剣に触れて許されるたった一つの道は、我が為にではなく、今、目の前にあらせられる、このお方のために剣を振るうことのみ。
否、この私が、この世に生きてあることさえ、この方のためにあってこそ許されるのだ。
そうだ、そうとも。
私は、このジークムント・エルメタールは、この方のためにこそ生まれ、生きてきたのだ。
今まで積み上げてきた全ては、この為にこそあったのだ。
そうと分かればやるべき事は明白だ。忠告をしろ、と、髭面が勘に障るバカ笑いをしている。そうだな、確かに我が君には諫言差し上げる必要があるようだ。こんな髭面と、交渉などする価値もないということを。
今すぐにでもマジク兄弟を黙らせてやりたい。いや、黙らせればいい。
頭の中に鈴の音が響き渡る。
それに背を押され、私は一歩踏み込んでいた。
多少の間合いなど、今のこの身には何の障りにもなりはしない
一歩踏み出すだけで我が身は兄弟の間に立っていた。左に兄、右に弟。二人とも、何も見えていない。わざわざ気付く間を与えることもない。
脳裏に浮かぶ斬線、そのままに剣を抜き打つ。
二人の硬質革鎧は仕立てのかなり上質なもので、頸部を守るべく襟がかなり高い。魔珠による強化も充分に行っていると自慢の逸品だった筈だ。
だが、それが何の障りになろうか。
鎧の襟と顎の隙間は、斬り抜けるに充分な広さがあった。
思い通りの斬線を描き、切っ先が十分にマジク兄の左頸動脈を断つ。
振り抜いた剣は既にマジク弟の頭上を越えており、返す刃が、逆落としに彼の左頸動脈を斬り抜ける。剣を納める幽かな音は、やはり澄んだ鈴の音のように聞こえた。
振るわせて頂いたことに深く感謝しながら、跪き、改めて我が君と相対する。
言うべき事は決まっているだろう。
「このような輩、簡単に信じてはなりませぬ」