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あれから三日。
俺はようやく、目標の頂を目の前に見上げていた。
俺の感覚で、ちょうど一週間か。
傍らには、大人しく座っている子狼。
取り敢えず、疾風は没にした。
今はどうせ二人きり、名前はあとから考える。
最初に遊んだときと比べ、こいつの体は一回りくらい、大きくなった。
あの朝、目を覚ましたこいつは、なにか悟るものがあったのかもしれない。
最初に見せてくれた稚気がなくなっていたのだ。じゃれついてきはしたものの、幼子のような、全力で遊ぶような気配ではなくなっていた。
少しだけ成長した子狼は、少しだけ落ち着きを持ち始めた瞳で俺を見つめ、そして、俺についてくるようになった。
まだ戦力としては役に立つものではないが、倒した魔獣を片端から食わせてやって、今に至る。
子狼が食っている間は、進撃も必然的に止まる。だから、俺も一緒に子狼と食った。
同じ釜の飯を食うという言葉があるが、同じ魔獣を食った仲である。結構信頼関係も築けたのではないだろうか?
待て、とか、来い、とか簡単な命令なら、もう理解してくれている。
なんとも可愛いものだ。
このいとおしさが何処から来るのかは、もう気にしないことにした。
あの好敵手たちを信じることに決めたのだ。
あいつらとの約束、あのつがいを食った俺の責任、それを負う俺の覚悟、あいつらの覚悟、俺に託した願い、そこに邪念はない。
俺の血肉と俺とで、この子狼を我が子と為したのだ。
そんな俺たちの道中は、今は落ち着いていた。
実は、しばらく前、具体的にはこの峰がはっきり見え始めてから、魔獣がぱったりと姿を見せなくなったのだ。
高度が高くなりすぎたか、周りには植物らしい植物もない。あるのは雪渓ばかりだ。
まあ、俺は寒さなど感じないが。
あれ、そう言えば、ついさっきまで森に囲まれていたぞ。
この世界は植物も元気なんだなあ。魔獣ならぬ、魔樹だったりして。
地球での植物の限界高度はどれくらいだったろうか。
それはさておき、あの峰にたどり着けば、今回の旅は終わりだ。
そう簡単には、終わらせてくれそうにもないが。
さっきから、鈴の音がずっと鳴り続けている。
チリチリと震えるような響き。
あの峰から聞こえてくる、まるで俺を呼んでいるような風鳴り。
周りに魔獣がいないのは、ここを憚ってのことではないのか?
『お館様、ご注意召されい』
ああ、分かっている。
鈴音に引かれて見上げた遥か高い空、そこにポツリと浮かんだ白い点。
それが、ものすごいスピードでこちらに向かって落ちてくる。いや、飛んでいるのだろうか。
背筋に震えが走るのが分かった。
これは武者震いだ。そう決めた。
だってほら、俺はこんなにもワクワクしている。
なにしろあの相手は。
ファンタジーを夢見るなら、誰もが一度は憧れた筈だろう?
あれは。
あれは、ドラゴンだ。
「下がってろ」
大人しい子狼に命じ、下がっていくのを確認しながら、俺は峰に向かって歩き始めた。
白いドラゴンは、今、峰の頂に降り立つ。
「よくぞ、ここまで来てくれた、異界の風よ!」
……なんだって?
「先だって、お主がこの地に吹き込まれし折よりこれまで、見ていたぞ、強き魂よ!」
なんだこいつは。
あの神だか天使だかの関係者か?
こいつは、魔獣なんてものじゃないぞ?
やばいかな。
やばいだろうなあ。
でもこんな時、逃がしてくれる相手はいないよな。
なんだか、ヤル気満々みたいだし。
「我はこの地の古き風、新たなる異界の息吹よ、見事この我を吹き越えてみせよ!」
ほらな、やっぱり。
さて、ようやく格上が相手か。
相手にとって不足なし。
行くぜ、鈴音、太郎丸。
『御意』
初めての激闘だった。
スピードだけは食らいついているが、パワーも、防御力も、俺の戦闘経験も、何もかもが足りなかった。
開戦の幕は、遠距離からのブレスの一撃で切って落とされた。
渦巻く風のブレスは、鎌鼬の嵐でもあり、充分に距離を空けた筈の、俺の頬から鮮血がしぶいた。
太郎丸の表面にも、鋭い傷が刻まれる。
一呼吸、おいて、頬の傷は治らなかった。
血だけは止まったようだが、疼くような、ひりつくような痛みが消えない。
おかしいぞ。
だが、考える時間を、相手はくれなかった。
峰の頂上から、全身で飛び込んできたドラゴンは、単純なその質量だけで、圧倒的な攻撃力だ。
ここに来るまでの、多くの魔獣との戦いで、ある程度、俺も経験を積んだ筈だ。
それまではずっと、鈴音に教えられる最適な導線を、ただひたすらになぞるだけだった。
だが、その場その場では最適な動きも、単発ではあまり効果がない。
戦いを繰り返すなかで、俺は一手先、二手先を踏まえて最善の導線を選べるようになってきていた筈だ。
それでも、突っ込んでくるドラゴンを相手に、俺は飛びすさって逃げる以外の選択肢を持てなかった。
なにしろでかい。
トレーラーでもまだ足りない。
感覚的にはビルが落ちてくるみたいなものだ。
俺にどうしろと。
そして、ビルと違い、こいつには、手も足もついているのだった。
体当たりをかわした俺に、横殴りの腕が迫ってくる。
この時、俺は、迫る腕を斬るべきだった。
思わず身を守ってしまった俺は、腕に強かに殴られ、吹き飛ばされる。
そこに、反対の腕が待ち構えていた。
カウンターで殴られた俺は、確かに太郎丸の軋む音を聞いた。
鈴音の警告は聞こえていたが、俺自身が追い付けない。
脳震盪でも起こしたかのように、一瞬めまいがしたかと思うと、俺は、ドラゴンに握られていた。
鋭い爪が、太郎丸を貫き、俺の身に食い込んでくる。
きっと、俺は悲鳴をあげていた筈だ。
そんな俺に迫る、巨大な顎。
牙の鋭さは、爪の比ではない。それが、ずらりとならんでいるのだ。
人間でさえ、人体最強の力は噛む力だという。
ドラゴンにかじられて、無事でいられるものか。
だが、絶望的なこの瞬間、ふと、思ったのは、定番だな、ということだった。
場違いなほどに、他人事のように。
テーブルトークRPGを愛するものなら、思い当たることもあるのではないだろうか?
ドラゴン、脅威の六回攻撃である。
右手、爪、左手、爪、かじってブレスの六回攻撃だ。ついでに、投げ捨てたあとに、とどめの尻尾が来たりする。
だが、場違い感も甚だしい、この思い付きが、俺を冷静にしてくれた。
こいつとて、ゲームで出てくるなら、攻略対象のモンスターだ。
戦える、相手なんだ。
強いか弱いかの違いはあるが、そんなものは関係なかった筈だ。
俺は弱い。
このドラゴンの恐ろしさに、簡単に呑まれてしまっていた。
俺は弱い。
だが、俺達は無敵だ。
太郎丸はまだ頑張ってくれている。その証拠に、食い込む爪の動きは凄くゆっくりだ。
そうとも、俺たちの太郎丸、そんな簡単に貫けるものか。
迫る牙は確かに恐ろしいが、まだまだ遠い。
かじられるまでに、牙の本数を数えることすらできそうだ。
そうとも、俺たちの鈴音、このドラゴンよりも絶対に、速い。
俺がブレーキを掛けてしまっただけ。
俺たちはまだ、戦ってもいないのだ。
さあ、ここから仕切り直しだ。
俺の体の状態はどうだ?
どこが動かせる?
鈴音の刃筋は立てられそうか?
刃筋さえ立てば、ドラゴンの鱗とて、なんの守りになろうものか。
鈴音に断てないものはない。
幸いにも手首が動かせた。
体が動くなら、あとはどう動けばいいかは、鈴音が教えてくれる。
太郎丸が守り、鈴音が導き、俺が斬る。
俺達は、無敵だ。
体を貫く爪はそのままに、俺はドラゴンの指を斬り落としていた。
自由の身になった俺をかじるのは諦めたのだろう。
その代わりに、尻尾の一撃が襲いかかってくる。
だが、残念だったな。
その攻撃は、分かっていた。
かざした鈴音が、正面からドラゴンの尾を迎え撃つ。
戦場に響き渡る二度目の悲鳴は、確かにドラゴンのものだった。