35
「少しばかりエスト山脈に行ってくる。しばらく留守を頼む」
最近、宴会しかしてないような気もするが、一同の集まった大広間で食事を囲みながら、何でもないことのように、俺は切り出した。
最初はみんな、ふ~ん、ってな感じで聞いていたが、エスト山脈、に思い至ったのか、なんだってーっっ! と言わんばかりに、騒然としだす。
「えーっと、ユウ殿、そりゃいったいどういう訳ですかい? 山脈に、なんて、何をしに?」
「武者修行」
「……そ、そうですかい」
ベルガモンはすぐに納得してくれた。
ベルガモンが納得すれば、他の男連中も納得したようなものだ。
納得、してくれただろう?
ジークムントは聞くだけ野暮だしな。
酒を注いでいてくれたシャナの手が、一瞬、止まったような気はするけど、その動きに淀みはない。
反対に慌て出したのはルクアだ。
「山脈って怖いとこだよ? ああ、でも分かって行くんだよねえ。えーっと、えっと、そう、ご飯、ご飯はどうしよう? お塩とか一杯準備しないと。あれ? え、誰と誰が行くの?」
「行くのは俺だけだ。他のみんなは砦の修復を頼む。しばらくは大きな戦いはあるまい。ここらで少し骨休めといこうや」
「まあ、そりゃあ、ありがたい話ですがねえ。連戦は老骨には堪えますや。とはいえ、単独でエスト山脈ってえのも、また無茶な話じゃあないですかい?」
「まあ、それも試してみるさ。今回の群れ程度なら、手間はかかるが足止めにもならん。それ以上の魔獣がいてくれるのなら、その方がありがたいね」
誰かの嘆息が聞こえた。
無茶を言っている自覚はある。
敢えて余裕たっぷりに振る舞って見せているが、未知の世界への挑戦なのだ。何が起こるかなんて分かりはしない。
それでも、俺達は無敵だ。
それを証明するための旅でもある。
何があっても、俺達なら切り抜けられるさ。
食事のあとしばらく、俺はルクアの付きっきりで、野営の心得を叩き込まれることになった。
まあ、補佐にベルガモンも入ってくれたが。
ルクアは、行くな、とも、心配だ、とも言わなかった。
ただ、俺の決断に必要なこと、ルクアに出来ることを一生懸命探しては、やろうとしてくれた。
スパイスや塩を詰め込んだ袋を用意してくれたり、火起こしの魔法具の使い方をレクチャーしてくれたり。
そう、実は俺はここで初めて魔法具を使ったのだ。
だが、あまりにも機構的に完成され過ぎていて、燃料がくず魔珠という以外、正直、ライターで火をつけるのと感覚的には違いがなかった。
もう少し感動するかと思ったのに、ちょっと残念である。
「帰ってきたら、ちゃんとあたいのとこへ来てね」
ああ、これまでもきっと、ルクアはこうして幾人も、戦地へ送り出していたんだろうなあ。
ルクアからは決してなにも要求はしないし、ただ、待つのみなんだ。
なるほど、これは責任重大だ。
「ああ、行ってくる」
風呂上がり、俺はゆったりとお茶を楽しんでいた。
隣にはシャナ。あと、太郎丸だ。
この砦の中では、もう太郎丸を隠す必要はない。まあ、脱いでいる時もほとんど無いが。
シャナは黙って座っていた。
食事の場で見せた反応から、なにか思うことがあったのだ、とは思うが、今はそんな素振りも見せていない。
まあ、自己主張の強いメイドなんて、普通はいないよな。
「さっきも言ったけど、エスト山脈に行ってくるよ」
「はい。旅のご無事をお祈り申し上げております」
言葉は定型文だけど、そこに心は籠っている筈。籠っているといいなあ。
まあ、それはともかく。
「俺が戻るまでなんだけどな、しばらくはかかると思うんだ」
「はい」
「その間、ファールドンへ行ってくれないか?」
「それは、ファールドンの拠点でユウ様をお待ち申し上げればよろしいのでしょうか?」
「いや、そうじゃなくてな。アルマーン老からの提案なんだが、その間、行儀見習いとして屋敷に来て欲しいということらしいよ」
そうなのだ。
実は、アルマーン老はシャナが大のお気に入りなのである。
シャナの心縛の呪いを解いてからというもの、アルマーン老はいつもシャナを気にかけていた。
あの後も二度ほど、砦を訪ねてきたことがあるのだが、その時も、なにくれとなくシャナの身の回りのことを心配してくれていた。
アルマーン老は、昔、救えなかった心縛奴隷達に出来なかったことを、シャナにしてやりたかったのだと思う。
それが代償行為であることを、自覚した上で。
「私はそのまま、アルマーン商会のお世話になればいいのでしょうか?」
ああ、そうだぞ、と答えそうになって、気がついた。
わずかばかりに震えた声。
表情は変わらない。
「俺の言い方が悪かったかな? 俺が山に行っている間だけだぞ?」
「はい、かしこまりました」
言い直したにも関わらず、シャナの声の震えは変わらない。
あれ、また気遣いのポイントを外したか?
さて。
シャナが気にしていることはなんだろう?
ここは自惚れてもいいよな。
「大丈夫、すぐに戻ってくるよ。アルマーン老は残念がるかも知れないけど」
「はい、そうですね」
うん、少しだけ笑ってくれた。
でも、まだ足りない。
「大丈夫、無事に帰ってくるさ。太郎丸もいるし、鈴音もいる。俺達は強い」
「そうですね、それを信じなければならないと思うんです。それを信じられる筈とも思うんです。でも、私は戦いを知りません。どなたがどれ程に強いのか、私には分かりません。それなのに、エスト山脈の恐ろしさだけは、何度も何度も、よく聞かされておりました。ですから……」
うむ、皆まで言わせることもあるまい。取り敢えず抱き締めて黙らせる。くそう、いじらしすぎるぞ。
しかし、なるほどな。他の誰も持っていないフラットな視点がどこから来るのか、と思っていたら、強さや戦いの尺度を、自分の中に持っていないからだったのか。
そして、だからこそ、俺達の強さを信じることも出来ないのだ。
今まではそれで良かったのだろう。全てはメイドの分を越える話ばかりだったろうから。
だが、今、失いたくないものが出来てしまったシャナは、信じたいと思う気持ちに押し潰されかけていた。
いや、信じなければならないという思い込みに、追い詰められていたのだ。
そう思えば、グリードとの戦い前に震えていた理由も、はっきりと分かる。
「そうだな、誰が強いとか弱いとか分からないと、安心できないよな。でも、結局、強いか弱いかなんて、関係ないんだ。俺達は強いけど、俺達より強いやつよりは弱いんだからね」
そう、そんな浮わついた、相対的な指標に振り回されなくていい。
俺は信じてもらわなくていい。
ただ、約束するんだ。
こないだは、気持ちが昂ったからにしろ、シャナからやってくれたんだ。怒らないよな?
抱き締める力をゆるめ、わずかばかりに身を離すと、そっとシャナの顎を持ち上げる。
「誰が強くて、誰が弱くても関係ない。俺達は、無敵だ」
初めての、口付け。
こないだのは不意打ちだからノーカンだ。
俺から、シャナへ、初めての、口付け。
抱き締め返してくるシャナの腕に、体に力がこもる。
俺も、全力で抱き締め返す。
太郎丸のいない俺は、本当に非力だ。
だが、だからこそ、全力で抱き締めることが出来る。
「帰ってきたら、続きな」
どこかの映画で聞いたような台詞で、身を離す。
立派な死亡フラグだが、それがどうした。
鈴音の前に立ち塞がってみろ。一瞬で斬り捨ててやる。
「約束だ」
俺は無事に帰ってくるよ。
シャナは、黙って頷いてくれた。
もう、震えてはいなかった。
部屋の前で、シャナを見送る。シャナの姿が見えなくなってから、俺は振り返らずに、声をかけた。
「リム、話を聞こうか」
一瞬、動揺したような様子があったが、観念したのか、リムが姿を見せる。
少し思い詰めたような表情。
「入るか?」
「ここでいい」
そうか。
よし、太郎丸。
「少し、歩こうか」
偽装モードに身を包み、俺はリムを促して、砦の外に出た。
夜も更け、月明かりが美しい。
本当に、風景だけ見ていれば、ここが地球だと言われても、ほとんど違和感がないんだよなあ。あの神だか天使だか、手を抜きやがって。
まあ、空がショッキングピンクとかでも困ってしまうが。
「いい夜だな」
「夜は怖い」
そうか。
少しだけ、言葉を待つ。
「エスト山脈はもっと怖い」
そう言えば、リムの故郷は山脈の中だったか。
恐ろしさは、身に染みているのだろう。
心配、してくれるんだな。
「ついてきたいのか?」
そう問うと、一瞬、怯んだような表情を浮かべた。
そりゃまあ、怖いよな。
「あなたが、いなくなると困る。あなたは山を知らない筈。野営も素人。食事にも事欠く。魔獣には勝てても、山に殺される」
なるほどな、一理ある。
「そこんところだが、心配は要らない。長期間の山籠りはしないさ。さっと行って、すぐに戻ってくるよ」
「……道はどうするの? 不案内な筈」
「目的地があるわけじゃないからな。取り敢えず、一番高いところを目指すよ」
「あなたは馬鹿か」
言葉のトーンを変えずに詰ってくる。ずいぶんと手厳しい。
「山の上に行けば行くほど、魔獣は強くなる。人の手も入らなくなるから、山の恐ろしさも剥き出しになる。単独ならなおさら、山の上なんて無茶」
「とは言ってもなあ、危ないようだったら、戻ってくるぞ。子どもじゃないんだから」
「嘘。武者修行と言った。無茶をしに行く筈。危ないところまで行かなければ、修行にならない」
こりゃ一本取られたな。
確かにそうだ。
俺は俺の限界を試し、超えるために行くのだから。
かといって、連れていくわけにはいかない。
俺達が危ないかもしれない場所へ、他の誰を連れていくことが出来るだろうか?
これは自惚れではあるまい。
それだけの力の差があることを、俺は確信している。
仕方ないな。
「じゃあ、勝負しようか」
「なに?」
不審そうな目。
「ついてこれたら、連れていってやる」
俺は本気だぞ、太郎丸。
『御意』
リムの目の前で、重装モードにチェンジ。
「短剣を、貸してくれないか」
「どうするの?」
怪訝そうにこちらをうかがいながら、リムは短剣を渡してくれる。
「じゃあ、行くぞ」
リムの瞳が剣呑な輝きを帯びる。
うん、本気になった。
よし、行くぞ。
そして、俺は砦に向かって、全力で駆けた。
あっという間にたどり着き、正門にリムの短剣を刺すと、すぐに駆け戻る。
そこには、ほとんど涙目のリムがいた。ちゃんと俺の行った方向に走り出してはいる。立派なものだ。
「どうだ、ついてこれるか」
「どこまで行ったの? 本当に行ったの? 隠れていたのではないの?」
食い下がるリム。
だが、その問いかけは予測済みだ。
一緒に歩いて門まで戻ったとき、そこに突き刺さった自分の短剣を見て、ついにリムの瞳から涙がこぼれた。
なあ、リム。
どうしてそこまで心配してくれるんだ?
そんな姿を見せられると、自分が凄く果報者なんじゃないかと思えてくる。
俺がいなくなるのが、そんなに嫌か?
ジークムントは泣くだろうけど。
俺がいなくなったら、エルメタール団もまた昔に戻ってしまうかもしれないよな。
グリードみたいな連中に目をつけられているんだ。次にやって来るのはマジク兄弟など目じゃないような悪党かもしれないもんな。
いや、本当に俺を、心配、してくれているのか?
「なあ、リム」
「なに」
乱暴に袖で涙を拭いながら、リムが返事をする。
「お前だけに、教えてやる」
いいよな、太郎丸。
俺から離れ、甲冑姿となった太郎丸に、俺は、鈴音を預けた。
俺の意志で初めて、俺は鈴音を手放した。
途端に失われる感覚。
おお、すごいぞ。
夜の森、こんなに真っ暗だったのか。
はは、何にも見えやしねえ。
「リム、どこだ」
「何を言っているの?」
うむ、声しか聞こえん。
声を頼りに、手を伸ばすと、その手がそっと、握られた。戦う手にしては、思ったより柔らかいな。
手探りでその手を握り返し、リムの体を引き寄せる。
いや、引き寄せようとして、リムはびくともしなかった。
さすがに泣けてくるな。
「え、なに?」
「これが、俺だよ。正真正銘の俺だ」
一生懸命引っ張り寄せようとして果たせず、むしろ俺の体の方が寄っていってしまうような力勝負。
まるで見かねたかのように、そっと、リムが体を寄せてきてくれた。
くそう、リムめ。
いつでも鎧姿なんだから。
抱き寄せた体の感触の硬いこと。まあ、こんなこと考えていたら、また助平と言われそうだが。
「俺は弱いよ。弱いんだ。だから俺は強くなりたい。俺達は強いけど、俺は弱いんだ。このままでは、いられないし、いたくないんだ」
子どもじみた想い。
男の子はな、自分の弱さを痛感した時に、そのままではいられないものなんだよ。
強くなる方法が分かっていて、やらずにはいられないものなんだよ。
「戻ってきた時には、もう負けないよ。今度は俺の力で引き寄せて、抱き締めてやる」
あ、今、ビクッとした。
鈴音がいなくても分かる、はっきりしたリムの震え。やべえ、やり過ぎたか。
そう思った時には突き飛ばされて宙を舞っていた。
ああ、締まらないなあ。
真っ暗闇の中の、浮遊感。
怖すぎる。いや、マジで怖すぎる。
二回言ってしまうくらいに怖すぎるぞ。
まあ、すぐに太郎丸が守ってくれるけど。
宙にある間に、体には太郎丸、そして手の中には鈴音が戻ってきた。
世界が色を取り戻していく。
聞こえなかった音が、感じられなかった風が、戻ってくる。
身を翻して、着地。
顔を真っ赤にさせたリムがはっきり見える。
怒ってる?
照れてると信じたいところだが、調子に乗り過ぎたよなあ。ごめん。
シャナとのキスで、気持ちが浮わつきすぎていた。
「俺は弱いけど、俺達は無敵だ。必ず帰ってくるよ」
「帰ってきても、続きはない」
今度は俺が、赤面する番だった。
シャナとの会話を、聞かれていたんだよな。
身を翻して、砦に走っていくリムを見送り、俺は空を見上げる。
空には美しい月。
畜生、見てんじゃねえよ。