1
ゆっくりと、水面に浮かび上がるかのように意識がはっきりしてくる。
身動きこそ出来ないが、心地よいたゆたうような眠り。名残惜しさを感じなくもないが覚醒の時なのだろう。
まぶたの向こう側に明るい光を感じる。
次の瞬間、水風船が弾けたような音と共に俺の体はいきなり地面に投げ出されていた。
否、投げ出されそうになって、やたら固いごつごつした何かにぶつかったようだった。
ようやくはっきりしてきた視界に、俺を抱きかかえる鎧武者の姿が映る。時代劇に出てきそうな古びた鎧武者の面頬の奥はただ黒い闇のようになっていて、その中に熾火のように赤い光点が二つ、ちょうど目の位置に浮かんでいた。
いきなり出くわしたならさぞ恐ろしい形相に見えただろう。だが、その時俺を包んだのは歓喜に満ちた感動だった。
「お前、太郎丸か……!」
「いかにも、お館様。ご無事にあらせられるか」
夢に見ていた。ゲームの中に入り込む小説や絵の中に入り込む物語など、ずっと憧れていた。
その夢がまさに叶った瞬間である。これを喜ばずして何を喜ぶというのか。
同時に、胸にうずく悔しさにも似た想い。
太郎丸、俺は反対したのにあいつが決めた、古くさい名前。大仰な時代劇めいた口調も、あいつが設定したものだ。
あいつが今、ここにいない。それがとても無念だった。
そう思えば太郎丸、お前はあいつの忘れ形見なのかも知れないな。
改めて太郎丸に向き合おうとして、だが、体が動かなかった。痩せ細った体はどうやら満足に体重を支えることすら出来ないらしい。
体の状態は異世界にやって来る直前の、離れの床に転がっていた時のままのようだ。
おいおい、つまり餓死寸前ってことじゃないか。思わず冷や汗を禁じ得ない。
なんというハードモードスタートか。
「太郎丸、頼む」
「御意」
短い応えと共に、太郎丸の体が弾け飛ぶ。
これが、第一のしもべたる太郎丸の能力だった。
細かいパーツに分かれた鎧の部分部分が俺の体を覆っていく。そして、身の内から湧き上がってくる圧倒的なまでに強力な力。
体を支える程度、もはやなんの造作もない。
うん、すごいな、太郎丸。設定したのは確かに俺たちだが、こう再現されるのか。太郎丸との一体感が半端ない。さっきまで感じていた倦怠感やか細い体の身体感覚を上書きして、鎧の隅々までに意識が行き渡る。今なら何でも握り潰せそうだ。
全能感と言っても良いかもしれない。嬉しさが込み上げてくる。うん、俺たちの太郎丸は本当にすごいぞ。
今の俺の姿はさっきまでの太郎丸のような甲冑姿ではない。日本の鎧兜を元に、アニメ的と言えばいいだろうか、洋風のエッセンスも盛り込んだ金属鎧、中学時代の俺とあいつが考えたいわゆるかっこいいデザインの鎧姿だ。日本風、和風の姿ではあるがあくまで『風』。もちろん顔はむき出しだ。ノートの中ではイケメンキャラクターが装備していたものだが、残念ながら今の中身は俺である。絵的には映えないだろうなあ。
改めて身を起こし大地に胡座をかく。
ちょうど目の前に、黒塗りの鞘に収まった日本刀が一振り、鎮座していた。
「お前も来てくれたか、鈴音」
鈴、と、澄んだ静謐な音が響く。
刀を握りしめれば、スッと意識が冴え渡っていくのが分かった。感覚が広がり、肌を撫でる風の動きさえ余さず理解できる。鎧の隅々までを意識できる今の俺に追随するように、鎧に触れる風さえも知覚できた。
これが、第二のしもべたる鈴音の能力だった。
太郎丸も鈴音も、鎧として刀としての能力は言うに及ばず、太郎丸は甲冑を支える膂力と耐久力、鈴音は刀を振るうための理解と感覚と、そして速さとを俺に与えてくれる。
俺自身は死にかけのボロボロの体だが、太郎丸と鈴音に支えられてようやく異世界に立つことが出来たのだった。
鈴音の方は俺が中心に設定していた。
一歩間違えば妖刀に堕する寸前まで練り上げた能力と、ともすれば制御不能に陥りそうになる力をキャラクター、つまり俺との絆で保っている。そのいとおしさたるや筆舌に尽くしがたい。鈴音と共にいれば、きっとあらゆるものを断つことが出来るだろう。どんなことも共に斬り伏せ、乗り越えていくことが出来るだろう。
目の前にある樹など様々なもの。それらをどう斬ればいいかが分かる。どう動けば刃筋が立つか分かる。
俺たちの、俺の鈴音も本当にすごい。生身の眼とはまるで別世界の視界を味わいながら、やっと意識を外に向ける余裕が出来た。
見渡せばそこは森の中のようだった。植生に詳しくはないのだが、地球の、日本の森とあまり差異が感じられない。見上げる空に太陽が二つ、なんてこともなかった。
いくぶん拍子抜けしながら木々の隙間を透かして見れば、遠くに石造りの建物が見える。大きく厳めしい造りはもしかして砦か何かだろうか。
厳しい世界だ、と、あの神だか天使だかは言っていた。闘いが身近にあることをあの建物が証明しているのかもしれない。
果たして人は人同士で戦っているのだろうか。それとも、別のナニかと戦っているのだろうか。
まあ、それもあの建物に着けば分かるだろう。
異世界人との遭遇は思ったより早く達成できそうだ。
「取り敢えず、人を探しに行こうか」
『御意』
胸の内に響く太郎丸の声と鈴と鳴る澄んだ音を聴きながら、こうして俺の異世界生活は幕を開けたのだった。
それから程なく。
砦らしき場所を目指す俺たちに向かって近付いてくる気配があった。
気配、鈴音と共にいる今はまるで疑問に思わず感じているが、考えてみれば不思議な感覚だ。気配ってなんだよ。
足音や息づかい、衣擦れの音や、もしかしたら鎧兜など装備のたてる音、そんなものも聞こえてくる。
7人か……。
当たり前のように近付いて来る人数まで分かる。今は一様に音としか理解できないが、それぞれに音の違いがあることも分かった。もしもっと経験を積んでいけば、この音から相手の状態を推し量ることさえできそうだ。
今はただ大人が7人、程度しか分からないが。ああ、あと、たぶん男だ。もちろん地球人と似たような生体なら、という条件付きだが。
これで全員蜥蜴とかだったら泣ける。
果たして俺たちの目の前に現れたのは、まさに粗野な荒くれ者、って感じの男達だった。スコットランドの独立と人間の自由と尊厳をテーマにした長編映画、それに出てくる男達のような姿。一歩間違えれば野蛮人寸前だな。
いや、一人だけ瀟洒な身なりの男がいるか。あと、二人だけ装備が別格なようだ。それなりに強そうに見えるし中心に立っている。こちらがリーダーだろうな。
全員抜き身をぶら下げているあたり、初遭遇は穏便にいきそうにない。
それにしても全員金髪碧眼か。中世ヨーロッパ風?
平行進化の奇跡にも程がある。誰かの意図を強く感じてしまうほどに。
そんな男たちを前に、俺の気持ちはほとんど揺れ動かなかった。絶対の安心感に包まれているのが分かる。
太郎丸と共にいる限りこのおっさんたちが脅威になるとは思えない。何かあっても鈴音がいる。
さて、こいつらはどう出るだろうか?
しばらくじっとして相手の出方を待つ。
睨み合うような間が空き、お互いに探り合うような数瞬。
待った甲斐あって髭面の、中央に立つ男が先に口を開いた。
「てめえ、どっからここに来た?」
おお、日本語だ。いや、違うか?
日本語として聞いてみようと思ったら違和感しかなかった。それなのに正確に理解できている。
その瞬間、背筋に氷を突っ込まれたような感覚があった。
今、俺が俺として心の中で考えている言語そのものが、日本語ではなかった。全く違和感なく普通に思考している言葉が、既に日本語ではなかった。
思わず二回言ってしまった。自分が動揺しているのが分かる。
無意識の翻訳とかそういうレベルではない気がする。まるで、言語中枢そのものがそっくり入れ換えられたかのように、あまりにも不自然に、自然と異世界の言葉で思考している。
記憶の中のあいつの言葉は皆、日本語として理解できている。それなのに今考えていること、この恐怖の考察さえ俺は異世界の言葉で考えていたのだ。
あの神だか天使だか……俺はいったい、どれだけ脳を弄られたんだろうか?
二度と会うことはないと言っていた。だから考えても詮ない事ではあるのだろう。それでも、この恐怖感に打ちのめされそうだった。
俺は本当に、俺のままなのだろうか?
そんな俺の心に澄んだ鈴の音が響き渡る。
気が付けば掌に黒塗りの鞘の感覚。
気が付けばこの身を覆う甲冑の感覚。
心が、落ち着きを取り戻していく。
そうだ、元々この身一つで異世界まで来たんじゃないか。
俺と鈴音と太郎丸、そしてあいつとの思い出、それだけ揃っていればそれでいい。それを自覚できる俺のままでいれば、考える言語が何であってもなにも悩む必要などないじゃないか。
何も恐れなくていい。まずはこの場を乗りきることに集中しよう。
動揺は、ごく短時間だっただろう。
それでも男たちに怪訝に思われるには充分な時間だったようだ。
「てめえ……刺客って訳じゃあ、無さそうだな」
おっと、いきなり物騒な単語が出てきたな。こいつらは刺客を恐れる身の上ってことか?
なら、いきなり抜き身もこいつらからすれば当然か。うむ、お騒がせして申し訳ない。
目に見えて相手の警戒が緩むのが分かる。
特に中央のリーダー格らしき髭面男は率先して剣、幅広の片手直剣を納めると、満面に笑みを浮かべながら友好的に両手を広げて見せる。
この時、心のどこかでホッとしなかったと言えば、嘘になるだろう。
「いや、悪かったな。ちいっとばかし気が立っていたもんでな。見たとこ腕の立ちそうな武芸者じゃねえか。こうしてお近づきになれたのも何かの縁、客人として迎えたいんだがどうだろう、なあみんな」
「おお、いいんじゃねえですかい? 鎧の拵えも立派だ、さぞ名のある武芸者なんでやしょう」
髭面の隣にいた、もう一人、装備の立派な男が同意してみせると、他の下っ端っぽい連中も追従するように笑みを浮かべながら武器を納めだす。
「おい、詩人」
髭面が呼び掛けたのは一人だけ瀟洒な身なりをしている男だった。いつの間にか俺のすぐ側まで近付いている。
詩人と呼ばれた男は髭面に頷いてみせると、柔らかい笑顔を浮かべ優雅にお辞儀をしてきた。
「物騒なものはお互いに仕舞いましょう。お腰のものはお預かりしますよ」
あっと思った時には遅かった。確かに相手の動きは見えていた。その手が、一見恭しそうに鈴音に伸びるのも見えていた。
だが、心が間に合わなかった。
緊張が途切れた虚をつかれた、というのは言い訳だろう。
きっと友好的に見える姿にほだされ、とことんまで油断しきってしまったのだ。
相手の手に鈴音が移ると同時に、今まで見えていたものが見えなくなる。感じていたものが遠くなる。
鈴音に支えられていた感覚が失われる。
一瞬、目眩がする。
そんな俺に突きつけられたのは髭面の爆笑だった。
「おいおい、てめえ油断しすぎだろう。おい、詩人、忠告してやんな。こんなとこで丸腰になるって意味をなあ」
詩人は変わらず柔らかな笑みを浮かべている。
「そうだねえ、私からも忠告、させてもらおうかな」
一拍、間をおいた次の瞬間、詩人の姿が消える。
ちん、という微かな鞘鳴りが聞こえ慌てて目を向ければ、リーダー格らしき二人の間に立ち、今、まさに刀を鞘に納めた詩人の姿があった。ほんの一瞬の出来事、恐らく誰もが理解できなかったのだろう。皆が皆、キョトンとしたような呆気にとられたような顔をしている。
そんな周りの反応に頓着せず、詩人は俺に向かい鈴音を捧げ持ちながら跪いてきた。
「このような輩、簡単に信じてはなりませぬ」
「おい、詩人、何言って……」
髭面が問いかけようと動いた時だった。
髭面ともう一人、リーダー格らしき二人のそれぞれの首から、鮮血が迸った。
「え……?」
言葉を発したのは誰だったろうか?
鮮血の海の中、言葉もなく崩れ落ちる二人を振り返ることもなく、詩人は平伏する勢いで鈴音を差し上げる。
「御身の刃を汚せし罪、平にご容赦くださいませ。罰は如何様にもお受け致しますが、願わくば残りのこの命、我が君の御為に粉骨砕身、尽くすことをお許しいただきますよう、伏してお願い申し上げます」
うむ、意味が分からん。
鈴音を受け取り感覚が広がるなか、平伏する男に死体が二つ、ついていけずに呆然としている男が四人、俺を含めれば五人か。なんともカオスだな。
いや、考えれば状況は推察できる。
間違いなくこれは、鈴音の力だ。
もともと鈴音は妖刀という設定だった。
持った者を狂わせ、血に飢えた殺人鬼に変えてしまうヤバい刀という過去を与えたのだ。
その妖刀としての意識、その存在意義は斬ることただそれだけだった。その価値観の最上を、しもべとしたその時に主たるキャラクターとした、そういう設定である。
実際のゲームとしては、もともと一定のキャラ作成ポイントを自由に振り分け様々な能力を獲得、組み合わせていくシステムだった。高い能力ほど消費ポイントが多いが制限や不利な条件をつけることで消費を減らすこともできたりする。
しもべという能力、特徴はかなり高い消費ポイントが必要だったが、忠実ではない制御不能なしもべとすることでかなり消費量を削減できた。そして俺は、ルールブックに禁止されていないのをいいことに『主に熱狂的狂信を持つ』という特性を付け加えることで、制御不能でありながら主に絶対背かないという立ち位置を設定したのだ。
正直ルールの抜け穴だが、こうして鈴音は少ない消費ポイントで大きな能力を獲得した、忠実なしもべとして設定された。
これらを総合して考えれば、妖刀時代に価値観の最上、斬ること、を持った者の精神に強制させたように、しもべとなった今は価値観の最上、主たる俺への狂信、を持った詩人に強制させたと考えられる。
なんという洗脳兵器か。
今回は不覚をとったとは言えもともと軽々しく人に預けるつもりはなかったが、これからはより一層、迂闊に人に触らせないよう気を付けなければなるまい。
それにしてもあの神だか天使だか、しもべたちの再現に当たってシステム的なものだけでなく、設定から自然に能力を膨らませてくれたのか。
元の設定ではルールブックを完璧に守るという縛りのせいで、所詮人間が作ったものであるルールの不自然さが設定の不自然さに繋がっていた面はあったが、そこがより自然な形に補正されているとしたら、鈴音や太郎丸がより完全な姿で再現されているということだろう。言わば、俺とあいつの理想の形により近い。
こんなに嬉しいことがあるだろうか?
ともあれ異世界にやって来てたったの一時間も経たないうちに、俺は忠実な部下を手に入れたらしい。
なんというイージーモードだろうか。