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「太郎丸」
「こちらに」
小さな声で呼び掛けてみるが、鈴音を携えた太郎丸が聞き逃す筈はない。一瞬で浴槽の縁に控えて片膝をつく。
手を伸ばせばなにも言わずとも鈴音が帰ってきた。
「ハク」
「うむ、なんぞしたか」
問いながらもハクは躊躇なく湯桶を蹴って俺の中に飛び込んできていた。まあ、口でゴチャゴチャ説明するよりも同化した方が話は早い。どうせナチュラルに心を読んでるんだしな。
凛と違って湯着を着ていない俺の背中から竜の翼が広がる。
突然の俺の動きを見た凛は、戸惑いつつもすぐに湯船から上がっていた。
その時には横に二人の女中が控えており、一人が湯着を脱がせつつもう一人が手早く湯と泥を拭っていく。その間に現れた三人目は浴衣と刀を用意しており瞬間的な臨戦態勢としては十分な準備が整っていた。
これらの一連の動きを見ながらも、俺はそれを意識から閉め出している。水を通して見ている視線。今探すべきはそちらだったからだ。
視線そのものは俺を見ていない、それは間違いないだろう。やはり最初に気付いた時に反応してしまったのが仇となっている。
だが同時に包み込むような違和感は今も続いていた。
つまり、きっと敵は俺を包む水蒸気の動きを追いかけることで二次的に俺を見ているのだろう。それは風の動きから相手の動きを読む鈴音の感覚に似ている。と、考えられる。
だとするならば、だ。
俺に向かう意識の線は辿れなくとも、周囲の水に作用する意識や意思は拾えるのではないか?
「鈴音」
ゆっくりと鯉口を切る。
パッシブでの鈴音はあくまで鈴音が感じるものを俺に教えてくれるだけだ。
だが、今まで何度も、いつでも、鈴音は俺が見たいものを探して見せてもくれていた。
シャナの呪いを追いかけて、神の世界とでもいうべき心珠の中にまで連れていってくれた。
鎖を見せ、猫を見せてくれた。グリードの時もタントの隠密騎士の時も、俺の意志に鈴音は応えてくれた。
だからきっと今回も同じだ。
水を見ている誰かを俺は追っている。
鈴音よ、水を見ているやつは、何処にいる?
その瞬間、頭の中に微かに鈴の音が響いた。
パッと開いた視界に二重写しのように巨大な瞳が見えるような気がする。
その瞳の奥、網膜の集結点、視神経に繋がる線がはっきり見えたような気がした。
実際には多分この空間を包む意識が集約して使い手に繋がっていくラインなのだろうが、俺の感覚的にはまるで眼球の要のように感じられたわけだ。
「見つけた」
言葉と同時に抜刀。光る点のような意識の要を断つ。その瞬間、俺たちを包む湯気の塊がふわりとほどけた。
そして鈴音の感覚は、まるで伸びきったゴムが切られ縮んでいくかのように一点を目指して巻き戻っていく誰かの意識を、確かに捉えていた。
遥か彼方に薄れ消えていく意識の大元を特定することは多分無理だ。どう考えても見失う。
それでも方向は確実に捉えた。
それは意外な方向だった。
今俺たちは大陸南東部のリストにいる。火の領域、ラハルの土地だ。
対して水の領域、ラウィットの土地は大陸北西部、タントの領土になる筈だろう。
だがこの視線の元は真っ直ぐ北、否、どちらかと言うと若干東寄りですらある北方向だ。
そこは国としてはモス・ロンカ。領域としては地、ロディスの土地だった筈だ。
タントがモス・ロンカ経由で何か企んでいるのか?
いや、根源法の使い手が移動してしまえば土地に縛られる必要はないよな。
ともかく見える尻尾を追いかけるとしたら目指すべきはモス・ロンカだ。
その先が何処に繋がるのかはまた、その時の話でいい。
まあ、モス・ロンカと因縁がないわけでもないしな。ボコった司教が法王に泣きついて俺の監視を始めたとすれば時期的にそう大きなズレもない筈だし。
なんとも、敵の多い話だよなあ。
「けりは付いたのか?」
「ああ、そうだな。取り敢えず、敵はモス・ロンカに在り、だ」
「モス・ロンカ教国?」
「方向は間違いない。水の根源法絡みだからタントかとも思ったんだが」
「……貴方でさえ惑わされるような得体の知れない相手でモス・ロンカと言うなら私の心当たりは限られる」
「ああ、例のやつか」
なるほど、黒死卿だったか。
確かにそう考えれば筋が通るなあ。
有史以前に遡り原初の四氏族に連なるかもしれない相手となれば、本来の根源法の使い手の可能性が高い。竜の視線と同レベルなのもむべなるかな、だ。フェルク・ハートマンクラスの敵だとするとこりゃまた大変な感じだよな。
知ったことではないが。
誰が相手であれ絡むなら絡む、ぶつかるならぶつかるで、いずれにせよ全力で迎え撃つことに代わりはない。
では実際にどんな手を打つか、になるわけだが。
「黒死卿と直接やりあってたのは金剛藩だったな」
「うん、実際のところ金剛藩が直接対峙しているのはモス・ロンカ教国なんだ。でも、把握できている黒死卿の拠点が一番多いのも金剛藩になる」
ふむ、なるほど。
「今出来ることはそう多くない。監視から始めたということはおそらく今後搦め手を仕掛けてくる筈だ。相手に時間を与えるのは愚の骨頂だよな」
「確かにその通りだと思う。けれども当てもなく突っ込んだところで得られるものがあるかどうかは分からないよ?」
「分かってる。だから有効なのは揺さぶりをかけることだ。今相手は焦っている筈だよ。視点の方向は見定めた。相手に建て直す時間は与えない。備える時間なく動き出せば襤褸も出るだろう。その兆しを見つける」
気付かれないことを前提とした監視を何のために行うかと考えれば、作戦準備のための情報収集と考えるのがもっとも妥当だろう。
監視途上でそれを食い破られたとしたら当然準備は不十分な筈だ。その状態で懐に近づかれたとしたらどうだ?
完全に動きを潜めるか、その場から逃げ出すか、中途半端に仕掛けるかの三択くらいしか取れない筈だ。
ここで身を潜められるならかなり手強いと考えるべきだろう。だが、きっとそうじゃない筈だ。
気付かれる筈がない監視を破られた、それはおそらく未経験と考えていい。
凛たち華桑の最精鋭が気付けない監視だ。長年華桑の追求を逃れてきた相手だ。きっと尻尾を掴まれたことなどほとんど無いのだろう。
初めての体験を前にすれば千年越しの秘密結社だろうと戸惑いを隠せない筈だ。
俺が突け込む隙はそこにしかない。
これで動じずに隙が見えないならこれはもう仕方あるまい。敵が上手だったと考えて別の道を探すだけのことだ。
「じゃあ……」
「今すぐに発つ。一先ずは金剛藩だな」
「分かった。ギルニー公への謝罪は私が引き受けよう。終わり次第あとを追う。金剛の里への案内が要るね? 紗英、どうか」
「は、問題ありません」
先程凛の体を拭っていた女中が応える。
「紗英は前に遣いで金剛藩に行ったことがある。道案内に不足はないと思うよ」
「分かった、助かる。銀狼の鎧で行く。太郎丸は凛と共に動け」
「御意」
一気に慌ただしくなったがまあ、仕方あるまい。華桑が手を焼く秘密結社が相手だ。尻尾を握っていられる時間もそう長くはないだろう。
今回時間が味方するのは敵だ。
ならば拙速は巧遅に勝る。
まあ、本当に黒死卿が相手かどうかは状況証拠しかないんだけどな。
それでもいい。行けば見える答えもあるだろう。
手早く鎧をまとった俺は紗英を片手抱きにリストの夜空に飛び立つ。
俺が抱えて飛ぶと言っても紗英は恐縮も遠慮も一切しなかった。私情を挟まず任務に徹する、さすが忍の者だな。
赤く輝く山頂火口、カリスト火山を眼下に見下ろしながら、俺たちは一路北を目指したのだった。
新作投稿しています。
もし良ければ祐の物語共々、そちらもよろしくお願いいたします。
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