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夕餉の宴席は滞りなく終わっていた。
終始和やかに宴は進み、和食の真髄、懐石料理もまあ、めちゃめちゃ旨かった。なんとも久しぶりの純和食である。海鮮はなかったが。
忠輝たちは既に本丸に戻り、俺は凛と並んで縁側に座っていた。
宴会に続いて月見酒である。
槙野家との宴席は和やかではあったものの、どちらかと言えば堅苦しい部類にはなっていたし、俺と凛が揃って槙野の主家になってしまうともあって、さすがに無礼講とはいかなかった。
凛に至っては、身分的には自分の父親よりも上になってしまったわけだな。
宴席前に凛と二人、覚悟を決めていなければ、正直重苦しいままで終わってしまっていただろうと思う。
プレッシャーはあるにはあったが、どうにか乗り越えることが出来たようだ。
あともう一つ、和やかさをもたらすに大きな理由があった。
誰あろう、薫の存在である。
常に笑顔の薫は、凛が自慢するだけあって、確かに魅力的な少女だった。
淑やかさと愛くるしさが同居した仕草であったり、いつもにこにこと穏やかな佇まいであったり、かと思えば、ちょっとした話にコロコロと笑い転げる天真爛漫ぶりであったり、なるほど、確かに自慢の妹だろう。
顔の造作と、その人個人の魅力とは必ずしも一致しないことを、俺は初めて実感したとも思う。
いや、そもそも日本でも、お多福は別に不細工というわけでもなかったか。
なにしろお多福は誉め言葉だ。後代でこそ醜女を貶す言葉として使われてはいるが、福が多いとか、その漢字のチョイスからして明らかだろう。
そしてまあ、華桑の人たちにとっては、薫は容姿も心根も全て満点の、疑うべくもない美少女っぷりだったのだろうな。
最初の挨拶こそ固く礼式に則ったものだったのだろうが、そのあとはまさにムードメーカーと呼んで良かっただろう。
その話のネタが、ほとんど凛の武勇伝であるあたり、凛には言いたいこともあったかもしれないが、俺と出会う以前の凛の様子を教えてもらえたのはまあ、とても楽しい時間だった。
宴席の場に、本当に多くの福をもたらしてくれたものだよ。
その薫の旦那は終始緊張したままで、見ていて気の毒になるくらいだったが。
名は光輝。槙野の血筋を守るためではあるのだろうが、凛と薫にとっては従兄弟にあたる少年だそうだ。
薫とは同い年になるらしく、俺より少しばかり年下になるようだ、たぶん。
本家に婿入りしたという形であり、光輝の親族は今回の場には同席していなかった。凛の父、忠輝、母親の澪、次期槙野家当主予定の薫の夫、光輝、そして凛の妹の薫。俺たちの他はこれだけが、今回のささやかな宴席のメンバーだった。
「いい酒が飲めたな」
凛のお猪口に徳利を傾けながら話しかける。
「うん……」
応じて俺にも注ぎ返してくれる凛は、だが、少しばかり憂い顔だった。
どうしたかな。
まあ、時間はたっぷりある。急かさなくてもいいか。
「あれが、私の家族なんだ。自分で言うのもなんだが、いい家族だと思ってる」
「うん、そうだろうと思うよ。あの場にいるとな、いい家族はいいものなんだなあ、と思えたのは確かだ」
うん、まあ、大体分かった。そんなことでしょげなくてもいいのにな。
「お前、はしゃぎすぎたとか思ってるだろう」
「う……、そ、そうだ」
まったく、可愛いなあ。
ああ、俺は本当に幸せなんだろうな。こんなにも、俺に対して気遣いをくれる。それはつまり、こんなにも俺に対して執着してくれているということだ。
これで満たされないとか、あり得ないだろう。
「貴方が家の事に触れたがらないのは理解しているつもりだ。その貴方の前で、少しばかり度が過ぎたかと反省している」
「なあ、凛」
「うん」
今さらなんて遅すぎる気もするが、少し話をしようか。
昔の事、凛に話したことはなかったなあ。申し訳ないのは俺の方か。
きっと聞きたいのを我慢してくれていたのだろうに。
「俺には家族がいなかったんだ。血の繋がる人間はいたが、俺の家族と呼べる人は、俺には最初からいなかった」
「うん」
「親友が、一人だけいたんだ。だけど、そいつも失った。事故で死んでしまったんだよ」
「そうだったんだね」
「そんなわけで、俺に生きる意味はなくなった。だから、死んだ」
一拍だけ、間を置く。
凛はなにも言わない。ただ、じっと俺を見つめているだけだった。
否も、応もなく、ただ、俺の言葉の続きを待ってくれている。
「本当の意味で、俺は一度死んだんだよ。まあ、それを神様が拾い上げてくれたわけだが」
もちろんこの神様はくそローザなどではない。
この世界の人たちには決して言うわけにはいかないが、あの人のことだ。俺が尊敬し、心から感謝しているあの人のことだ。
そうとも、あの神だか天使だかなどではないぞ。
まあ、それはともかく。
「ルーデンス、国じゃなく、この大陸な、このルーデンス大陸に来て、いろんな出会いがあって、お前とも会うことができた。みんなのお陰でな、俺は家族もいいかもって、やっと思えるようになった気がするんだ」
「うん」
「凛のお陰で小鳥遊の名はもう好きになったよ。槙野の家族もいいものだ。薫も可愛かったしな」
「う、あ、薫は駄目だぞ、もう人妻なんだから」
あっはっは。
「新しい家族が出来ること、それが嬉しいと言ったら信じてくれるか?」
「ああ、もちろんだ」
「いい家族はいいものなんだ、と、俺はやっと分かったよ。だから凛、俺もいい家族を作りたいと思ってる。さっきの宴会はな、本当に楽しかったよ」
「うん……うん、そうだね。ああ、信じる、信じるとも」
迷いを振り切るように、凛は一度だけ、グッと目を瞑る。
そして再び目を開いたときには、もういつもの凛だった。
「貴方に、華桑一門の総意としての、父、槙野忠輝の決断をお伝えする」
「承ろう」
うむ、真面目な話だな。
「これより我ら華桑一門は、小鳥遊家のもと、扶桑の血脈を継ぐものとして、共に新たな歴史を拓くことを約束する。貴方は先に、この地に再誕したと言われた」
「ああ、そうだったな」
「我らはその言葉をこそ共に抱き、扶桑の末裔、日本の影を追うことなく、ここから新たな華桑の歴史を共に拓くと誓う」
なんと、それは……。
「……そこまで、してくれるのか」
これはヤバイ。マジで泣ける。
本来なら同じ扶桑の裔として後を追ってもおかしくなかろうに。
これは俺への配慮だ。それ以外考えられない。
「たとえ祖が同じといえども、海を隔てながら全く同じ姿にならなければならぬ道理などない。我らはそう考える。我らが正しき扶桑の姿を守り抜いたことを、貴方は認めてくださった。故に我らの本懐は既に果たされた。さればこの先の未来は海の彼方にではなく、貴方と我らとの掌中にこそある」
だから、と凛は俺に微笑みを向けてくれた。
それは慈しむような、俺を包み込もうとしてくれているような笑みだ。
「だから、我らは貴方に日本を問わない。貴方が話す日本以外を問わない。そう決めた」
ああ、この感謝を、俺はどう表したらいいだろうか?
未来はここにある、か。
「光輝は残念がりそうだったけどな。色々聞きたそうだったし」
「あはは。うん、あの子は少しばかり頭でっかちというか、理が勝ちすぎるきらいがあってね。それでも誰よりも扶桑の歴史習俗に真剣だったし、きっと誰よりもたくさん書を読んでいる。憧れそのものでもある我らが知る扶桑のその先を、貴方が知っていると思えば固くなるのも頷けるとは思うよ」
「なるほどね」
「でも、それとこれとは話が別だ。いずれ歳月を重ねて、貴方が話しても良いと思ってくれたなら、その時に喜べばいいんだ」
ズバリと言い切る凛。
この瞬間に決まったと言っていい。
俺は絶対に、凛に足を向けては寝られない。
惚れ直したとかいうレベルではないぞ。
ああ、そうとも、仕方がない。
足を向けないためには、抱き締めて並んで寝る以外ないよな。
うん、仕方がない。今夜もそうするしかない。
杯の向こうに見える凛。
その表情は満足げにも見える。
俺はその凛に頭を下げた。
本気で下げたんだ。
「凛、感謝する、ありがとう」