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「貴公は神の声を聞かれたか」
庭に佇む男は、足下の花から目を離すことなく、背中越しに聞いてきた。
幽玄の間の石庭とは違う、洋館にしつらえられた瀟洒な中庭だ。
完全に人払いのされたそこで、俺を待っていたのはルーデンス国王その人だった。
朝飯のあと、四水剣門下の挨拶を受けるため、凛は水心流宗家として道場の方へ行ってしまった。
一気に暇になったなあ、とか思っているところに来た報せがブラウゼル来訪である。
本丸へ上がる門のところで足止めしているそうで、通して良いかどうかの確認だったのだが、どうせこちとら暇をかこつ身の上、わざわざ上がって貰うまでもない。
散歩ついでということで、すぐに二の丸に向かうことにした。
着物の袂に腕を隠し、雪駄を引きずりながら肩で風を切って歩けば、おお、時代劇の主人公っぽいじゃないか。
まあ、浪人寄りなのはご愛嬌だが。
流石にべらんめえで喋るつもりはないぞ。
曲輪の門に辿り着いてみれば、流石に鎧は脱いだらしいブラウゼルが待っていた。
厳めしい軍服に身を包み、腰には普通の剣を下げているんだが、サイズ的にショートソードにしか見えない。
「よう、久しぶりだな」
「わざわざのご足労、まことに忝ない。ご同道願えましょうや?」
おっと、そうきたか。
「うむ、苦しゅうない。よきにはからえ」
そうだよな。
ここ、華桑においては俺への態度が重視される。重視されてしまう。
ブラウゼル一人ならともかく、その咎が王家にまで及ぶとなれば、王国騎士としての振る舞いも自ずと定められてくる。
さすがは侯爵家の御令息、礼儀作法はバッチリだな。
意外に似合っているのがなんとも。
いや、意外というのも失礼か。もともと動作に品もあったしな。
まあ、苦しゅうない、と言った瞬間、微妙に片眉が跳ね上がったりもしていたが、まあ、鈴音以外には気付けない程度だ。見咎められることはあるまい。
「聞いたぞ。タントにまで足を伸ばしたそうだな」
「ああ、そうだな。まあ、縹局は国境線を無視しているからな。商売相手がそこにいるだけだよ。たまたまみんなが、そこをタントと呼んでいるだけで」
門を離れ、二人で歩き始めてしまえば、いつものブラウゼルだった。
「それでもだ。よく行けたな」
「ルーデンスが潜在敵国を警戒するのは分かる。だが、俺たちはそれに縛られたりしないよ。ルーデンスを憚るつもりはないからな」
「そんなことは分かってる。貴様自分の立場を分かっているのか? 仮にもタントの陰謀を打ち砕いたんだ。貴様がどう思おうと、タントにとって貴様は敵だ。よく無傷で戻ってきたものよ」
おお、そんな心配をしてくれていたのか。
「今さら、だったかな。うちはとっくに交易路を開拓していたし、特に問題はなかったぞ。俺はともかく縹局自体は陰謀を潰して初めて入った、ってわけではないからなあ。それに、タントがしばらく大人しくなることも分かっていたのでね」
「む、どういうことだ」
「しばらくは静観するつもりらしいよ。まあ、縹局の存在が国益に利する間はな」
「その情報……そうか、ルドンの組織を傘下に置いていたな」
「ま、そんなとこだ」
まあ、実際はヴォイドからの情報なんだが、ここんところを明らかにするわけにはいかない。ブラウゼルには悪いが、勘違いしたままでいてもらおう。
「それに、タルトでの縹局の活動も妨害されてないし」
「そういうことか。だが用心しろよ。タントならその情報そのものが騙す手管になっていても不思議ではない。迂闊に信じれば手のひらを返されるぞ」
「ふうむ、少しは信じてやったらどうだ?」
「信じて煮え湯を飲まされた記憶が多すぎるんだよ」
「なるほど、そりゃあタントも自業自得なのかもな」
さて、実際のところはどうだろう。
敵国である以上、ただ馬鹿正直に信じる方がおかしいのは分かる。それでも、絶対に騙す気だ、と決めつけられて相対されれば、そりゃあその期待に応えたくもなるよなあ。
「まあ、心配かけたな。ありがとう」
「別に心配などしていない。どうせ罠を張っても、貴様なら食い破って出てくるのだろう」
「ま、そうとも言う」
ったく、素直じゃないな。どの口で用心しろ、と言ったのやら。
ともあれ、そうして案内されたのが、ルーデンス勢の滞在している洋館だった。
和風の庭を抜けた先にいきなり建っているわけだが、意外とすっきり溶け込んでいた。
イメージ的にはもろ鹿鳴館だよなあ。
ルーデンスのメイドさんと華桑の女中さんが仲良く働いている。
ブラウゼルが連れてきたのが俺とあって、華桑の女中さんがビックリしているけど。
洋館は四棟構成で建てられており、俺が案内されたのは南館だ。
西と北は無人みたいだが、東には人が入っている。もしかして、あちらがリストかな?
「五ヶ国分と考えると、一棟足りないな」
「北館がモス・ロンカ、西はタントだ。サルディニアには下の馬場が開放されると聞いた」
「なるほど、天幕持参で来るわけだな」
「そういうことだ。なぜ俺が説明しているんだ。貴様の管轄ではないのか」
「そうは言っても、今のところは俺も客分、俺だって昨日着いたばかりだよ」
「む、そうか」
微妙に納得してなさそうだが、まあ、気にするまい。
玄関から入ったブラウゼルは、そのまま大広間を貫通していく。そして、建物を抜けて庭に続く扉の前で足を止めた。
「……言いたいことは山ほどあるが、俺はここまでだ」
「ん、案内ありがとう。終わったら一緒に飯でも食うか?」
「俺がここで、分かったと答えられると思うか?」
「それもそうか。ま、またあとでな」
「貴様、無体を働くんじゃないぞ」
「分かってるよ。無茶はしないさ」
軽く片手を振って見せると、俺は中庭への扉をくぐった。
しかしブラウゼルよ。
なんのために俺をここまで連れてきたのか、最後まで言わなかったな。
まあ、大体察しはついているし、別に構わないけど。
ブラウゼル自らが礼を尽くして迎えに来るんだ。断られることなどあってはならない、ということだろう。
ライフォート不在のタイミングというのは、王都での一件を配慮してくれているのかな?
警戒を解くつもりはないが、かといってわだかまりをいつまでも抱えているつもりもないんだが。
まあ、配慮に配慮を重ねて、なんとか断らせない方向で面子を守ろうとしている相手、と考えればこの扉の向こうに待っているのが誰かは明らかだ。
果たして、庭に佇む男の頭には、王冠が輝いている。
そして。
名乗りもなく、かといって誰何もなく、男はポツリと呟いた。
「貴公は神の声を聞かれたか」
その瞬間、ルーデンス王の声音からうかがえたのは、まるで心細さのようだった。
さて、どういうことだろうか?
どこかしら不安を抱えたような、途方にくれたような、いや、だからこそ真摯な問いかけ。
神の声を聞いたか否か、それがどんなに重い問いなのだろうか。
まあ正直、問いかけの重さ、軽さは俺には関係ない。知ったことでもない。
だが、その真摯さは、とすりと俺の胸を衝いた。
この問いかけは、誤魔化せないな。
「ああ、会ったよ」
「……そうであられたか。神は貴公になんと?」
「善き人生を」
これは、あれかな。死に目に会えなかった人が最後の言葉を知りたがる心境だろうか?
日常的に神がそばに憑いていたこの世界の人間にとって、あの神だか天使だかのさよなら宣言は、まさに親に捨てられた子どものショックに等しかったんじゃなかろうか?
まったく、くそローザめ。
一度だけ、ルーデンス王は天を仰いだ。
そして、ゆっくりと俺に向き直る。
「お初にお目にかかる。余が、リングラード・バートヒルトである」
改めて名乗ったリングラードからは、先程の心細さみたいな気配は、もう全く感じられなかった。
静かな透徹した瞳が、真っ直ぐ俺を見つめている。
「小鳥遊、祐だ」
「お会いできて光栄だ」
「まあ、今までの色々な配慮には感謝しているからなあ。今だってそうだ。謁見の間に呼びつけられていたならブラウゼルの顔に泥を塗らなければならないところだったしな。気配り、感謝する。ありがとう」
一度きっちり、軽くではあるが、俺は頭を下げて見せた。まあ、リングラードはあまり驚かなかったようではあるが。
そして、顔をあげながら、俺は敢えてニヤリと笑う。
「まあ、配慮は俺に対してだけでもないんだろうけどな。密談したと思われるのも、損だもんな」
俺の視線は東館の窓のひとつだ。
鈴音に支えられた俺の感覚には、その窓の辺りからこちらを見つめる人の気配が引っ掛かる。
もしかしたら、ギルニーかもしれないな。
国が違えば、まあ、棟も変わるわけだが、中庭は共有部分だ。
リストとどんな約束をしていたのかは分からないが、この会談は、どうやらかなりオープンに行われたらしい。
別段やましいところがあるわけでなし。まあ、構いやしないわけだが。
リングラードも悪びれることなく、軽く頭を下げてきた。
「慧眼、恐れ入る。無知ゆえの恐怖に目を曇らせるのも愚かしい。お察しいただきたい」
「気にしていない。別に呼んでくれても構わないぞ」
まあ、一国の王が会談中になるわけだ。向こうの感覚からすれば、混ざろうと思うやつがいるわけないとも思うけど。
だが、リングラードは一瞬苦笑を閃かせると、首肯してくれた。
「では、会食の場を提供しよう。改めて、参加願えまいか?」
「わかった。よろしく頼む」
かくして、首脳会談が開催される運びとなったのだった。
まあ、別段構える話でもない。
誰が相手であっても、俺と縹局の往く道が変わるわけでもないのだから。
王家の提供してくれる会食だ。いったいどんな料理が出てくるのだろうか?
俺にとっては、そちらの方がよほど気になる話なのだった。
ブラウゼルが言うには、エスト山脈の魔獣の肉の方が旨いらしいけどな。