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「あー、緊張した」
「貴方でも緊張することがあるんだね」
「そりゃあな、木石じゃああるまいし。下手を打って、貴様なんぞに娘はやらん、とか言われたら困ってしまうじゃないか」
「いや、こちらから申し込んでおいて、今さらやらん、とかあり得ないんじゃないか?」
呆れたように笑う凛と俺は、幽玄の間、と呼ばれる客間に通されていた。
本丸御殿から渡り廊下を通って離れに案内されたわけだが、それ一つだけで立派に屋敷と呼べそうな離れ全部を指して幽玄の間、だそうだ。
最上級の格式の客間、ということらしい。縁側からは石庭が一望できる。
さすがに普通の鎧下のままでは憚られたのだろう。部屋には俺のための着物を用意してくれていた。
俺の目だと、土産として渡したあの着物とどう違うのか、いまいち区別がつかなかったりする。
そして、それを腹の中に飲み込んだ太郎丸の偽装モードが今の俺の姿だ。
やっと鈴音が腰に戻ってきて、少し落ち着いた気がするよ。
「あー、その、なんだ」
「どうした、凛。言いにくいことか?」
「いや、その、な。絶対にあり得ないことなんだけれど、万が一にも起きないことなんだけれども、もし仮に、仮にだぞ? もし貴方の言うように結婚を許さん、と言われたらどうするつもりだったんだ?」
「さらって逃げる」
即答すると、凛はちょっと呆気にとられたようだった。
そして、少しだけホッとしたように笑う。
「なんだ、全然困らなかったじゃないか」
おお、そう言えばそうか。
「確かにそうだなあ。まあ、お前が困らないなら、な」
「あはは、ありがとう。詮無いことを聞いた。済まない」
ふむ。
軽く流しはしたが、凛が困らないと言うのは、実はものすごくハードルが高くないだろうか。
まあ、仮定に仮定を重ねている以上、あまり意味のないことかもしれないが、凛をさらって逃げるというのは正直現実的とは思えない。
凛が、華桑と袂を別つとは思えないのだ。
華桑を背負った人生というものが、ナチュラルに凛自身と同化している。そんな状態で凛をさらっても、困ってしまうだろう。
まあ、そうであるにも関わらず、俺がさらって逃げる、と明言したことを喜んでくれたあたり、俺はきっと、物凄く果報者であるに違いない。
「さあ、では、どこから案内しようか。まずは何を見たい?」
「そうだなあ」
嬉しそうな凛を前に、こっちまでワクワクが高まってくるよ。
でもまあ、行く場所は悩むまでもない。城に来たならば、やっぱり一度は行っておかないとな。
「天守閣に登りたい」
「うん、わかった。さあ、行こう」
旅装を解いただけで袴姿のままの凛は、軽く立ち上がると笑顔で先に立ってくれたのだった。
「おー、絶景かな、絶景かな」
大事なことなので二回言ってみました。
七層八階建ての天守閣最上階からは、華桑の町並みが一望できた。
反対の窓からはローザ山を見上げることが出来る筈だ。
時代劇のナレーションシーンとかに重ねて、江戸の町並みとかを俯瞰する映像をよく見たものだが、CGではない生の風景とはなんだろう、景色の重さが違う気がするね。
いや、景色に重さがあるのかどうかは知らないが。
鈴音の助けがあれば、町の雑踏の表情までよく見える。
空き地で喧嘩して泣かされている子どもとか。
「すごい景色だな」
「そうだろう。千年守ってきた、私たちの町だ」
誇らしげな凛。
その凛が吹き出した。
「なんだ、どうした?」
「いや、新鮮だと思ってね。いつも貴方を驚かせるのは難しいのに、ここに来て、貴方は驚いてばかりだ。貴方の驚いた顔が見れるというのは、得難い機会だと思うよ」
「そうかな。まあ、この景色を見せられたら驚く以外にないよ。でかい山、でかい城、でかい町、そしてでかい船」
「船?」
「ああ。ローザ河を遡ってでっかい船が近付いてきてるよ。帆柱の天辺の旗は、ルーデンス王都で見た旗と同じ紋様だな」
「なんだって? 王家の御用船か。ルーデンスがもう来たなんて」
慌てたように目を凝らす凛だが、どうだろう、見えるかな。
「ううん、あれかな? 私にはよく見えないな」
まあ、かなり遠いのは間違いあるまい。
いや、別に驚かし返して満足とかしていないぞ?
意趣返しだなんてとんでもない。凛の驚く顔がとても可愛いだなんて、思ってないこともないけど。
「もう少しゆっくり出来るかと思っていたのに、忙しくなりそうだな。残念だ」
「そうか? 別に俺たちが接遇に出なければならない訳でもないんだろう? 城の出迎えは城の連中に任せて、俺たちはゆっくりしていても構わないと思うが」
「まあ、そうなんだけどね。いずれにせよ今あの距離なら、入港は夜になるだろう。どう転んでもいいように、それまでにやりたいことがあれば、やってしまおう」
「分かった。とはいえ、見物以外にやりたいこととか、特に思い付かないなあ」
「それもまたよし、だ。さあ、何処に行こうか」
「何処へでも。任せる」
そこから先は割愛してもいいだろう。
俺にしてみれば、凛が如何に華桑を愛しているか、それが再確認できただけでも充分だ。
いや、冷静を装っているわけではないぞ、たぶん。
案内される先から先へ、テンションが下がることはなかったとだけ、言っておこうか。
きっと凛のテンションも高かった筈。
俺は、そう信じている。
ルーデンスの御用船が着いたのは、城の外堀に作られた桟橋だった。
そこで艀に乗り換えて、内堀まで水路を辿っていくらしい。
そこから二の丸に設けられた洋館に案内されるという。
長年、ルーデンス王家と交流してきただけあって、大陸文化を迎える準備も万端か。
大陸最強国家の王を迎える場よりも、俺の逗留場所の方が格上とかいっそ潔いね。
桟橋のざわめきが、見下ろす櫓にまで届いてくる。表情が険しい凛を見れば、ざわめくのもまあ、当たり前かとも思うわけだが。
凛の視線は、桟橋に降り立った初老の男に釘付けだ。
「信じられない。あれはギルニー公本人じゃないか?」
「ふむ、そのギルニーがなんなのか俺は分からんが、そんな重要人物なのか?」
「ああ、そうだ。リストの大貴族で公爵になるんだが、公爵位は実質ギルニー家以外になく、王に次ぐ最高権力者と言っていい。しかも」
「実権は王より高い、とか?」
「……なぜ分かるんだ」
「お前の顔に書いてる」
「な……!」
慌てたように頬を押さえる凛。可愛いなあ、まったく。
「お前の驚き方が尋常じゃなかったからなあ。それでしかも、ときたらまあ、推測も立つ、よな?」
「貴方の察しの良さには本当に敵わないな」
ふうむ。これもひとつの戦闘経験、かな?
同じようなパターンは、小説なんかで幾度となく見たぞ。
「ギルニー家はリスト建国以前から地域の実権を握っていた名家でね、当然建国にも大きな功績がある。多くの豪族の中でギルニー家の助けを得たからこそ、現王家が王家たり得た、とも言われているな。国土の半分はギルニー家の領地だし、王族の若者は必ずギルニー家に留学して教育を受けるのが習わしだ」
「それ、どう考えても王家がお飾りじゃね?」
なんだ、そりゃ。
名よりも実をとったか。好き放題やりながら、責任だけは王家に取らせるとか、か。もしそうなら、えげつない話だが。
まあ、裏に徹して汚れ役を引き受け、王家と王国の安定に努めるというパターンもあるか。
なんにせよ、リストの大貴族が直接、何故かルーデンスの船で乗り込んできたというのは、確かに大事だと言えた。
だからこそ、凛と二人、船の到着を見守っているわけだが。
話は夕方に遡る。
見張りや伝令の慌ただしさに興味を引かれ、大分近付いたとはいえまだ遠くのルーデンス船を見に行ったのが始まりだった。
大河を見下ろす櫓から船を見てみれば、マストにはためく旗が二枚。
その瞬間、凛の顔色が変わった。
「あれはリストの国旗じゃないか!」
リスト、大陸南東部のルーデンスの友好国だったな。
確かに、いかに友好国とはいえ、同じ船で参上するとか、おかしな話だよな。
凛の反応を見る限り考えられない事態のようだし、いったい何があったのやら。
船旅が、両国の首脳会談の場であったとするなら、果たして議題はなんだったのだろうか?
過去に例の無い事態であることに間違いはなく、何事かと気になってしまった凛と一緒に、俺たちは船の到着を見届けることにしたのだった。
リストのギルニー公と、その大勢の随行に続き、ルーデンス勢も船を降りてくる。
最初に姿を見せたのは、見慣れた黄金の鎧だった。相変わらず巨大な剣を背負っている。
船の上であの重装備とか、あいつは何を考えているんだ。落ちたら一巻の終わりじゃないか?
それともあの気の爆発とかで、岸まで飛んでいけたりするのだろうか?
まあ、梢の上を軽々と飛び回っていたくらいだ。あいつなら、あの鎧姿で泳げるのかもしれないが。
そんなブラウゼルを先導にして、姿を見せたのがルーデンス国王だった。
ルドン公よりは少し若いくらいだろうか?
俺が最初にもらったあのルーデンスの古装、あれをもっと豪勢にしたような衣装に、腰に刀を差している。
なんという和洋折衷。
その傍らにいるのは、あれはライフォートだな。
ライフォートも、腰に差しているのは刀だぞ?
あの大剣はどうしたかな。
ルーデンスの刀、か。四水剣の一つ、秋水剣なんだろうな。
それにしても、ブラウゼルとライフォート、か。
王国騎士と王宮騎士の二枚看板というか、二大巨頭というか、えらく中枢がやって来たものだよ。まあ、国王本人が来ているんだ。これ以上無いくらい中枢ではあるんだが。
「ライフォート卿にブラウゼル卿、か。王国の双璧が揃ったな」
凛も感嘆の声をあげている。
なんとも錚々《そうそう》たる顔ぶれだよな。
サルディニアからはゼルガーンを始め、王と大氏族長が揃う。
大陸の権力者が一堂に会するわけだ。果たしてタントからは誰が来るものやら。
あとはモス・ロンカもか。
これだけの面子が何をしに来たのかと言えば、俺と凛の結婚式を祝いに来たわけだろう。
……なんともはや。びっくりだね。