戻ってくる
蒸し暑い夏のある日。
田舎にある中学校のグラウンドで、大勢の生徒たちが何らや熱心に作業に取り組んでいる。太い杭を地面に打ち、鉄のポールを取り付け、その上に少し汚れた大きな灰色の布をかぶせる。キャンプ用の丈夫なテントだ。それらが広いグラウンドのあちこちにいくつも立てられていた。日はすでに傾きかけ、生徒たちの色濃い影が茶色い砂地に踊っていた。
この中学校では毎年、夏休みの半ばの二日を使って、生徒たちが学校に一泊するという恒例行事を行っている。いわゆる校内キャンプというやつである。
今年も昼過ぎから生徒たちが集まり、テントを立て、夕食の準備をし、各自、体育館に寝袋を取りに行ったりしていた。彼らにとっては普段通い慣れた場所だというのに、今日は何だかとても新鮮に思える。夜になっても家に帰ることがなく、みんなと一緒にグラウンドで眠るのだ。誰もが開放的な高揚感を味わい、にぎやかな夏の夕べを過ごしていた。
グラウンドの端のほう、校門からもっとも遠い奥まった場所に、ひとつのテントを立てた三人の少年がいた。彼らは同じクラスで、クラブも同じ、家も同じ方向でとても仲が良かった。何でも同じというだけでなく、とにかく馬が合うのだ。今回も当然、三人で一緒にキャンプの一夜を過ごすことに決めていた。
子供たちだけの楽しい夕食を終えたところで、エフ少年が言った。
「もう夜だなんてあっという間だなあ。一泊だけだなんてもったいない」
「本当だ。明日もあさっても、何なら残りの夏休み中、ここにいたっていいぐらいだ」
エイチ少年はもうすでに寝袋の上に寝転がっていて、大きなあくびをかみ殺した。
一方、アール少年はテントの外にいて、
「おいおい。今日の夜は例のあれがあるじゃないか。これからもっと楽しくなるに決まってるさ」
とにやりと笑った。
ほかの少年ふたりも、ああそうだったと顔を見合わせて笑う。
今夜は校内キャンプ恒例の肝試しがあるのだ。夏の夜の学校で肝試しができ、しかもどんなに遅くなっても親や先生に怒られることがない。少年たちにとってこんなに楽しいことはなかった。
肝試しはテントごとに順番に行う決まりになっていた。あまりに大勢で押しかけてもわいわいがやがやと興ざめするし、不気味な雰囲気も出ない。順番は前もってくじ引きで決められていて、三人の少年たちはまだまだあとのほうだった。
アール少年が暗闇にたたずむ校舎を見ながらつぶやいた。
「一体何が出てくるのかな…」
「どうせ何も出てこないのに決まってら。ただ道が暗いってだけさ」
「いいや分からないよ。もしかしたら出てくるかもしれない。ほら、あの話があるだろ」
エイチ少年が声をひそめて二人の顔を交互に見た。
恒例の肝試しには、この学校に伝わる七不思議が起こると噂されているのだ。ほかの七不思議が一体何なのかは誰も知らないが、これだけはみんなが知っている。毎年、校内キャンプが終わる頃にはちょっとした騒ぎになるほどだ。
肝試しそのものは単純なものだった。昇降口の外からスタートし、一年生の教室のある建物のすぐそばを抜けて、中庭に出る。その外れに小さなお堂があって、そこをぐるりと回ってからまた来た道を戻るだけだ。ゆっくり歩いても五とかからない道のりである。
しかし、ごくたまに、途中で悲鳴を上げて逃げ出してくるものや、何やら悲しげに泣いて帰ってくるものがいる。何があったのか聞いてみると、彼らはみなこう言うのだった。中庭のお堂に死んだはずの人間がいたと。
その昔、中学校が建てられるずっと前、中庭のあたりには小さなお寺があった。檀家も多く村の人々にも親しまれていたが、年老いた住職のひとり息子を戦争に取られてしまい、戦争が終わる頃にはすっかり廃寺になってとうとう取り壊されてしまった。その時、小さなお堂だけが残されたのだが、これがいわくつきだったのである。夜、ひとりでお堂のまわりを一周すると死んだ人間が戻ってくるというのだ。そしてこの話が中学校が建てられた後もそのまま残り、今も七不思議となって噂されているのである。
七不思議というのは、誰もが話は知っているものの信じてはいない、単に学校生活を彩るためだけの作り話でしかない。しかし、この肝試しでは数年に何人か、実際に見たという生徒が出てくるのだった。
三人の少年はもちろん、誰も信じていなかった。七不思議の話を持ち出したエイチ少年ですら、盛り上げるために口にしただけなのである。
今年も、各テントから続々と生徒たちが出発しては何事もなく戻ってくる。
そして夜もすっかり更けた頃、少年たちの順番がやってきた。
最初はエフ少年からだった。
ほかのふたりの少年と担任の先生に見送られ、昇降口の前からひとりスタートする。手にあるのは懐中電灯だけだ。
夜の学校はとても不気味だった。グラウンドにみんなと一緒にいた時には感じなかった、何だか嫌な雰囲気があった。さっきまで聞こえていたはずの虫の音はなぜか消えていて、土を踏む自分の足音だけが響いていた。風もなく、しかし不思議と夏の暑さも感じなかった。
エフ少年はなるべく校舎のほうを見ないようにしていた。自分の足元にだけ懐中電灯を向けて下を向き、ひたすら歩いた。夜、外から見る校舎は妙にぞっとする。あちこちにある非常灯でぼんやりと緑色に光っていて、中の廊下までよく見えるのだ。
夜の学校の廊下を、いるはずのない誰かが歩いていたら。
そんなものが見えたら一目散にもと来た道を走って逃げるだろう。それとも尻餅をついて立てなくなるかも知れない。
視界の端にちらりと影が見えた気がしてエフ少年は飛び上がるほど驚いた。しかしそれは校舎のガラスに映った自分の姿だとすぐに気付いてほっとした。
やがて不気味な校舎が終わって中庭に出た。花壇が少しあるだけで大して広くもない。花は夏の暑さにしおれていて、何とも言えないさびれた雰囲気がある。
少し先のほうに黒い小さな影が見えた。死んだ人間が戻ってくるという例のお堂だ。
少年は懐中電灯を地面に向けたまましばらく立ち止まった。
このまま引き返してしまおうか? そうしたってきっと誰にも分からないはずだ。
しかし少年は進むことにした。怖かったが、それ以上に好奇心もあったのだ。七不思議なんて本当にあるのかどうか。
お堂は昼間見るよりも古びていて、粗末な掘っ立て小屋に見えた。三段しかない階段があって床は地面より少し高く、扉は閉まったままだった。このままだとどうせ中は見えやしない。誰かが本当に戻ってきたところでこちらには分かるはずがない。
少年は早足にお堂を一周した。そして恐る恐る振り返った。
扉が音もなくひとりでに開き始めて、中から崩れた手がゆっくりと…なんてことがありませんように。
何もいなかった。扉は閉まったままで物音もしない。やっぱり、ただの噂でしかないのだ。
「なんだ。嘘っぱちか」
少年がほっとしてさっさと引き返そうとした時、お堂の階段に誰かが座っているのが見えた。もちろん、さっきまでそこには誰もいなかったはずだ。
「ひ…」
少年は腰を抜かしてひっくり返った。
座っているのは老婆で、白い着物を着ている。ぼんやりとした影でも、透けて見えるのでもなく、はっきりと生きている人間のようだった。もしかしたら本当にただの人間なのかも知れない。真夜中の学校に迷い込んだ、ただの老婆なのかも知れない。
思い切って声をかけてみようか? こんばんは、とか、どちらから来たんですか?とか。
ああでもこんな真夜中にお堂の階段にぽつんと座っているなんて、まともな人間であるはずがない。
老婆が立ち上がってこちらを向いた。
少年は思わず悲鳴を上げそうになった。しかし、老婆の顔を見て、叫ぶかわりにこうつぶやいていた。
「おばあちゃん?」
そこにはエフ少年の祖母が立っていた。何年か前に亡くなったはずの祖母だ。目の前の祖母は、少し怒ったような顔をしていた。
「おばあちゃん」
「水には気を付けろ。今年は水に近付いちゃならん。ちょびっともな。さあ、ばあちゃんと約束しろ」
祖母はいつもの調子ではきはきとしゃべった。まるで本当に生きているかのようだ。しかしそんなはずはない。祖母はすでに死んでいるのだ。
「約束する。おれ、約束するよ」
自然と少年は何度もうなずいた。
それを見た祖母は一度だけ大きくうなずき返して、エフ少年がまばたきをする間にいなくなっていた。慌てて懐中電灯でお堂のまわりを照らしてみても、もうそこには誰もいなかった。
でもあれは間違いなく祖母だった。自分を可愛がってくれた、しつけには厳しかったおばあちゃん。自分に何かを警告するために戻ってきてくれたのだ。
夜中にお堂を一周すると死んだ人間が戻ってくる。
七不思議は本当だったのだと、呆然としながらエフ少年は思った。
昇降口の外でエイチ少年たちが待っていると、五分ほどでエフ少年が戻ってきた。エフ少年は何だかうれしそうにしていて、そのわけを聞いても別にと言って詳しく語ろうとしない。
「エフのやつ、一体どうしたんだろう?」
エイチ少年は首をかしげた。
しかしそれ以上質問する間もなく、今度はエイチ少年の番になった。懐中電灯を受け取って、夜の学校をひとり進んでいく。
エイチ少年は特に大胆な性格で、物怖じせず、何事にも積極的なほうだった。だから、エフ少年のように恐々と早足に歩くのではなく、ゆっくりと、余裕たっぷりに前進した。
もちろん、夜の学校を歩くのは初めてだ。誰もいないまっくらな校舎の外を歩くなんて何だか妙な気分である。懐中電灯をあちこちに向けて、何かいないものかと探ってみる。校舎に近付いて中をよくよくのぞきこんでもみた。何かいようものなら話のネタになるというものだ。
途中、校舎の中に入ってみようとして裏口のガラス戸をがたがたと揺らしてみたが、残念ながら錠が下りていて少しも開きやしなかった。先生たちがびっくりする仕掛けを用意してくれているのではないかと道の真ん中で立ち止まったりもしたものの、特に何も起こらない。ただまっくらな道が続いてるだけで、そこを仕方なく歩き続けるしかなかった。
「何もないんじゃ、肝試しもつまらないな」
エイチ少年はしまいには飽きて口笛を吹き始めた。
気付くと校舎は終わっていて、中庭も半ばまで進んでいる。目の前には暗い小山のようなお堂があり、そこにもやはり何もいなかった。
エイチ少年は当然、七不思議のことをしっかりと覚えていて、ここぞとばかりにお堂のまわりをすばやく二週した。ここまできて何もなかったんじゃ、肝試しの意味がないではないか。これを楽しみに校内キャンプに参加したのだ。
エイチ少年はお堂のあちこちを照らしながらしばらく待った。
一体何が出てくるだろうか。もし幽霊でも出てきたとしたらどうしてくれよう。
しかし、お堂はしんと静まり返っているだけで何の気配もない。
「おーい。二週もしてやったんだ、誰か出てきてくれよ」
エイチ少年は大声で呼びかけた。
お堂は暗がりにたたずんでいるだけで、やはり何も起きない。
とその時、何かの声がした。エイチ少年もまさか本当に何かが起きるとは思っていなかったので、短い悲鳴を上げた。
また声がする。どうやらお堂から聞こえてくるようだ。人間のものではないとはっきりとわかる声である。
「そこにいるのは誰なんだよ…」
エイチ少年にさっきまでの勢いはもうなかった。弱々しくお堂のほうに問いかけるだけで精一杯だ。
その声はどうやらお堂の床下から聞こえてくるようだった。声が止んだかと思うと、今度はがりがりと地面を引っかく音がする。傷んで黒ずんだ木組みの床下から、何かが這って出てこようとしているのだ。
息を殺して懐中電灯の光を床下に向け、エイチ少年はじっと様子を伺った。
くんくん。
すると、這い出てきたのは白く小さな毛玉だった。子犬である。
「なんだ。ただの犬じゃないか」
エイチ少年は懐中電灯を置いてその子犬を抱き上げた。子犬は尻尾を振って少年の手を舐めようともぞもぞ動いた。
どうしてまたこんなところにいるのだろう? 逃げ出してきたのだろうか。妙に人懐こい犬だ。それにしてもどこかで見た覚えがある。
子犬は雑種のようで、耳の先が丸く、尻尾はふさふさと短い。先のほうが少し茶色がかっている。やはり見覚えがある。もしかしてと思い、少年は犬を高く掲げてみた。胸のあたりに茶色い矢印のような模様があるではないか。
間違いない。昔、小さい頃に飼っていた犬だ。そしてその犬はとっくの昔に死んでいた。散歩をしている途中に道路に飛び出して、ダンプカーに轢かれてしまったのだ。まさかこんなところに戻ってくるなんて。
「やっぱりお前なんだな」
少年が名前を呼ぶと犬はうれしそうに一声吠えた。
当時、どうしても犬がほしいと親にねだって飼ってもらった。しかし、そこは幼い子供の常ですぐに飽きてしまい、自分ではめったに散歩には連れて行かなくなってしまった。もちろん、家に帰っても構ってやりもしない。あの日は雨が降っていて、それでも犬があまりに鳴くものだからしぶしぶ散歩に行ったのだ。久しぶりに自分が一緒だったせいなのか、犬はずいぶんとはしゃいで飛び回っていた。それであんなことになってしまった。
あれ以来、親が何を言ってもかわりの犬を飼うことはなかった。何だかとても申し訳ない気がしていたからだ。
「ごめんな、ごめん」
犬は少年の顔をぺろりと舐めた。そしてひょいと腕を抜け出して、またお堂の床下に戻っていった。
少年はそれを見送ってからゆっくりと懐中電灯を拾い上げ、またもと来た道を引き返した。来た時と同じくゆっくりと、しかし余裕はなくうなだれた足取りだった。
エイチのやつ、何だか悲しそうな顔をしているなと、アール少年は思った。
時刻はもうずいぶんと遅くなっており、夜中の十二時を過ぎていた。背後のグラウンドのざわめきも、今はもうほとんど感じられない。おそらく自分たちのテントが最終組だったのだろう。
「さあ次はアールの番だな。今年はとうとう、七不思議なんか起こらないみたいだぞ…」
先生から懐中電灯を手渡されて、アール少年は出発した。
不思議なもので、自分が一番最後だとわかるととても孤独な気分になってしまうものである。少年は特別、怖がりなほうではなかったが、真夜中の校舎を横目にひとり歩いていると、心細く寂しい気持ちになった。
夜の学校は本当に静かなものである。昼間の様子を知っているから余計にそう感じられるのかも知れない。自分の息をする音と足音だけが聞こえてくる。
いや、本当に自分のものだけだろうか?
一歩進むと、少し遅れてかすかにもうひとつの足音も聞こえてはこないだろうか?
一歩、また一歩。
すると遅れて一歩ずつ、というふうに。
「きっと気のせいだ。さっさと歩いてしまおう」
アール少年は歩く速度を速めた。
足音のほかにも、校舎のガラスや廊下、教室の中に何か見えたような気がしたが、どうにか気にしないようにして通りすぎた。たとえ実際には何もなくても、そっちを見たり懐中電灯を向けたりしてはいけないような気がしたのだ。
どうしてだか中庭までずいぶん遠い。もういい加減にたどり着いていてもいいはずである。それがまだ着かない。
半分は歩いただろうか。アール少年は思わず後ろを振り返った。すると、校舎の影にさっと誰か隠れたような気がした。黒い何かだった。いや、違う。これも気のせいだ。そんなわけがあるはずない。
ようやく校舎の影を抜けて中庭に出ると、ほっとするよりもさらに怖くなってきた。なぜだろう。まわりに何もなく無防備な気がするからだろうか。しかし、ここには何もないわけではない。前にはお堂があるのだ。
アール少年はさっさと一周して引き返そうと走った。しかしすぐに足を止めた。
お堂の前に誰かが立っている。髪の長い、女のようだった。
先生なのだろうと、とっさに少年は思うことにした。先生が脅かすためにあそこに立っているのだ。それだけの話。しかし、アール少年の学年に女の先生はひとりもいなかった。
ではあれは一体誰?
女がゆっくりと何度も手招きをしている。少年は思わず懐中電灯をそちらへ向けてしまった。
しかしよくよく見ると普通の女のようである。黄色の花柄のワンピースを着て、特に傷もなく血色もよい。そして、少年にはどこかで見たことのある顔だった。
「母さん?」
まさか。しかしよく似ている。似ている、というかそっくりである。それに黄色い花柄のワンピース。母のお気に入りでよく着ていたのを覚えている。
「ねえ母さんなの?」
女は手招きするばかりで何も答えない。
アール少年の母は数年前に火災で亡くなっていた。化学工場でパートをしていて、薬品の調合ミスによる大規模な爆発事故に巻き込まれたのだ。少年は悲嘆に暮れ、それは今でも変わらなかった。
少年は先ほどまでの怖さも忘れて女に近付いていった。それはまさしく少年の母親で、まるで生きているかのように普通にお堂の前に立っていた。
「ああ母さん。会いたかったよ」
女が手招きをやめてかすかに微笑んだ。手にはくまのぬいぐるみが握られている。母が寂しくないようにと、少年がお棺の中に入れたあの時のぬいぐるみだ。
ちゃんと持っていてくれたのだと思うと、アール少年はうれしくなった。
「ねえ母さん。話したいことがいっぱいあるんだけど…」
女の手が少年の髪をやさしくなで、少年が涙をぬぐい顔を上げたところで、女は消えていた。最初から何事もなかったように、あっという間に影も形もなくなっていた。そこにはもう、まっくら闇しかない。
少年はがらんとしたお堂を呆然と見つめた。そして足早に周囲を回り始めた。何度となく、涙を流しながら回った。
しかし、女は二度と現れなかった。
ずいぶんと遅いなと担任は思い始めていた。
アールが出発してもう十分は経っている。
何かあったのだろうか? どこかで転んで怪我をしたとか。何にしろ、そろそろ様子を見に行ったほうがいいのではないか。
しかし担任はもう少し待ってみることにした。おそらく途中で怖くなって、休み休み進んでいるだけなのだ。毎年そういう生徒がいるものである。
それとも、もしかして七不思議があったのかも知れない。今年は今までのところ何もなかったが、一昨年にはちょっとした事件があった。もう思い出したくもない出来事だ。
そう、正直なところ、中庭まで様子を見に行くのはごめんだった。恐ろしいものなどほんの少しでも見たくない。一昨年のあれなんかそれはもう…
「アールだ。戻ってくるぞ」
ふたりの少年が指を差し声を上げた。
ああよかった。
悲鳴など聞かれなかったし、今年は七不思議もなく無事に終わったのだ。
担任がほっと息をついてアールに近付いた。
足取りもしっかりしていて、どこにも怪我などしていなさそうである。
「すいません。思ったより遅くなってしまって」
アールは申し訳なさそうに笑って頭を下げた。
すると、少年の背後に今まで見たこともないおぞましいものがしがみ付いているのが見えた。
それは黒く爛れた人間だった。わずかに残った髪の毛でかろうじて女だとわかる。
ほかの少年たちもその女に気付いたのか、短く悲鳴を上げた。しかしアール本人は、どうかしたのかと不思議な顔をして首をかしげるばかりだった。
何も気付いていないのだと担任は思った。
この少年は、自分の背中に何がしがみ付いているのか気付いていないのだ。
なら、おそらくこの声も聞こえていないのだろう。
女は先ほどからずっと、低く割れた声で擦り切れたテープのようにつぶやき続けていた。
「やっと戻れたよ。やっと戻れたよ。やっと戻れたよ。やっと戻れたよ」
女の手にはひどく汚れた何かのぬいぐるみがあった。
それはきつく握りつぶされたあまり、中身がほとんど飛び出していて、まるで原型を失っているのだった。