不思議な娘
自宅に戻ったのは深夜近い時間だった。鍵を開けて静かに中に入る。あの娘――ミナミはもう眠っている頃だろう。
玄関で軽くコートに積もった雪を払い、熱いお茶を飲もうとそのままキッチンへと向う。だがそこにある筈の使い古したケトルがない。そうか。ミナミが使用したのだな。
そのまま二階への階段を上がり、足を止めたのは自分の寝室よりも廊下の奥に位置する客室。玄関ドアよりも更に慎重に目の前のドアを開く。すでに灯りは落とされていたが、暖炉を使用していたのだろう。部屋の空気は廊下よりも格段に暖かい。暖気を逃がさぬよう直ぐにドアを閉め、俺はコートを片手に持ったまま静かに部屋を進んだ。ちらりと横目に見れば、暖炉の上にケトルが置いてある。それを取りに来た筈なのに、俺の足は暖炉とは違う方向に向かっていた。
(……寝ているな)
それを確認してほっと息をつく。カーテンが引かれているので表情は見えづらいが、ベッドの中でミナミは穏やかな寝息を立てていた。
アヅマ・ミナミ。今朝突然俺の寝室に現れた見知らぬ娘。護国の民とは違う蜂蜜色の髪は柔らかく、肩に付かない程の長さで全体がふんわりと緩やかにカーブしている。長いまつげに縁取られた大きな瞳は琥珀色。白い肌に荒れた所は見えないから、どこか良い家柄の娘だろう。少女のような顔立ちをしているが、決して幼い娘ではない事を自分は知っている。何せ朝起きた時、この柔らかな体を抱き締めていたのだから。
(失態だ……)
少女ではあり得ない、薄い生地越しに伝わってきた豊かな胸の感触。動揺して思わずベッドから飛び出すという醜態を見せた。寝巻き一枚でベッドに潜り込んでいたからてっきり娼婦かと思って問いただしたが、この国の名前すら分からないと言う。
(お前は一体誰なんだ?)
胸の内だけで問いかけても相手は夢の中。答えが返ってくる筈も無い。気づけばそっと白い頬に触れていた。
(俺は何故……)
此処に連れてくる必要はなかった。城下街の宿屋が満室なのも、諸国の王族が滞在している城内に身分の知れぬ者を泊められないのも嘘ではない。けれど侍女達が使用している寮に泊めるなり、同僚の女性達に世話を頼むなりする事は出来た。でもそうしなかった。己の目の届かない所へこの娘を放り出す事ができなかったから。
(何故?)
いくら考えてみた所で理由は分からない。魅力的な娘だとは思う。常に笑顔で物腰は柔らかく、教養も身についている。やけにのんびりしていて危機感の無さが心配ではあるが。
(……そうか。だから放っておけないのか)
この娘があまりに無防備だから、何か危ない目に合うのではないかと心配になるのかもしれない。これが庇護欲というヤツか。彼女のふわふわした容姿も庇護欲をそそる要因になっているのだろう。あのまま路上に放置していたら、それこそ娼館に売り飛ばされていたかもしれない。
(いや、一概にそうとも言えない、か?)
――あなた方からすれば私は身元不明の異邦人です。どうしてそこまで親切にしてくださるのですか?
あの言葉は冷静に自分の立場を見つめていなければ出ない言葉だ。
顔は子供のようだけれどその実大人な、一見危なげでいて冷静なものの見方が出来る、不思議な娘。
「ミナミ……」
そっと呟いた珍しい発音の名は、誰の耳にも届かずに甘い響きだけを残して消えた。




