ゴッドラム・リネ
この作品は完全オリジナルで、特定の宗教、国は関係ありません。
珠洲の村の長老は白く伸びた髭を触りながら、時間ばかりを気にしていた。
あのユグノーとかいう娘をタエが先ほど送っていった。しかしリネは帰って来ない。
「……リネはまだかのう」
頭の中に砂時計の砂が絶え間なく落ちて来る。
長老は何度目かの質問を隣の者にする。が、首は振られる。「戻っていません」と。
ゴッドラムに来て――ここを常宿と決め、こんなことは今までなかった。手紙のやり取りも失敗はない。
「遅くなる可能性としては、子供達を心配する親が村のことをリネに聞いている、というところじゃろうか」
長老はなぜか気になった。
リネは賢い子だ。家に長居すればそこの家族に迷惑が掛かりかねないことを知っているはずだ。
もう一つの可能性としては夜道で迷っていることだが、それにしても遅すぎる。ゴットラムでは新月に狼が出るというが。
「いかんいかん、つい余計なことを」
長老は頭を振った。
ちょうどその時、宿の扉が勢い良く開いた。
「――す、すみません、ノックもしないで」
中に身を投げ出すように入って来た男は、大きく肩で息をしている。
その顔には見覚えがあった。確かタエの叔父であり、つい先ほどまでいたユグノーの従者だった男だ。
「いや、構いませんよ、ここは珠洲が借り切っているようなものじゃから。ええと、クエーカーさんじゃったかの」
「は、はい」
それほど暑くもないというのに汗を滲ませている。よほど急いで走ったのだろう。
「まあ、その、落ち着きなされ。あのユグノーさんは無事に村に経った。日の出前には着くじゃろうから」
「いいえ、そういうわけには――我々は恩ある珠洲の村を巻き込んでしまったようで」
「ほっほっほ、何を今さら」
長老が穏やかに言葉を掛けると、クエーカーはいきなり「すみません、すみません」と謝りだした。
珠洲の村の者達は驚いて顔を見合わせる。
「何かあったようじゃが、詳しく教えてはくれませんか」
「仲間が――城を見張っている仲間が、珠洲の村の女性が裏口から捕らえ連れて行かれたと」
「リネかっ」
長老はつい大きな声を出した。
「名前まではわかりません。ただその女性は珠洲の村の服装をしていたと。今夜はユグノー様のことで見張りをしている役人が多いのです」
「し、しかし……たとえそうであってもリネが捕まえられる理由はありませぬ。確かにそちらに事情はおありのようだが、珠洲の村は関係がないことじゃで」
リネとユグノーは髪の色から背格好まで違う。間違えられたなんてことはない。
長老は悪く考えないように自分自身を抑えた。
リネはゴットラムで手紙を届ける役をしていた。そこが不審がられたのか? だとすれば常宿の方にも連絡があるだろう。配達は城へ連行されるほどの悪事とは思えない。
「それほど気にせんでも――」
「逃げて下さいっ」
クエーカーはいきなり、土下座をした。
「えっ?」
「お願いします。もしかしたらユグノー様をここにお連れしたのがばれたのかも知れません。そうすればアリウスは村を許さないでしょう」
「……アリウス?」
「この前、戴冠式をあげた現王の一人息子です。奴は〈ゴッドラムの美〉と讃えられていますが性格は真逆なのです」
「しかしこんな早くあのユグノーさんを逃がしたのがばれるなんて信じられん」
長老は時間的に無理がある気がした。
「我々もです。しかし他に理由は思いつきません。とにかく逃げて下さい。リネという方は我々が助けます」
「じゃが」
「ゴッドラムは一見平和ですが、実はかなり乱れております。現王の長兄様は毒殺され、次兄様は罪を着せられ殺されました。民衆は武力によって押さえつけられ、気の休まる暇もありません」
「なんと」
長老は絶句した。
珠洲の村では聞かない話だ。
「貿易等で栄えた海の国じゃと思うていたが……」
「表があれば裏もあります。アリウス……奴は抜け目がありません。夜が明けるまでここにいては、全員が危険です。とにかく逃げて下さい。我々が言えるのはそれだけです」
常宿にいたすべての者が凍りついたように身動きひとつしなかった。いや、できなかった。いきなり入って来た男のいきなりの言葉は真実のようだ。ここにリネはいない。そのことがすべてを語っている。
理由はどうあれ、リネは長老達の手の届かない場所に連れて行かれた。
城へ。
「……何としても……助けて下さると?」
長老は静かに尋ねた。
「はい。これは我々の落ち度です」
「……」
本当にユグノー関係か、まだすべてが確かめられたわけではない。しかし長老として決断しなければならなかった。リネは大切な仲間だが、同時にここにいる仲間の命も守らねばならないのだ。
「――リネを頼みます」
長老は頭を床につけるクエーカーの腕を取った。
リネはアリウスに勧められるがまま一泊していた。
ベッドの寝心地は、今まで味わったことがないほどフワフワとした弾力性で満ちており、身体が包まれた気がする。怖いほど柔らかだ。怖いほど。
天井には客間らしく花の絵が描かれていた。優しく夢の世界に誘ってくれているつもりだろう。
しかし寝付けたかというと、そうでもない。リネは常宿にいる長老達が心配だった。さすがに素直に〈友好的招待〉だとは思っていない。目隠しされて連行されたのだから。
「今ごろみんなどうしているのかしら」
なるべくあのアリウスとかいう青年の前では明るく振舞ったが、言い知れぬ影が背中に纏わりついている。
『実は明日、俺達はお前らを連れて来るように命令されている。今夜は違う件で見回っているのだが、まあいい。来い』
あの時の役人は確かに夜が明けたら珠洲の村のみんなを捕まえようとしていた。
新月なのに多い見張りといい、何かが起きていたことは確実だ。珠洲の村の関係があるのか?
いや、わからない。
ただリネにはアリウスに悪意はなさそうに思えた。物腰も柔らかで、常に気を配ってくれていた。
確かに言葉と態度が一致しない者もいる。真綿だって首を絞められる。
「……でも」
やっぱり悪い人には見えない。
アリウスはどこか寂しそうだった。
リネと一緒にいてもリネを見ていない所があった。でも絵の話をした時は本当に喜んでいた。
あの時だけは。
「彼は――なぜか哀しい」
微笑んでいてもなぜか哀しい。
リネはため息をついた。
朝の食事が終わると、アリウスはリネを迎えに来た。
「どうです、お口に合いましたか?」
「はい、とても美味しいです。でも給仕されたことがないので、なんだか食べるのが恥ずかしいです」
リネは真面目に答えたつもりだったが、アリウスは小さく笑った。
「あの、ここお城ですよね? ゴッドラムの。紋章が掲げられていたし、豪華で綺麗で、でもどこか張り詰めた空気があって……」
「何ですか」
「いえ、ずっと考えていたんです。普通ならば入れない場所でしょう。わたしなんて他国民は特に。それがなぜ連れて来られたのか」
リネの問いにアリウスは答えなかった。
「それよりご案内したい場所があります」
「今、すぐにですか?」
リネは咄嗟に警戒した。
「そ、それよりも長老に伝えて下さったのでしょうか。わたしがここに居ることを」
「長老は……この際だからゴッドラムについて勉強を、とおっしゃっていました」
「それではこれから移動させられる場所に珠洲のみんなが集まるのですか」
「いいえ、リネさん一人です」
「え?」
アリウスは澱みなく言ったが、どことなく嘘の匂いがしている。
リネはゴッドラムの仲間に手紙を届けている途中だった。いきなり勉強を、など言うはずがない。
「そう、ですか……」
理解できない。ただわかったことは、ここにいることは長老達の真意ではないということだ。
リネは長老達を心配していたが、本当は自分が心配されなくてはならない立場かも知れない。
「そんな顔をしないで。これから行くのはリネさんも興味を持たれていた場所ですから」
リネの顔が不安そうに見えたのか、アリウスは微笑んできた。
「あの画が描かれた場所です。ちょうど湖の近くに別荘がありましてね。そこならここよりお気に召していただけそうで」
「……」
リネの好奇心は動いた。あれだけの絵だ。確かに本物の風景を身体で感じてみたい。湖に風は流れているのか、緑は鮮やかか。
しかしこれは本当にただの好意なのだろうか。たぶん拒否はできない。
「う、嬉しいです。喜んで」
リネは疑問を持ちつつも承諾をした。
朝が早かったせいか、森はミストグリーン――靄がかかったような緑みの霧に覆われていた。空は薄ぼんやりと光を宿しているが、木々の葉からこぼれるほどのものではない。ただ静かに周囲を照らしている。
リネは馬に乗るのが初めてだった。
馬はかなり体高が高い。いつも使う荷物運搬用のラウマは長毛でリネの半分くらいの背丈しかないのだが、馬はすらりとした長い筋肉質の脚で、騎乗すると、遠くまで見渡せた。
その馬にアリウスと一緒に乗っている。
リネの後ろから抱え込むようにして手綱をとっているのだが、ふとした拍子にその金髪が、吐息が、頬に触れる。
リネは無意識に硬くなってしまう。硬くなるとバランスが崩れ、ついアリウスの手にしがみ付いてしまうのが、恥ずかしかった。たぶん耳は真っ赤だろう。自覚している分、混乱してしまう。
リネは俯き、なるべく違うことを考えようとしたが無理だった。心臓の音が痛いほど身体を貫いている。
「あの……」
「なんですか?」
「……いえ」
会話はあまりなかった。馬が下草を踏み、進む音だけが森に響いている。
森を三十分ほど進んだ時だろうか、芽緑色の樹を抜けると、急に視界が開けた。
「……っ」
リネは目を見張った。
空が広い。
ミストグリーンの霧に覆われた中、太陽が幾筋か天から降りている。
湖は透明度を持ってオーシャングリーンに輝き、奥に行くに従い、深みを持ったターコイズブルーやシアンの色に変化している。
波紋が広がるたびに映す周囲の色が変化し、緑と藍が光を誘っているようだ。
山はあいにく霧で見えなかったが、そのミストは湖とそれを取り囲む森に沈黙を与え、息をすることを忘れるような時間が流れている。
「……本当にここは」
リネはそれ以上、言葉が出なかった。
水の匂い、木の香り、森の放つため息。目を閉じていても色々なものが感じられる。
山の滝とはまた違った声がする。リネは耳を澄ました。
「この湖の反対側に僕の育った屋敷があります。都合の良いことに皆、忘れているでしょうね」
アリウスがぽつりとつぶやいた。
「え?」
みんな忘れている?
リネは急に語りだしたアリウスに一瞬不穏なものを感じた。
「僕が暮らしていたことも、屋敷自体もすべて。だからここはね、何が起こっても問題にはされないんですよ。記憶から自動的に排除される」
「……」
「つまり血生臭いことが起こっても森と湖が隠してくれるんですよ」
アリウスがそう口にした時、馬の耳がぴくりと動いた。
「敵は動きが早いですね。ユグノーがいなくなった途端に僕を襲いますか。まあ、やられる前に殺れ、は戦いの鉄則ですけどね。だからあえて密室である城から出たのです。戴冠式も終わって間もないですからね。そこで面倒を起こしたくない。現王の統治力が民衆に伝わりますから」
「アリウス、さん?」
リネは背中を強張らせた。
アリウスの顔は見ることができない。しかし冷たく微笑んでいる気がする。
「聞こえませんか? 足音が」
「え……あ、あしおと」
言われれば微かに鳥の声に混じって小さく草が踏まれている音がする。
誰かいるのだろうか。
「つけられていたんですよ」
「知っていたんですか。どうして……」
わからない。
単なる見学ではなかったのか。
リネは小さく震えた。
「でもね、先手必勝は僕の主義ですから、ネストリウス伯父上」
この時リネは誰に向かって言っているのか理解ができなかった。
読んでいただきありがとうございます。
色々なものがすれ違い、混じり合い、ひとつになっていく。
これからもよろしくお願いします。
私にとって長編はチャレンジだ!