ヤーウェ・キリト演舞
この作品は完全オリジナルで、特定の宗教、国は関係ありません。
アリウスは左手首の刃を、まるでバイオリンを奏でるかのように引いた。
楽しげな音楽が周囲を包み込む錯覚が起きたとカダルの爺はその後に語っている。天使の調べが満ちている立ち姿だったと。
しかし実際に舞ったのは鮮血だった――躊躇なく引かれた刃によって、裂けた傷から飛び散る真紅の液体だ。
風に黒髪が揺れ、瞳の赤が色を増した。
「さあ、来ますよ」
アリウスの声はどことなく弾んでいるようだったらしい。眉ひとつひそめず傷口を振る度に血は周囲の大地に布に店だった残骸に飛んだ。あどけない優しさと自虐的な血の惨場はどんな修羅場より修羅場に見えたそうだ。
イスマイールの私兵達はサソリの恐怖を一瞬忘れたという。それほど魅惑的で恐ろしい瞬間だったようだ。
やがて店の奥まった闇から蠢く気配が強くなった。
――奴らが来る。
アリウスでなくてもそれは誰にでもわかったようだ。微細な音が頭に響く。
私兵達は顔の中心部に目と耳が張り付いたような面構えになった。
「……ふふふ」
アリウスの唇からとうとう笑みが零れ出た。
止まらない。感情が溢れる。
普段から毒は身近にあったが、原料を殺すのは初めてだった。アリウスは手に汗をかいているのにこの時気づいた。それは緊張からではない。高揚だ。
――奴らにはどう見えているだろう。
――人間はすべてエサか。
だとすれば自分は上質な喰い物だろうか。
向けられているのは敵意か食欲か。
喰われる側に回った不快感と快感がアリウスの身を包んだ。生命の狭間でしか知りえないものだ。
カダルやリネに感謝したい衝動に駆られた。この事態に巻き込まれて良かったと思った。手首の傷や流れ出た血などどうでも良い。
なんと面白いことか。
「ふふふふ」
その時、チッと鳴ったのかキッと言ったのか、また短い音がした。奴らの声か。
アリウスはふと立ち止まり、何かに操られるように闇の奥に眼をやった。
「……初めまして……」
時が止まった。
デンジャーは十センチから十五センチほどの砂色のサソリだった。
大きさは普通だが、長い尾部が二本ある。鋏角は鋭く、複眼が上下左右に大きく四つ並んでいる。二匹が無秩序に融合したようで生理的に受け付けない姿をしている。まるで間違った進化をした異形の生き物だ。毒の強さは呪われた印だろうか。やはり自分と重なって見える。
「さあ美味しい美味しい生き血ですよ。命あるものの肉を食みたくはありませんか?」
アリウスはサソリ達を挑発する。
もっともデンジャーに言葉は理解できると思ってもいないが。
「僕の身体を捧げましょう」
ただし安くはないが。
「――まず一匹っ!」
奥から這い出る間もなく飛びかかって来た。二メートルはジャンプしただろうか。
それをアリウスは瞬きもせず右手に持った剣で胴体を突き刺した。
手ごたえはある。しかし青緑に似た体液を吹き散らし剣の切っ先で蠢いている。完全に殺すにはやはり頭を狙わなければダメか。
「ちっ」
取りあえず戦闘能力は無くなったようなのでアリウスは刃を払いサソリを振り落とす。砂に落ちたサソリはしばらく動き、体液を撒き散らしていた。
「様子見をしていないで出て来なさい。こちらにはまだ素敵なエサがたくさんあります」
たくさん、という言葉に私兵達が動いた。
アリウスの声に爺が槍を持ち構える。
「そうじゃ、気を緩めるな。キリト殿に続けぇ!」
爺の叫びに周囲の私兵も我に返ったようだ。
ああ、そういえばヤーウェでは〈キリト〉と呼ばれているのだなと何故かまた笑いが込み上げる。
ゴッドラムでの命のやり取りは基本一対一だった。大勢が相手の時はあるが味方は自分独りだ。アリウスに信じられるものは無い。
あぁ、ヤーウェの民達はなんて甘いのだろう。自分に協力するなんて。
カダルの知り合いというだけで共闘するなんて甘すぎる。
「キリト殿に近づけるなーッ!」
まるで爺のセリフが開戦の印だったかのようデンジャー達は飛びかかって来た。それをイスマイールの私兵達が槍で突き、凪祓う。
まったく統制が取れていないが、そのことが吉と出たのかサソリ達の攻撃も一貫性がなくバラバラになってゆく。
「突け! 突くんだ!」
「右っ」
「後ろだ!」
派手に暴れる私兵に年甲斐もなく燃えている爺さん。滅茶苦茶なリズムで振り回しても案外当たるものだ。
「下ぁぁぁぁぁ」
脚元に散ったサソリは念を入れて踏みつぶされた。
「こっちは大丈夫だ。なんとか助けた」
後ろからカダルの声がした。
振り向くと腕の中にはまだ五、六歳の少年が抱かれている。俯いていて顔は見えないが、枯れ木のような手足に噛まれた跡はなさそうだ。
「そっちはどうだ?」
「見ての通り」
少なくてもアリウスは最低限の会話で通じている自信があった。
「僕の演舞で引きつけましたよ」
横で爺と私兵達が槍を手に息を切らしている。
「お、おいキリト。怪我しているじゃないか」
「――え?」
「手。血が……」
「ああ。忘れていました」
アリウスは事もなげに微笑んだ。
左手の袖がどっぷり濡れている。
「忘れてって、そういうわけには、なあ」
「はい、後ろっ!」
アリウスの剣がカダルの斜め後ろに飛んだ。またデンジャーを突き刺すのに成功した。
「……コワイコワイ」
「ああ、でももう奥にはいないようですよ」
殺したのは十一匹。
毒液を掛けられるかと心配したが、どうやらあの尾で掴んで注入するらしく、今のところ被害はない。噛まれる前に刺し殺す作戦は結果オーライだ。
「そ、そうなのか」
カダルは大きくため息をついた。
「ええ。奥に気配はありません」
「なら良かった」
「取りあえずここを引きましょうか。子供を安全な場所へ連れて行った方が無難です」
「ああ。あらかた片づけられたようだしな。巣になったかどうかは体勢を立て直して確認しに来よう」
カダルは周囲を見渡して言った。
「イスマイールの屋敷に連れて行こう」
「ここ以外に加工場と家畜の飼われている場所はありま――」
アリウスは途中で言葉を止めた。
「……」
店の奥からの刺客が途絶えたため、一息ついたのが間違っていた。
いつの間にかサン・サラー通りの店先の屋根――それは張られた布であったり古木の板であったりしたものだが――そこから無数の目が注がれている。
自分としたことがなんたる失態。
剣や槍で刺すことに神経を取られていたのだろう、頭の上にある場所から見下ろされていることがわからなかった。
体液を撒き散らしているサソリ。
それを見つめるデンジャーの群れ。
おそらく二十、いや三十匹近くいるのではないだろうか。
ここはもう完全な〈巣〉になり果てていたのだ。
「……」
「さすがに、これは……」
「……」
キツイ。
沈黙するしかない。
奴らはいつでも襲い掛かることが出来る。手も足も出ないだろう。みんな疲れているし、カダルは両手を使えない。
デンジャーは仲間を犠牲にしてエモノが疲労するのを待っていたのか。
「うん、子供は助けたかったんだがな」
「そういう所はカダル、あなたらしいですよ」
「カッコ良く見えるか?」
「単純な馬鹿に」
「それ褒め言葉だよな、キリト」
ほんの一瞬で有利と不利が入れ替わった。入れ替わってしまった。
汗は乾ききって出ない。
まばたきすら危険だ。
「デンジャーはホント良い性格してますよね」
不意に周囲に影が満ちた。
――影?
いいや。
あれは――
「みなさん無事ですかっ!」
リネだ。
リネの声が空から聞こえる。
リネが火竜であるポポロに乗って来たのだ。
読んでいただきありがとうございました。




