珠洲の村・アリウスとキリト
この作品は完全オリジナルで、特定の宗教、国は関係ありません。
陽ざしは西に傾き、空は茜色に染められている。風は砂漠より幾分湿っており、ゴッドラムの海風よりは乾いている。
アリウスは集会所の窓から顔を出し、ただ天に視線を向けぼんやりとしていた。
雲がゆっくり流れている。
どこに行くのだろう。
雲に帰る場所はないだろう。このまま流れて空に溶けていくのか?
「……」
そういえば自国では流れる時間に身を委ねたことがなかったなと思う。ナイフを懐に忍ばせ、食事には銀の食器を使った。信じられるはずの身内が一番の敵で父ですら心からの微笑みを向けたことがない。
それを幸とも不幸とも思わなかった。
呼吸をするように当たり前だと信じていた。
珠洲の村は貧しいがゆえに寄り添って暮らしている。捨てられた者達の集まりは最初から良い意味でも悪い意味でも機能している。独りでは生きられない世界で手を繋いでいた。
たぶんこの温かさを自分は知らない。
たぶんこの冷たさを自分は知らない。
目を瞑ると五感が鋭くなるようだ。どこからか煮炊きをする気配がする。
そういえば夕餉の時間だろうか。珠洲の村では太陽と共に生活するため、早寝早起きだ。〈灯り〉というものが乏しいせいだろうが、自然の理にかなっている。
アリウスは漂って来る匂いに夕食という儀式を思い出した――そう、食べることを儀式だと考えていた。生きるために胃に入れること。口に運ぶもの。味も色もあったが、気にしたことはなかった。そういえばアリウスが自分の毒味役を置いてから四人が死に、七人が城を辞した。もしかしたら亡くなっていたかも知れない。そのことをアリウスは今まで思い出さなかった。
父が兄弟で王位を争っていた時、それは小さなことだった。
殺される前に殺すのは正当防衛だと信じていた。そのための犠牲を数えるのは愚かだった。しかし思い出さないだけで人数は知っていたのだから、アリウスは心の奥で実は気になっていたのかも知れない。
他人事のように自分の記憶を探れることに気づいたのは珠洲の村に来てからだ。
きっと忘れたくなかったのだろう。
アリウスは頬に風を感じながら思った。
いつのことだったかユグノーがイチゴジャムを持って来てくれたことがあった。ジャムが珍しいわけではないが、彼女が持って来たこと自体が珍しかった。
まだ当時生きていた母はアリウスにも礼を言うように促した。たぶん口にしただろうと思う。
「私が作ったの」
ユグノーの唇は笑っていた――気がする。
宮殿にある食事の間だ。
父に屋敷に閉じ込められていたが、こうした定期的な食事会には強制的に呼ばれていた。アリウスと母は末席に連ね、いつも目を伏せやり過ごしていた。それがその時に限って違っていた。
大きな赤いリボンのユグノーはまだ幼く何でもやってみたい年頃だったのだろう。王族が直接料理はしないが、遊びとしては認められていたようだ。
「くれてやるわ。食べなさい」
ユグノーに悪気があったとは思えない。ただその言葉使いを注意するような大人は居なかった。
母は黙って微笑んでいたように思う。
「感謝し、残さないで食べなさい」
甲高い幼子の声は残酷だ。
ユグノーの父ネストリウスは我が子に目を細めており、きっと彼女の愛らしさと優しさしか見えなかったのだろう。
しかしアリウスは中瓶に詰められていた中身に気がついていた。母も当然目にしていたに違いない。赤黒いジャムに浮かんでいた緑色のものに。
今ならわかる。あれはカビだ。砂糖が少なかったのか保存状態が悪かったのか。ユグノーの嫌がらせではないと思いたいが、母に無理に食べさせたかったのは失敗作だと気が付いていたからだろう。捨てるには惜しいというプライドが、母に〈くれてやる〉ことを選択したのだ。
母は王族の中でそういう立ち位置だった。
長兄であるコプト伯父は酔いつぶれて「良い子だな」と回らぬ舌でユグノーを褒めていた「デザートはヨーグルトだ。それに掛ければ良いぞ」なんて赤ら顔でぬかしていた。
アリウスは必死で止めたが、無力だった。
母は微笑みながら礼を言い、瓶の蓋に手をかけた。それからの記憶はアリウスにはない。思い出したくないことすぎて忘れたのか、目を背けてしまったのか。
たぶん受け止められなかったのだろう。父に助けを求めたとは思うが、その席に父が居たのかどうかすら記憶にない。
記憶にはなかった。
「ふっ」
アリウスは意味もなく笑えた。
山にはナイフもフォークもろくな食器もない。赤い絨毯もベロア調シャンデリアも天蓋付きのベッドも何も。
あるのは緑と風。雨上がりの大地の匂い。芽吹くもの太陽と月。人と生き物の近さ。触れ合うという感覚。
星を眺める時間が出来た。隣によくしゃべるカダルという男がいる。その男は目の前で殺された奴の冤罪を受けている。アリウスのミスでもあるのに責めたことはない。それどころか周囲を気づかってか暗い顔はしない。事故の跡地で土下座をして驚かせてくれた。
カダルは人間としては甘いが今までこの甘さをアリウスは知らなかった。
「……面白いな」
カダルと話しているとつられて大きな声になる。馬鹿馬鹿しい言葉でも真面目に聞こえるし、真面目なのに可笑しい。きっとカダルは愛されて育ったのだろう。彼はまだアリウスを〈キリト〉だと疑っていない。
「……」
アリウスはカダルを容赦なく殺すことは出来るだろう。
しかしキリトとしては無理だ。
ゴッドラムとヤーウェの微妙な関係はどう転ぶかまだわからないし、その時にどう対応するかは自分でも不明だ。
敵になればどうするだろう。
そもそも珠洲の村にいつまで滞在するかまだ決めてはいない。反政府に武器が渡った今、ゴッドラムが心配だ。
「……いや」
心配、ではない。
国がどうなろうと知ったことではないという気持ちが少しある。
父が殺された所で泣く涙はない。
「僕は――戻りたいのだろうか?」
アリウスは爪を噛んだ。
どうなのだろう?
珠洲の村は居心地が良い。
聖地と呼ばれる山だけあって不思議と思えることが多い。
そもそも数千メートル級の峯が連なっている中で、ゴッドラムとヤーウェが行き来できるのが不可解だ。珠洲の村があるこの辺りが谷のようになっており、人間が登り降りすることが可能だ。人間嫌いとは言われているが、この山の神はそれほどでもない気がする。
むしろ人間が人間に対する仕打ちの方が眉を顰める。アリウスはゴッドラムの国教でいう所の〈神〉の子孫とされているが、自分にそんな血が流れていないことくらい知っている。ドロドロとした赤黒いものは、あの時に煮詰められたジャムだ。きっと腐っているに違いない。
それに比べ山の神が宿るという聖地は泉が静かに湧き出ているような感がある。
大いなる自然の大いなる力だ。
「むしろ守りたいのは、珠洲か……」
アリウスはそう考えていると何故かゴッドラムよりも珠洲に愛着を覚えて来ている自分に気がついた。
朝の鮮烈な空気も昼の熱を帯びた活気も、さして今の夕暮れに変わる空の色も好きだ。
リネの影響からだろうか。彼女が薬師として働いているこの地に興味がある。
移ろい、飢餓感も凍える寒さもあるだろうが、ぐっすりと眠ることが出来るこの場がありがたい。生と死が自然の中に溶け込んでいるのが、ひどく贅沢に思える。
「――リネ……」
アリウスは彼女に出会い考えることが多くなった。
一緒には行けないと二度も断られているが、それでも気持ちが変わったということはないし、嫌われたという実感もない。
アリウスの王族という地位をリネのためになら捨ててもいいと思っているが、その地位と力がなければ、今の珠洲の村を守れないだろうということも事実だ。
たぶんゴッドラムの実質トップは物事を有利に運べる立場なのだ。
権力に弱い者はどこにでもいる。
欲しくない地位だが、使える地位でもある。
「僕は……今までにない矛盾の中にいるのか」
アリウスはつぶやきながら言葉を閉じた。自分のことなどどうでもいい。
ヤーウェのカダルは国に追われて身だから、今はキリトとして珠洲のために働かなければならない。キリトとしてアリウスを利用するのだ。
まずアリウスとして命令をしよう。ゴッドラムとヤーウェの貿易を珠洲の村中心でやること。量の減った分は海からの交易で補う。これは一応国に戻り公文書にした方が良いだろう。
問題はヤーウェだ。ここにカダルが逃げ込んでいるのは知られている。ドルーズという部族と繋がってはいるが、国の主力となったカルマト派は厄介だ。
「この間、出会ったポポロとかいう竜は良い後ろ盾になってくれそう、な……」
リネはあの後、ポポロとかいうどう見ても凶暴な竜に近づいた。
するとポポロはリネの身体に顔を擦り付け、目を細めながら鼻で甘えた声を出す。怖ろしいがきちんとリネを味方だと認識しているようだった。あの牙と爪があれば人間なんてあっという間だ。ヤーウェの火竜はそれだけの力はある。
珠洲のポポロはやけに人懐っこくて協力的のようだが、見た目は竜なのだ。
「これも二面性があり、わかりませんね。僕が言えることではありませんが」
アリウスは自分の中のキリトを思い出し、自虐的にため息をついた。
「協力的ならもう一歩進ませて使えるかも知れませんね」
ポポロを単なる脅しに使うのではなく、ヤーウェに彼・彼女達を回そう。珠洲の村への守りだけではなく貿易にも関わってもらうのだ。
アリウスは我ながら良い考えだと思った。
「ヤーウェからラウマという馬ではなくポポロに塩と燃える水や日常品を運んでもらう。もちろん珠洲の村でラウマに乗せ換え無理はさせない。そうすればカルマト派の出鼻を挫くことになる……」
カダルには迷惑をかけたし、この辺りでなんとか認めてもらわないといけないし。
うん、いいな。
それを今度話してみよう。
「あ――みとめてもらう? この僕が?」
本当に今日は自分に驚いてばかりだ。
どうして誰かに認めてもらわなければいけないんだ、とアリウスは一人ごちる。
腹立たしいという怒りはない。どうしてこんなこと考えてしまうのだ、という純粋な疑問だ。
「まるで自分が誰かに必要とされていたいみたいじゃないか」
アリウスはまた天を見上げた。
空には一番星が樹々の葉の隙間から覗いている。さやさやとした風が梢を揺らし、耳を澄ませば遠くから水の音が聞こえる。
珠洲の村も夜になれば暗くなるが、闇ではない。
もちろんアリウスが知らない闇はあるだろうが、ゴッドラムのそれとはまた違うだろう。どちらの〈闇〉が深いか。
また考え込むとどこからかユグノーの声が聞こえた。ヤーウェに侵入してすぐ出会った時だ。彼女は媚薬を焚き、娼婦の真似事をしようとしていた。
「滅んでしまえばいいのよ。滅べば――すべてすべて、すべてっ!」
あの時、ユグノーは臓腑から搾り出したような声で叫んでいた。
確かに滅べば良い国かも知れない。
その方が楽だ。終わらせても誰も哀しまない気がする。
アリウスは長いまつ毛を伏せた。
「キリト、足、大丈夫かっ」
「――え」
そういえば今朝、木の根で足を挫いてしまっていた。薬を染み込ませた布をリネに貼ってもらい安静にしていたのだった。
「仕事、終わったんですか、カダル」
「飯だぜ。持って来てやったぞぉ。今夜は煮物に川魚に味噌汁。デザートも付いているんだ。スゴクないか」
夕方で見えにくいが、遠くから近づいてくるのはカダルだ。彼のよく透る声が一足先に着いている。
「デザート、ですか」
「なんて言ったかな……ま、何でもいいや。途中で木の実を見つけたんだ。それを柔らかく煮て牛の乳から作った乳脂肪と混ぜている」
「詳しいですね」
「カダルが作ったんですよ」
最初は気づかなかったが、シルエットと声でリネが居るとわかる。
「カダルったら味見しまくるからみんな困って。ちゃんとキリトの分、わたしが責任持って残して置きましたから」
作りたて。木の実のヨーグルトかけ。
二人がそれを持って近づいて来る。
「一緒に食べようぜ」
「水も汲んできましたから」
どうしてだろう。鼻の奥がつんと痛くなる。
二人を守ろう――その時アリウスは自分の中のキリトの声をはっきりと聞いた。
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