珠洲の村・リネとアリウス(後)
この作品は完全オリジナルで、特定の宗教、国は関係ありません。
梢に下草に朝特有の露が宿っていた。久しぶりに過ごす珠洲の村は寒い。ヤーウェで監禁されていた時は村の方が過ごしやすいと考えていたが、戻ってみると肌を刺すような冷たさが痛い。
村に戻りやっと安らげると考えていたリネだが、今後のことになると不安が増す。聖地行きの茂みは閉ざされ、研究所建設の場所は荒れていた。もうあの紗華の花はもう摘めないのだろうか。滝の飛沫に浮かび上がる虹はもう目に出来ないのだろうか。
リネは珠洲の村の歓声に迎え入れられたが、心から笑うことは出来なかった。
ヤーウェという国とは細々とした貿易とも言えない貿易で繋がっていたが、今後は敵とみなされることだろう。その一因に逃げ出した捕虜としての自分が居る。
リネは何も言わない村人にどう謝ったら良いか考えて昨日は眠ることが出来なかった。これからも眠れないだろう。
「……」
ただ長老を助けたかった。
では自分は?
今考えると我儘にも思える。ヤーウェではカダルのイスマイール達が何かと良くしてくれた。なのに逃げ出した。これで彼らの立場は悪くなっただろう、そこまでは考えなかった。イスマイールは責任を取らされるかも知れない。
リネはつい考えすぎる所がある。
そしてすぐ後悔をする。そんな自分がたまらなく嫌だ。
助けてくれたカダルやアリウスという客人に不自由はさせたくなくて、でも貧しくて。朝粥だけでは足らないだろうと握り飯と焼き魚を運ぶことにした。村ではこれが精一杯だ。自給自足は出来ているが、研究所建設で人手が取られ作物や家畜の世話が手薄になった。それで食べる物は十分にない。
「これからどうなってしまうのだろう」
リネは独りつぶやく。
誰にも言えない言葉だ。でも木々が聴いてくれている気がした。
前を向き、今に立ち向かおう。迷惑はかけないようにしよう。目上の人には敬い、目下の者には優しく。村という共同体でそう教えられた。
不安は場を暗くするから避けるように――教えられてはいないが、学んだ。邪魔はするな、足を引っ張るな、指示される前にやれ。親のないリネ生きるためには学んだ。
リネは寝起きしていた薬師の館から朝食を盆に乗せ、集会所に向かった。
小川を背に小路を行くと遠目にアリウスが見えた。ちょうど鳩が彼めがけて飛んでくる所だった。
リネはすぐに伝書を運んでいるのだと気がついた。村はヤーウェとゴッドラムの手紙などを運ぶ荷物運搬人に山での食事や休憩場所を出してした。その中に急ぎの情報などを鳩の足にくくりつけ、放していた人達が居た。鳩は山を超えることが出来ないから、ここまで連れて来るのだと聞いた。
つまりこの珠洲の村ならギリギリ鳩は飛んでくることが出来るのだろう。
アリウスのことだから、きっとそういう手はずにしていたのに違いない。リネは彼らしいと思った。
やがてリネに気がついたのかアリウスが近づいて来た。
斜めに入る朝の光が彼の存在を際立たせている。黒い髪の彼も今は見慣れた。以前のアリウスは線の細さが目立ったが、今はどこか謎めいて見える。
彼の瞳が近づくとリネはヤーウェでの事を思い出した。
今はあの時と同じく二人っきりだ。そして両手は盆でふさがっている。
――アリウス……
リネはその名前を心の中で呼んだ。
動けなかった。
いや、動けないというのは言い訳だ。身を捩ることも後ろに下がることも可能だ。近づいて来た時点で背中を向けるということも選択できた。
しかしアリウスをリネは拒めなかった。
「あなたを、下さい」
アリウスの声はまだ耳の底にある。
あの時、リネは問うた。「あなたは私の何が欲しいのですか」と。
「さようなら」
――わたしも愛していますから。
生まれが違う。足手まといになる。
認めたら、消えてなくなりそうだ。だから嘘をついた。
この時の言葉だけは今でも後悔はない。
「さようなら」
緑と緑みの青が重なり、乱反射する。ここは珠洲の村だ。自分の育った山だ。
「……」
アリウスに長い指に後頭部を固定され、残りの手を顎に添えられる。
そして彼の近づく吐息と薄い唇。
拒めない。
拒めるはずがない。
やはり絶望の衣を纏った感情なのにリネは何も考えられなくなる。そのままこの感情の波に心を委ねられたらどれほど楽だろうとまだ思う。別れをとっくに選択しているというのに。
アリウスの唇は思ったよりも冷たく、また熱い。
瞳から流れ出るものは涙ではなく甘い露なのだろう。たぶん、自分は喜んでいるとリネは他人事のように思う。
頭のどこかが冷たい。
愛とか言うものを珠洲の村人は信じていない。もともと村人は両方の国の血をひくために両親に捨てられたか、駆け落ちで国を捨てている。
どこにも居場所がないからここに居る。
その共同体で育ったリネも自分が愛されるなんて考えたことはなかった。思えばカダルが理想だという〈子供が親と暮らせる国〉も半信半疑だった。一緒に夢を観てみたかった。今もその気持ちは、ある。でもその国の中に自分はいない気がする。今までの育ちが肯定してくれない。
アリウスは言った。「僕はリネ、あなたと居たいんです」
自分も同じだった。だが今甘えるということは、巻き込んでしまうということだ。
一緒に居たいから居たくない。
肯定はやはり無理だ。
先ほどアリウスが口にしたように、ヤーウェは自国のゴタゴタが収まるまでデンジャーというサソリに効く万能薬のことは後回しにするだろう。
だけれども忘れられているわけではない。ヤーウェという国を治めるとなると権威づけが必要になる。民の悩みの種であるデンジャーの一掃に力を入れるだろう。
その時に必要とされるのは薬だ。一掃するには人手がいる。怪我をする者も多く出るのだ。
万能薬が手に入れられないとわかったら彼らはどうするだろう。
村が襲われたら?
ヤーウェは強大な国だ。
山は怒りをまだ解いてはいない。その上、血を帯びた山は踏みにじられたと今より怒り狂うだろう。
本来ならカダルもアリウスも山に寝泊まりし過ごすことは許されないことだ。山は一定数以上の人間を受け入れない。ただ、ヤーウェの研究所建築で村人も何人か亡くなった。カダルとアリウスは欠員が出たから置かれているのにすぎない。
山から与えられている猶予が想像つかない以上――アリウスもそしてカダルも危うい。
ヤーウェからの攻撃を隠れてやり過ごしたとしても二人の命は保証できないのだ。
滅ぶならば潔く滅ぼう。
それが珠洲の村の考えだった。
カダルとアリウスには生き残って欲しい。
それがリネの考えだった。
アリウスの唇は優しい。どんな鳥の羽よりも柔らかく、包み込んでくれる。彼の同じ紅い瞳に映る自分の目が熱を帯びているのがわかった。
たぶん盆を手にしていなかったら、そのまま崩れ彼の胸にしだれかかってしまうだろう。
名前を何度も呼び縋りつくだろう。叶わぬことと知っていても傍に居たいと望んでしまうかも知れない。
たぶん初めて会った時からアリウスが好きだった。そして結ばれないと知っていた。
「僕の名前を呼んで下さい」
無理です。
無理なんです――アリウス。
その時に空が揺れ、葉が騒めいた。
何か到来したかのように風が天から向かって吹いて来た。
「……鳩」
鳥が目に入る。リネには山があえて連れて来たように感じた。
「――今、ですか」
アリウスがリネから顔を離した。リネは恥ずかしくて俯き視線を反らす。
アリウスの肩には二匹目の鳩が乗っていた。
「ゴッドラムは山の検問所でヤーウェからの密輸に気がついたそうです。しかしそこでの戦闘で積み荷は二分の一程度しか押収出来なかったとあります。検問所が急襲され突破されたのは残念です」
沢山の荷物を運ぶほど山道の幅は広くない。一点突破で押し入ったのだろう。
「荷物の行き先はわかりません。どうやら巻かれたようです。反政府組織は地下に潜っていますので、探し出すのは不可能でしょう」
リネは黙って聞いていた。
まだ頬が赤い。呼吸も心なしか荒れている。
「すみません」
アリウスは謝ったが、それがキスをしたことなのか、止めたことなのかリネにはわかりかねた。
「い、いえ」
「取りあえずすぐに僕が必要ということはないようです。相手に届いた武器は予定の半分。これなら傭兵などに城の警備を強化でなんとかなるでしょう」
第二伝書バトが運んできた手紙を解説するアリウス。彼の前髪がはらりと額に流れている。
リネは自然と目が離せない。
情けないが、情熱と冷徹の間を行き来するアリウスに見とれてしまう。知的で残酷でどうしようもできない。
「これ以上ヤーウェの剣がゴッドラムに渡るのは避けなければなりません。カルマトと反政府軍が手を結べば二つの国が――滅びます」
アリウスはこれ以上ないという冷ややかさで断言した。
二つの国に挟まれた珠洲の村に未来はない、と。
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