珠洲の村・アリウスとリネ(前)
この作品は完全オリジナルで、特定の宗教、国は関係ありません。
寝泊まりする場所である集会所はほとんどが木で出来ていた。土壁と樹木が組み合わさり、一部は畳と呼ばれているものが敷かれている。
窓にガラスはなく、戸板で開け閉めをしていた。隙間風は入り放題で、家の中であっても緑の香りがする。
寝具は薄い布の中に綿花を詰めたものだし、食器なども木をくり抜いた椀のようなものだった。夜は月明りを使い、ランプは最低限。煮炊きには小枝や薪を使っているようだ。
ひとことで言えば質素。質素で粗末で最低限での生活だ。
「……なのに何故だろう」
何かが部屋を満たしている。
アリウスはそう感じる自分が奇妙だった。戸板も元は樹木であり生きている。そのことに関係があるかも知れない。珠洲の村は自然の中の生命力と溶け込み存在しているのだ。
ゴッドラムでもなくヤーウェとも違う、共存の考え方だろうか。
目が覚めると朝の光が大気に溶け、四方八方に散らばっていた。
そっと瞼を閉じても、まだ光が視える。
アリウスは大きく伸びをした。隣に寝ていたはずのカダルがいない。布団はお世辞にも上手とは言えないが、畳んである。出て行ったのかも知れない。
アリウスは自分も外に出ることにした。慌てて珠洲の村に逃げ込んだが、ここのことはほとんど知らない。たぶんカダルよりも知識はないだろう。などと考えながらも扉を開けた。
扉のすぐ外に壺に汲み置かれた水がある。どこかの湧き水だろうか。川だろうか。そして柄杓が壺の蓋の上にあるというのは、自由に飲んで良いいうことかだろうか。
給仕する者のいない世界はアリウスには新鮮だった。
空が見える。
集会所の外はすぐに山である。
「キリト、早いな。どこか行くのか?」
集会所を出た所で声を掛けて来たのは、ヤーウェの次期族長だ。カダルはアリウスのことをキリトと別の名で呼んでいる。
カダルはキリトの手違いで国を追われることになってしまっているが、そう気にしているようにも見えない。が、どうなのだろう。
まさか自分の策を利用する者がいるとは思わなかった。上には上がいる。自分もまだまだだ。アリウスも一応笑っているが、喉の奥に苦いものがあった。
何か流されたままカダルと一緒に居るが、アリウスはゴッドラムの王族だ。本来は彼とは敵対――とまではいかないが、国として微妙な関係にある。本当の立場でなら気軽に話し合うことは出来ないだろう。
「少し散歩をしたくなりましてね。カダルこそどこかに行っていたんですか?」
「ああ、俺? 身体を鍛えるために毎日走っているんだ。ここでもそれを変えたくなかった。まあ、ちょっと気持ちを切り替えたかったということもあるけど」
「変わりましたか?」
「あんまり、な。でもやっぱり朝の空気は気持ち良いよ。山は特に瑞々しい。砂原じゃ味わえない感覚だ。それにこの周囲はまだ平地が多いから大丈夫だし」
「大丈夫って?」
「木が多いとクモとか毛虫が大変だろ」
「ぷっ」
そんなことを気にしていたのか。
「笑うな」
カダルも辛い立場だろうに。意外と図太いのか、それとも先を読んでいるのか。
こんな所で泣いてもどうにもならない。それを知り行動をしているということは、上に立つ技量があるということだ。こういうタイプは敵にしたくないとアリウスは感じた。
「僕も気をつけておきますよ」
アリウスは笑みを浮かべ、カダルに手を振った。
もちろん散歩が目的で離れるのではなかった。アリウスもまた上に立つ者なのだ。
アリウスは樹木の枝と葉の切れ目から見える空を仰いだ。
幸い晴れ、深く青い色に白い雲が所々覗ける。どこからともなく鳥の声が聞こえる。爽やかで葉に宿った朝露がきらめいて見えた。
昨日のことが嘘のようだ。
「……」
アリウスは無言で右手を上げた。
左手で輪を作り、風の音に似た口笛を吹く。
それが合図だったのかのように大空から羽ばたきの音がした。梢が鳴り、風が吹く。
すると一匹の鳩が落ちるようにアリウスめがけて降りて来た。
「よしよし」
脚元には小さな筒上の輪が付けられており、輪には何かが丸められて入っている。
「時間通りですね」
アリウスは小さくつぶやき、右手に止まった鳩から筒の輪を抜く。硬く丸められた紙だ。小さな文字でぴっしりと埋められている。
「――カルマトが政権を取る」
アリウスはその手紙を読んだ。
これは予想通りだった。脱出した時に誇らしげに笑っていたあの女――彼女なら被害者ぶりイスマイールを責めカルマトの意思を貫くだろう。
「そしてゴッドラムに剣が納入された模様、か」
あの工房で造られたものだろう。
思ったよりも素早い動きだ。密輸が表ざたになる前にゴッドラムに送るのは、それだけ内密にしておかなければならないからだ。タイミングからしてアリウス達がアーヒラという男を殺したと騒がれている最中に出発したのだろう。
あの女は時間稼ぎもしていたのだ。
「今の所、彼女に対抗できる者はいないでしょうね」
アリウスが手紙をやり取りしている相手はヤーウェ三大部族の一つであるドルーズの長だった。アリウス率いるゴッドラムと裏で繋がっている。
そのドルーズにとっては反政府派と繋がっているカルマトは目の上のタンコブだろう。だが表立って騒ぎを起こす部族ではない。今回も黙って流れを静観しているに違いない。
「しかしいつも知らんぷりされるのはねえ」
運び出された荷物が武器なので、ゴッドラムの反政府が力を持つ。
おそらくヤーウェで有利を盤石にしたいカルマトはゴッドラムとのパイプにすがるだろう。カルマトには従兄弟のユグノーも居る。反政府組織に貸しを作り地盤を固めたいところか。
つまりカルマトの独裁を許せばゴッドラムも危ないということだ。
「……さて、どうしましょうか」
アリウスは小さなため息をついた。国に戻るか、カルマトを見張るか。どちらもリスクがある。まだすぐには決められない。珠洲の村の立ち位置も微妙だ。
迷っていると枯れ草を踏む足音がした。
「リネ?」
「……アリウス」
アリウスが目をやるとシンプルな服を着たリネがそこに居た。初めて会った時と同じく布染草で薄紫に色づけしたものを前で打ち合わせ、ゆったりとしているが、手足首できっちりと結ばれている。
肩に流れる黒髪が朝日のせいか光を纏っているように見えた。リネの手には小さな盆があり、そこにはおにぎりが四つと焼いた川魚が乗っている。
たぶん食事を運んできたのだろう。
リネの視線は、肩に移った鳩にある。聡明な彼女はアリウスが何をしていたか気がついたに違いない。
「手紙……読んでいました」
アリウスは正直に話した。
「そう、ですか」
リネに驚いた様子はなかった。長いまつ毛を震わせているがしっかりと見つめ返して来る。
「そこには何てありましたか?」
「短いですがね。今のヤーウェの状況が描かれます。あのシーアとかいう女のカルマト派が国を抑えようとしているらしいです」
「……」
「珠洲の村については書いていません。たぶんそれどころではないのでしょう。アーヒラとかいう男の殺害をカダルだと決めつけ、物事を有利にしたようです」
アリウスが報告している間、リネは身を固くしていた。
今、攻めてこられたらこの村はひとたまりもない。彼女は心配しているのだろう。長いまつ毛が伏せられ震えている。
華奢な肩も重すぎる現実に辛そうだ。
「まずこの村の防備について教えていただきたい。今すぐにどうのということはないでしょうけれど、準備は早い方がいい」
「……はい」
「山の道で封鎖できる所は封鎖し、罠を仕掛ければ」
「あの、カダルは?」
リネから出た名前にアリウスは言葉が詰まった。
「彼が気になりますか」
「殺人という罪に問われるんでしょうね」
「それは……その方があちらにとって有利でしょうから。心配されなくても村に捕まえに来るのは今ではないと思いますが」
「いえ、カダルの気持ちが。それに一緒に居たイスマイールの方々のことを考えると……なんとか名誉挽回の手立てはないものでしょうか」
「……そちらの心配ですか」
アリウスは眉をひそめた。
どう表現すればいいのだろう。リネがカダルのことを気にかけている。ヤーウェに監禁されていた時に世話になったし、一緒に逃げて来た。当たり前と言えば当たり前なのに、爪で引っ掻いたような感情が湧く。
たぶん立場が逆なら自分を心配してくれるだろう。リネは元もとそういう女性だ。わかっている。なのにモヤモヤする。
――胸がおかしい?
喉の奥。心臓のそば。具体的な場所は不明だ。もちろん病気ではない。何だろう。自分の中に生まれたものなのだろうが、わからない。どうしてかリネの口から他の男性の名が漏れ出るのを聞きたくない……気がする。あの唇から。
「……」
アリウスは以前の唇の熱さをまだ覚えていた。
甘く、涙の味がした。
別れのセリフも忘れてはいない。
「あー、その……この鳩は通信用に使えます。誰とは申せませんがヤーウェの情報を伝えてくれています」
アリウスは出るだけ感情を抑え、話を切り替えた。
「別便でゴッドラムからも鳩が来る予定です。たぶん昼過ぎになるでしょう」
「……良いのですか?」
「え?」
「ゴッドラムに戻らなくても。ヤーウェ産の剣が渡ったのでしょう」
「聞いていたのですか」
アリウスの問いにリネは小さくうなずいた。
「僕がゴッドラムに戻った方が良いですか?」
「……」
リネが沈黙した。
我ながら意地悪な質問だと思った。
アリウスは国を長く留守には出来ない。それを知っていてリネがどういう答えを出すのだろう。彼女の気持ちはどこにあるのか。
不思議と自分が抑えきれなくなってきた。
リネを見、話をすると、おかしくなってしまう。
顔、髪、手、足。彼女のすべて。
口が渇く。
「僕は、あなたのそばに居たい」
「……」
「嘘でもいいからイエスと言って下さりませんか?」
アリウスはリネに一歩近づいた。
「僕の名前を呼んで下さい」
リネの紅い瞳が揺れる。
「どうか、僕と」
「わたしは……わたしの気持ちはあの時に言いました。住む世界が違います。足手まといにしか――」
リネの唇がそこで止まった。
いや、止まったのではない。
アリウスが止めたのだった。
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