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山へ

この作品は完全オリジナルで、特定の宗教、国は関係ありません。

 リネがカダルの元に走って駆けつけた時、彼は地に片膝と片手を着き、不自然な形で固まっていた。

 そしてカダルに寄り添うようにアリウスも隣に居た。アリウスにしては珍しくカダルの肩をかばうように抱いているようだ。後姿の二人に緊張の色が見えた。

 風が止まっている。

 陽はジリジリと周囲を焼き、乾いた砂が動く。

 空気そのものが張り詰め、異様な密度を持っている。

 ここに居る全員が動かない。まばたきもせず、息までもしていないように思えた。

「――だいじょう、ぶ……ですか」

 リネは静かに声を掛ける。

 この状態は異様だ。誰もが相手と向き合いながら岩と化している。小競り合いのまま時間が止まっているのだ。

 だがその周囲の人間に共通点があった。

 みんな一点を見つめている。

 その目の先にはカルマトの夫人であるシーアと足元のアーヒラ――勝ち誇る女と這いつくばる男が居た。

「……」

 リネは視点をシーア達に向けた。

 夕焼けを煮詰めたような赤が散乱している。手にも服にも砂の上にも。

 彼女が何か叫んでいるけれどリネには聞こえない。耳に入って来ない。

 自分の心臓音と呼吸の音、そして頭の中には大切な人に迫る危険で一杯だった。

 何?

 遠くからシーラの乾いた笑いが響いて来る。

 言葉はやはりわからない。誰に対してだろうか? シーアは饒舌で、理解する前に次の言葉をぶつけている。

 ――カダルが危ない。

 ――アリウスもどこか変だ。

「……わかり、ますか?」

 人は驚き過ぎると無表情になる。心が理解するのを拒んでいるのだ。

 リネは二人に呼びかけた。微かにカダルが瞳を動かし反応したが、いつもの彼ではない。

「カダル、わたしです。リネです。わかりますか」

「――あ、あ。リネ」

 カダルは視線を右から左に流した。直視はない。

 今は非常事態だ。わたしがしっかりしなければとリネは自分自身に言い聞かせた。

「しっかりして。しっかり。カダル、足の怪我は?」

「……大丈夫……だと、思う」

 カダルの視点はリネを素通りしている。

 怪我から流れ落ちる血が砂に吸い取られているが、その痛みすら感じていないようだ。

「リネ。あなた達を逃がすために仕掛けた罠を相手に利用されました。これは僕のミスです」

 アリウスがうなるような低い声で言った。彼は無意識にか、唇を強く噛んでいる。

 まだ自分を保っているようだが、アリウスもまた、どこか現実味のない時間を漂っているのかもしれない。

 アリウスが珠洲の連中を逃すための騒動を起こす。成り行きでその場に居たアーヒラとカダルが戦う。そして気がつけばカダルの前にアーヒラの遺体が転がっていた。今はそんなところだろうか。

 誰がアーヒラを殺したのか。

 決闘は以前から伝えられていたことだ。カダルと闘いはしただろう。

 だが、リネはカダルがアーヒラを殺していないだろうと思う。カダルの性格から相手にとどめを刺すとは思えない。それに高らかに上げるシーアの右腕にはまだ纏わりつくように流れる返り血がある。

「もしかしたらカダルはやっていない罪を着せられようとしているの?」

 リネはアリウスに尋ねた。

 アリウスは無言でうなずく。

 誰に?

 答えは目の前に居る。

 いや、シーアはカルマト夫人だ。息子を殺せるのか。後妻であっても仲は良さそうだった。

「誰も見ていない」

 考えあぐねて迷っているリネにアリウスが告げた。

「誰も見ていないんです。それぞれに戦っていた。今の状況はカダルに不利に動くでしょう」 

 確かに同じ国とはいえ他部族のカダルがここに居るのは命の危険がある。誰もアーヒラを殺す瞬間を目にしていないなら、自分のように息子は殺せないもの……つまりカダルが殺したと誤解しかねない。


「カダル!」


 リネの声にカダルはピクリと動いた。

 そしてカダルは周囲をゆっくりと――ゆっくりと見渡す。

 赤茶けた砂が風と混じり、白く視界が濁っているだろう。少し向こうにカルマトの工房の門。ヤーウェでは一番古く広いものがぼんやりと見えるに違いない。

 カダルは続いて足元に目をやった。足元には黒く影が落ちている。確かめるように彼は何度も見ている。そしてゆっくりと、あの場所へ視線を動かせた。

 

 アーヒラは死んでいる。

 もうピクリとも動いてはいない。

 アーヒラは死んでいる。

 アーヒラの義理母シーアが唇を舐め声にならない声で勝利宣言をしている。


 どうしてそれが「勝利宣言」なのか。

 カルマトがイスマイールを強く非難しているのか。

 そして何故、爺やみんながカダルを憐れんだ目で見ているのか。


 リネはカダルが肩を震わせ始めているのを見て、心が折れかかっていると直感した。このままではいけない。壊れてしまう。

「爺やさん。カダルを山に連れて行きます。許可を下さい。このままでは事実は飲み込まれ、彼は殺されます。カダルは冤罪です」

「……」

「わたしはカダルを友人として守りたいのです。このまま壊れたら、自分がやったと言いかねません」

「僕もその方が良いと思います。ここでは感情的になります。引きましょう」

「……」

 どうやらイスマイールの規律と呼ばれているカダルの爺やも心と身体が合一せず、バラバラになっているようだ。無言で膝を落とし、口だけが酸素を求めるように動いている。

 彼とこれ以上話すのは酷だった。

「逃げましょう、カダル」

 リネはただ力なく座り込んでいるカダルに声をかけた。

「僕も行きます」

 リネとアリウスは両脇から腕を回す。カダルを持ち上げ立たせ、歩き出させようとした。カダルはされるがままになっている。

 シーアは何も言わない。勝ち誇った顔で黙って三人が立ち去るのを見ている。

 それがシーアの〈正義〉だったのかも知れない。逃げるカダルの背中に自分の有利さを読んだのだ。全面戦争をここで起こすことはない。彼女の賢明な頭脳は今動くことを〈良し〉としない。

 リネはシーアに見送られながら、二人を連れて山に向かった。

 逃げること。

 実権はカルマト派に移り、イスマイールは部族としての信頼を失った。

 ここに居るすべての者がそれを理解した瞬間だった。




 リネは山の麓で久しぶりに長老とタエに対面した。長老の目は腫れ、歯は欠け、あちらこちらに青あざがある。元もと白髪の多い老人だったが、今は真っ白と言っていいだろう。見ただけで何をされたかわかった。

 タエも心労が重なってか頬骨が目立つほどに痩せこけている。

 二人はアリウスの働きでここに居るのだろう。

「……帰りましょう」

 リネは多く語らなかった。アリウスの配慮に感謝したが、起きてしまったことを思うと素直に喜べない。カダルは無表情のままうなだれている。この事件がなければ、山へ――珠洲の村へ帰ることはかなわなかった。カダルを犠牲にして我々はあるのだ。どんな言葉を長老達に掛ければいいのだろう。わからない。


「登れるかのぅ、カダルさんや」


 空気の漏れた言葉で、長老がカダルに言った。そして下にある草を引っこ抜くと葉を取り、茎の部分をカダルに差し出す。

「苦いが、多少の痛み止めにはなるでのぅ。口に入れておきなさい。登るのは辛いで」

 長老の右手の指には爪がなかった。

 リネはそのことに気がついたが、息は飲み込み、やはり黙っていた。

 言葉がない。

 全部わたしのせいだ。

 元は自分が掟を破り万能薬を渡したことから始まっている。その上にアリウスに帰還を願ってしまった。それがどんなことになるか考えずに。

 いや、わかっていたはずだ。感情のまま頼んでしまった。無理を通さなければ珠洲の村に帰ることは出来ないと知っていたくせに。

「……」

 なんて自己中心的な人間だろう。リネに自分を弁明する言葉はないのだ。

 その時、うめき声に似た音で、カダルが口を開いた。差し出された茎にゆっくりと焦点が合うと顔が歪んだ。

「……すみま、せん」

 カダルはゆっくりだが――小さな声だがはっきりと言った。


「すみませんでした……すい、ません」


 カダルの目からほろほろと涙が流れ落ちた。

 ぬぐうことなく、そのままに頬から顎に流れゆく。服に零れても微動だりしない。

 自分の無力さを責めて責めて責めているのだろう。そしてそれを隠さないのはカダルらしかった。

「……誰に謝っているんですか、カダル。リネ達珠洲の村にちょっかいを出したのはカルマト派。捕虜を連れて来たのも監禁していたのも彼らが決めたことでしょう。そしてアーヒラを殺したのはあのシーアとかいう義母なのでしょう」

 アリウスが頭を垂れるカダルに言い切った。

「……で、でも俺があそこに行かなかったら」

「無理やり誘ったのは僕です。自分を追い詰めないで。僕を憎んで下さい。恨んで下さい」

 アリウスはいつになく真剣だった。

「どちらも僕は慣れていますから」

 アリウスはもういつもの彼に戻っていたようだ。いつもの少し哀しげな人を寄せ付けない目をしている。

 リネはその切ない目がひどく苦手で、また魅かれている。不幸から立ち上がった強さと、まだその世界に魂を残している寂しさが同居しているから。

「アリ……いえキリト、その、元はわたしが山に帰りたいと言ったせいです。カダルに憎み恨まれるのなら、わたしです」

「計画を立てたのは僕です」

「そうさせたのは、わたしですから」

「――いや……俺が悪い」

 横でカダルが二人の言葉を遮るように、きっぱりと言い切った。

「確かに俺は謝っている場合じゃなかった。冤罪を晴らし、国を立て直さなければいけない」

 流れ出ていた涙をカダルは腕でぐっとぬぐいさる。

「ごめんな。それから二人共、助けてくれてありがとう」

 無理をしているのがわかる。まだカダルの拳が震えている。幼馴染のアーヒラのことを思っているのかも知れないが、尋ねることは出来ない。

「お礼なんて……」

「リネ、三部族の歪みは以前からあった。それに珠洲の村を巻き込んだんだ。助けてくれたのに感謝をしないなんて変だろ」

「――カダル」

 リネにカダルは精一杯のカラ元気を見せている。

 だけどリネはまだ迷っている。ここに連れて来たことが正しいかどうかわからない。ひょっとするとあのまま冤罪を主張した方が良かったかもしれない。どちらが正解なのか、問いかけは終わらない。

「……いえ、お礼を言うのはわたし達ですから」

「そうですとも。カダルさんは私達に優しくしてくれたじゃないですか」

 途中でタエが明るく声を出した。

 少し笑顔が引きつっているが、タエらしい気がする。

「先のことなどわからんて。まずは山に来たらどうじゃ。たぶん拒みはしぇん」

「ええっ。たぶん、ですか?」

「ほっほっ。ヤーウェは珠洲をイジメてくれたからのぉ」

「やっぱりそう思いますかっ」

 カダルは大げさに空を見上げ、ため息をつくマネをした。

 その仕草に長老もタエも、アリウスでさえ笑った。

「……」

 みんな前を向いている。

 そう思うとリネは落ち込んでいる自分が恥ずかしくなった。

 たぶん答えは微笑むことだろう。今は良かったか悪かったか問うている場合ではないのだ。

「行きましょう、カダル。村へ」

 リネは力を込め言った。


読んでいただきありがとうございました。

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