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ヤーウェ・リネの後悔

この作品は完全オリジナルで、特定の宗教、国は関係ありません。

 唇を重ねたのは何度目だろう。

 胸の音が痛みを伴って耳に響いている。

 息があがる。身体は熱いのに、好きだと思う度に心が凍えそうになる。幸せなのに辛い。

 縋りたいというのは、我儘だ。誰かに自分の苦しみを救ってもらいたいのは、弱いせいだ。

 リネは初めての感情を持て余し、自分を否定し続けた。

 自分の未来ならともかくアリウスの未来を壊すわけにはいかない。それが長老に教わった〈他者からの自立〉なのだ。

 ――でも、ありがとう……

 わたしを愛してくれて。

 わたしを欲しいと言ってくれて。

 リネはアリウスの気持ちが嬉しかった。この気持ちがあればどんな辛いことも乗り越えて行ける。そう思うほどに幸せを感じた。現実は残酷だが、救いも見いだせるのだと思えた。

「……」

 アリウスの手は暖かい。このまま夢に漂っていたくなる。冷たくて残酷で魅力的な人。遠い異国の男性。

 リネはふと夕方の風の匂いを感じた。


 瞳を閉じたまま、頬の上を通り過ぎゆくものを観る。

 たぶん空は真っ赤に染まっているのだろう。砂漠の落ちる陽は熱すぎる。すべてを焼き尽くす炎が空を龍のごとく泳いでいるのだ。

 山では生い茂った樹木のせいで見えなかった。ここヤーウェは大気もすべての密度が濃い。天は高く光は強く、闇は夜を覆っている。

 こんなことを考えるのは自暴自棄になっているせいかも知れない。

 カダルは色々と良くしてくれているが、素直な彼の物言いで現実から目を背けている自分が痛く思える。カダルの前で笑えるのは、その方が楽だからだ。彼に癒されるのは捕虜の立場を忘れていたいがためだったのだろう。

 いつからこんな弱虫になってしまったのだ。

 駄目だと思いつつアリウスの手が払いのけられないのも心地よさに流されているだけだ。


 ――わたしはなんて罪深い……

 リネは眉を寄せた。

 長老は拷問を受け、タエはその血を拭いているのに自分は何をやっているのだろう。

 駄目だ。

 駄目だ。

 駄目だ。

 手が振り払えない。

 アリウスに別れを告げたのに離れられない。

「……っ」

 リネが細い吐息を漏らした。

 その時、乱暴に扉を叩く音がした。



「リネさん、今連絡がありました。山に建設中の研究所が崩れ落ちました。一応、お知らせしておきます」

 家の入口の監視員の声だった。

「えっ?」

 反射的にリネは返事をする。

「はい。話では、地面に亀裂が入り、建物自体が陥没したようです。カルマトの連中が山麓に避難し始めています」

 背中に冷たいものが流れた。

 もしかしたらリネさんに実地検分をしてもらわなければならないかも、と監視員は言葉を告げたがリネの耳には入らなかった。


「山が――」


 リネの中に震えが走った。

 アリウスも気づき困惑しているようだ。リネを抱きしめる手に力が入った。

「離して、アリウス。行かなくちゃ」

「君が行ってどうする」

「山の怒りを鎮めます。きっとこれは他人が土足で上がり込んだから……」

「鎮めるって、どうやって?」

 アリウスはいつもの冷静な顔に戻っていた。

「どう……って」

 リネはわからない、とつぶやく。

 わからない。

 そう。山では静かに息を殺して生きて来た。神が宿るとは聞いているが実際に会ったことはない。聖地は自然そのものが聖なるものだ。緑の葉もそれに宿る露もすべてが侵さるべき存在なのだ。

「……わからないけど行かなきゃ。ここにいても仕方がありません」

 考えるよりも身体が動いた。

 リネは寝室から飛び出す。

 幽閉されているはずだったが、あっさりと出入口の扉は開いた。

 外は驚き口を開けている若い男と夕闇が広がっていた。どうやら彼は監視員らしい。彼はリネが外に飛び出して来るなんてことは考えていなかったようだ。想定外のことに、ただ茫然とし、リネを見つめている。

「これは……何」

「はぁ?」

 リネは彼ではなく空を見上げた。そして両手をすくうように合わせた。

 天からはらはらと粒になった〈感情〉が降ってきている。リネも初めて見た。粒子が細かく、どこか花粉を連想させるものだ。それは〈怒り〉であり〈哀しみ〉だった。

 どうしてわかるのかと聞かれてもわからない。直観だ。

 感情というものが空から降っている。

 横の青年は気がついていない。リネの驚いた横顔をただ見つめている。


 ナゼワレワレを クルシメル。

 オマエ達は誰ダ。


「……」

 砂漠に落ちた陽の暗い紅色と来たる夜の深さ。その中にあるもの。風景に溶け込むような粒子が手のひらに集まる。


 出テゆけ。


 この感情は山から流れて来たものだ。細かい粒子になって落ちて来た山そのものだ。

「……どうしてわたし、今まで気づかなかったの」

 外に出なかったから?

 それとも自分と村のことで頭が一杯だったからだろうか。山がここまで感情を表すとは思ってもみなかった。研究所が崩れ落ちたこともこの現象と関係があるのだろうか。

「監視員さん、他に情報はありませんか?」

「あ、ええと今、山との境目に怪我人を運び下ろしている所です」

「今、ですか」

「はい。どうやら動ける者が下山し事故をて知らせに来たようです。今、カダル様が救出に向かっておられるそうです。詳しくはわかりませんが」

「登山口ですね」

 リネはそのまま外へ走り出した。

 一応〈薬師〉だ。何か役に立てるかも知れない。その感情が一瞬幽閉されているという現実を忘れさせてしまった。


 臓腑に外傷を受け、意識がない場合は蘇生樹の皮を煮だしたもの。出血には造血作用の増紅の花と実。痛み止めには貴船草の根。


 万能薬はなく、聖水も呼べない。

 それでも何か手伝えることはあるはずだとリネは走った。山が起こしたことならその民は無視出来ない。どうすれば良いのかはわからないが、今何をすべきなのかはわかった。

「助けなきゃ……」

 ヤーウェの民は山の恐ろしさを知らない。リネは、ただ走った。


 怪我人を集めている場所はすぐにわかった。星が瞬きだした空を背景に、松明が赤く炎を上げていた。そこだけが闇に浮かび上がってい見える。

「……」

 砂を蹴り、走って走って走った。

 そして着いた。

 着いてすぐ、リネは自分の無力を悟った。

「そんな……」


 そこに救える者などいなかったのだ。


 松明(たいまつ)は五メートルほどの間隔で置かれており、その傍らにシーツと横たわる人々置かれていた。明り取りのためか脚元にはランプ、小さなロウソクなどが水の瓶と共にある。

 この状態から想像するに崩落事故が起きたのは今日の昼前あたりだろうか。白衣を来た研究所関係者と土で汚れた作業員らしき者達が交互に並んでいる。

「……」

 リネは無言になった。言葉が出てこない。麻の布に横たわった人々の土気色の顔から希望は見いだせない。

「酷い傷ですね」

 横にいたアリウスが何の感情もなくぽつりと言った。

「こちらは心臓を。向こうは頭ですね。あの出血が多い者は頸動脈をやられたせいでしょうね。いずれも苦しまずに逝けてます」

 アリウスの言う通り、寝かされているのはもはや命の灯は消えている者ばかりだった。どの遺体にも直径五センチほどの木の枝が突き刺さっている。中には突き抜けている者もいた。ほとんどの者は出血は多くない。苦悶の表情をない。それくらい一瞬だったのだろう。

 服は土にまみれてはいたが、顔は拭かれているらしく綺麗だった。

「こんな慈愛に満ちた死に方をしている人間が単なる事故には見えませんね」

 立っているのも精一杯というリネと違い、アリウスは朝にふらりと散歩に来たような口ぶりだった。

「優しい殺し方だ。これが山のやり方ですか?」

 頭を貫かれても眠っているように見える遺体はアリウスには物珍しいと映ったようだ。それが〈優しさ〉であるのか〈慈愛〉と呼ぶのかリネにはわからない。

 が――

「これはたぶん……樹木の反乱です」

 リネは唇を噛みしめた。

 聖地に近い植物は自分の意思を持つ。紗華の花は薬になるかどうか自らが決める。

 死に方から考えればただの地滑りで研究所がやられたのではないだろう。

「山より先に樹が動いたと、思います」

「は? 木が?」

 アリウスは怪訝そうな顔をしている。

 説明してもわかってはもらえないだろう。とリネは視線を外しうつむく。

「研究所が崩れ落ちた原因は、たぶん切ってはいけないものを切ったから。樹木が人に対して怒りと哀しみをぶつけた……理不尽だ出て行けと声を上げたのです」

「何を言っているのですか?」

 アリウスは首をやや傾げ、わからないという仕草を見せた。

「建物を崩壊させその中の人間に樹が腕を伸ばしたんです」

「まさか」

「……いいえ。それが現実です」

 先ほど天から降ったのは山全体の感情だと思ったが、樹木の言葉かも知れない。細かい花粉に乗せてここまで運んだのだろう。

 今は樹木だからこの程度で済んでいるのだ。もし山が本格的怒りを人間に向けたらどうなるか。

 リネは手をきつく握りしめた。

 地面は繋がっている。山が動いたら最後、落石、地割れ、地震、あらゆる憎悪が大地から吹き出し大惨事なるに違いない。

「……止めなきゃ」

 また担架で首に枝を刺した男が運ばれて来た。横をで泣いているのは妻だろうか恋人だろうか。血濡れた襟を掴んで男の名前呼んでいる。彼女は何度離されても寄り添い、耳を覆いたくなるような叫び声を上げた。


「今度の奴は目から脳が木に貫かれてひでえ」

「やっぱり山は呪われているのか?」

「助けようにもここに着いた者は息がねえぞ」

 ヤーウェの人々は増えて行く死体を前に呆然とするしかないようだった。

「間違いだったんだ」

「カルマトのせいだ。カルマトの」

 高ぶっているせいか、誰もが大声で悪口を言い出した。

「残酷だ。死の世界だ」「呪われている」続けてヤーウェの民は眉を吊り上げながら吐き捨てるように言う。「カルマトが悪いんだ」


 松明が音を立てて弾ける。


 あまり風は強くないが、炎は煽られ火の粉があちこちに飛んでいる。焦げ臭いとすすりなく声が周囲に充満していた。

 遺体の顔はその爆ぜる火と風によって影の位置が変わる。動かないの落ちた影はちらちらと揺れる。

「……違う」

 リネはつぶやいた。

「カルマトが悪いとか一方的に決めつけられません。人間が昔から山を軽んじて来たから……」

 忌み者の捨て場所。

 リネの生まれるはるか昔から積み重なった穢れ。

「その恐ろしさをわたしが伝えなかったからだわ」

 唇が凍えた。

「あなたが責任を感じることはありませんよ、リネ」

「……アリウス」

「自業自得のことをこの国はした。滅びるのを待てばいい」

「駄目よっ!」

 リネは自分で驚くほど強い口調で言った。

「これ以上、見てられません。山を恐れられるのも嫌。怖がられるのも嫌。憎まれるのはもっと嫌」

 黒い髪と赤い目。捨てられた混血。ヤーウェは居場所ではない。どうしてわたしはここにいるの? 

 どうして?

 どうして?

「落ち着きなさい」

 アリウスはリネの肩を揺すった。しかしそれくらいでリネは自分を取り戻すことはできない。 

「無理矢理つれて来られた……もう、もうここに居たくないっ」

「リネ……」

「戻りたい――山に。止めなきゃ。止めなきゃ。長老様やタエと一緒に怒りを鎮めなきゃ。もっとたくさんの人が死んでしまう!」

 まだ熱の残る砂漠と夜の冷たさ。

 一人、一人と運び込まれる度に泣き声が響く。静かな世界に引き裂くような声がこだまする。


 血の匂い。

 死の香り。


「ここに居てもすることなんてない。アリウス、わたし達を山に返して。このままでは治まらないかも知れない。最悪の時が来る前にわたしを山に戻して……お願い戻して」

 リネは思わずアリウスにすがった。

 止められない。止められなかった。

 もともと万能薬を村の外に出してしまったのはリネだ。そのことが胸を締め付けるように痛い。この出来事の種を巻いたのはリネなのだ。

「お願い……」

 リネは力なく砂に座り込んだ。

 どうしていいかわからないのに責任感が首を絞めて来る。長老やタエを苦しめているのは〈わたし〉だ。すべて判断を誤ったのは〈わたし〉なのだ。

 罪を負うべきはヤーウェの人々ではない。

「……そう、それならですね」

 アリウスはリネを見、その唇の両端を美しく上げ、微笑んだ。


「お気に召すままに」



読んでいただきありがとうございました。

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