ヤーウェ・それは小さな嘘
この作品は完全オリジナルで、特定の宗教、国は関係ありません。
滝から流れ出る水が飛沫になり周囲は白くけぶっている。霧が空を覆いつくし陽の光はいつもより曖昧で、どこに世界の中心があるのかわからない。
周囲はその霧に圧倒されて右も左も真っ白だ。左から右に揺れながら流れてはいるようで、濃さは心なしか増してゆく。
リネは紗華という花を探していた。
紗華は柔らかい桜色をしている六枚の花弁を持ち、外に向かって赤く色づいている毒草だ。他の花と違うのは、滝つぼの水につけると薬に変ることだった。
紗華はそれぞれに意思を持っている。
薬になることを許してくれた花だけが摘まれる。心を通わせることのできなければただの毒花でしかない。
――苦しまず逝くならば根を煎じて、狂わしく逝くなら葉を煎じて。
珠洲の村に伝わる言葉だった。
花の意思は聖地の意思。紗華は山の意思でもあった。人間に指図はされたくないと明確に表明している。
「……滝はどこかしら」
先ほどから水音は聞こえるから滝の側なのだろう。わかってはいるが、リネは白い世界に閉じ込められているような気がした。
だが、目的があってここに来たのだ。
「答えて下さい。今、珠洲の村の子供が高い熱を出しています。すぐに薬が必要なんです」
リネは白く眠るような世界に向かって言った。
子供はこのままでは明日まで持つまい。
「助けて下さい。どなたか薬になっていただけないでしょうか。あの子はまだ三歳になったばかりなのですっ」
何度も口にしたが、山は無言を貫いている。
花は沈黙のままだ。
ざわざわと風が鳴っている。
滝の音が遠くなり近くなり、リネは独り取り残された。
静かな拒否も薬師としての無力感を抱くには十分だった。紗華はまだリネが未熟だと相手にしてくれないのか? 人などはどうでもいいのか?
リネはその場に座り込んだ。
不透明な白い世界だった。
「……リネ」
誰かが読んでいる。
その時、霧の中から手が差し出された。
長い指だ。霧で凍えたのかひどく冷たい指先をしている。けれどもリネを守るかのように見える。
知っている、というより忘れられない手だ。優しいのにひどく哀しい。
薬創りを教えてくれた、あのお姉さんかも知れない。まだ幼いリネに才能を見出してくれた人だ。
優しく細い長い指だ。
小さなリネの手を引いて包んでくれる。この世はたくさんの夜があり朝が来るのだと教えてくれた。
誰も悪くはない。信じることは最後まで信じ、逃げる時は後ろを向くなとも――あの時は月が出ていた。
今は霧。意識を吸い込んでしまいそうな白い色
「……」
リネはゆっくりと目を開けた。いつものベッドの上だ。身体を投げ出すように横になり、そのまま眠ってしまったようだ。
いつものことだと気に留めないだろう。いつものことなら。
しかし目の前にはアリウスが立っていた。髪を染めキリトと名乗っているが、アリウスに違いはない。
問題はなぜ彼がここに居るか、だった。
「……」
アリウスの黒い髪はいつもと違い、輪郭をくっきりと浮かび上がらせている。そのためか肌の白さと紅い目が際立って見えた。
手を絡められていると知ったのは、少し立ってからだ。
それが最初は重要なことだとは思わなかった。相手を逃げないようにしているためだろうと支配者の理屈を考えていた。
そう――わたしは珠洲の捕虜
「だからあなたは決闘の賞金になる気ですか。カダルが何とかしてくれると考えていますが、彼は生き残りあなたとあなたの村を救うと信じていますか?」
アリウスの様子が変だと感じたのはこの質問をされてからだった。いつになく真剣でいつになく苦悩している。もちろん顔はまったく普段通りだが、張り詰めた空気が何かを物語っていた。
彼はアリウスなのか、それともキリトなのか?
いつもと少し違う。
おかしい、と首を傾げた時、彼はリネの絡めた手に唇をつけた。
身体にそこから青い火花が散ったようだった。
目の奥に残像が残っている。
リネは身体を強張らしたが、抜けて行く力を取り戻すことは出来なかった。手を振りほどくことなんて無理だ。
――どうして?
彼から色々と聞きたいことはあったが、たぶん納得してしまうだろう。だから声は掛けられない。次の言葉が見つからない。
「あなたを、下さい」
アリウスが見下ろして来る。
彼の指が頬を撫でる。
瞳がリネを映している。
リネは目が離せなかった。いつになく厳しい瞳の奥に捕らえられた。
そう、捕らえられたのだ。
長い沈黙が場に落ちた。
「――あなたは……私の何が欲しいのですか」
ややあってリネはつぶやくような小さな声を口にすることができた。
「わたしは山の人間です。ヤーウェからは神の子、ゴッドラムでは悪魔と恐れられています。どちらも事実で、山という神に仕え、人間の屍の上に生きています」
「……」
「わたしの大好きな薬師の先輩がいました。物心ついた時から衣食住の面倒を見てもらっていました。寒い時は綿入れを暑いときは綿の服を――糸の取り方、染色、薬について紗華や聖地に関して――そして死にました。新参者が入って来たのです。まだ一歳になる男の子でした。その年の終わりに先輩は落石で亡くなりました」
「……」
「山は一定数以上の人間を置きません。誰が亡くなるかは年齢順ではないようです。みんなは先輩が選ばれてホッとしていました。わたしは亡骸に縋りつき泣きわめきましたが誰も後に続く者はいませんでした。山の民が特別に残酷というわけではありません。いつもみんなが覚悟しているだけです。わたしも長老もタエもみんな誰かの屍の上にあります。来たことで死に、来たことで殺されます。だから――だから……」
リネは糸が切れたようにしゃべり、そこで口を閉ざした。
――あなたが欲しい。
アリウスの言っている言葉がわからないほど子供ではない。ただ受け入れられない。山で生きる者は自分意思を表に出さないことを最初に覚える。好意を持った男女がいても二人が近づくことはない。
山で子供は生まれないのだから。
「リネ……」
耳元にアリウスの熱い吐息が掛る。
けれども彼と幸せになることができないとリネは心の奥でつぶやく。
「キリト、アリウスに伝えて下さい。わたしはあなたの足手まといにしかなりません」
「どういう意味……ですか」
目の前の赤い瞳が揺れている。
自分と同じ血の色だ。
彼もまた映しているのはリネと同じ色なのだろう。その時、わかった。
絶対言ってはいけないセリフがあるのだと。
――わたしも愛していますから。
リネは目を堅く瞑った。
殺されてもいいと思った。どうしてそう思えたのかわからない。
むしろ命が欲しいと言われれば差し出しただろう。切られても刺されても喜んで死ねる。それくらい目の前にいるアリウスが好きだ――だけど情熱に身を任すほど愚かではない。
リネは山の民であり、アリウスはゴッドラムの次期王だ。そしてリネの今の立場はヤーウェの捕虜だ。無防備に愛を叫ぶほど自由でもない。
――好き、なんだわ。絶望の衣を纏った感情なのに……
アリウスへの想いを自覚するほどに己を知る。
「……アリウスに……伝えて」
彼の顔を見るのが怖い。
目を覗きこむことが辛い。
リネは自分自身を失う気がした。わからない浮遊感が感情を飲み込んでいる。認めたら、消えてなくなりそうだ。だから嘘をつく。
「さようなら」
リネは目を閉じ、じっと時間が過ぎるのを待った。気持ちに負けてしまう。流されてしまう。この関係は何も生まない。アリウスが不幸になるだけだ。忘れよう、断ち切ろう、今ここで、認めて封印してしまうのだ。闇に飲み込まれても認めてはいけない。
「……」
リネの唇に柔らかいものがあたった。
ひどく冷たく、熱い。
哀しいほど熱い。優しく熱い。
一度目は軽く、二度目は深く。
回が重なる度に心が血を流してゆく。
三度目は息が出来ない。
四度目で押し返し、五度目で受け入れる。
「キリト、あなたは残酷です」
リネは震える声で告げた。
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