ヤーウェ・氷の熱
この作品は完全オリジナルで、特定の宗教、国は関係ありません。
読んでいただきありがとうございます。
ベッドは斜めから差し込む光に照らされ、静かに浮かび上がっている。
熱を孕んだ砂漠の陽にも関わらず、柔らかな光の粒となってリネの周りを舞っているように見える。もし天使というものがいるのならば、こんな感じかも知れない。
いや――自分には見えるはずがない、とアリウスは首を小さく振る。
ここに居るのはリネだ。
彼女はベッド上でくるりと子猫のように身を縮め丸くなっていた。それは彼女なりの防御の姿勢かも知れない。両手は軽く握られ、胸の前でひとつにされている。止まった時間の中で、祈りを捧げているようにも見える。
「う、……ん」
その時、リネが吐息と共に声を出す。
アリウスは一瞬息を飲んだ。
リネの黒髪は頬から肩、そしてベッドへ緩やかな曲線で流れ、身体を包んでいる。まつ毛は目を縁取り、わずかな風に震えているようだ
リネの着衣はゴッドラムから逃がした時と同じだ。おそらくヤーウェに持ってきたのだろう。わかってはいるが、混乱した。
あの時は反乱分子に襲われ、命に別状はなかったが深手を負った。リネはアリウスを助けた。ひどく無防備な姿で懸命に助けてくれた。
あの時にアリウスは言った「あなたを殺せると思える時間を」と。
「……リネ」
アリウスの口から出た名前は、ひどく甘くて苦い。その味にめまいがしそうだ。なのに彼女から目が離せない。
細かなレースに包まれた折れそうな首。
微かに上下する胸元。
ロングスカートから覗くくるぶしは細く、アリウスはリネがこんなに小さな足をしていたのかと驚いた。
――驚く
「この僕が……?」
不意にアリウスは深部から湧き出た疑問に気がついた。
そういえばなぜ自分はここにいるのか。
カダルからの伝言を――いや、その前に動いていた。
決闘前に彼女に逢いたかった。
逢う。
そうだ。でも。
アリウスの思考が一瞬止まった。
どうしてリネの顔を見たいと思ったのか。
「……どう、して?」
自分で決めて行動していたのに、眠り横たわる彼女を前に〈わからない〉という言葉が次から次へと湧いた。いや、そもそもこの国に来た目的は何だったんだ。それは髪を染め危険を犯すに値することだったのだろうか。いつものように執務室で命令するだけで済んだのではないだろうか。
アリウスは無言で唇を噛んだ。
有益か無益か。
害するものか利になる者か。
もっと極端に言えば〈敵〉か〈味方〉か、でしか人間を分けてこなかった。事実、その二通りしか出会ったことがない。殺すべきか否か迷ったことすらなかった。
絹を裂くよりも簡単に身体を断ち、ワインを溢すように血で床を染めた。それがゴッドラムの王族の生き方だ。疑ったことはなかった。
ではリネにも死をもたらそうとしているのか。
「……いや」
それより――それよりも頬に流れていたであろう涙の跡が気になる。
幾筋もあるそれはぬぐうことなく顎にまで流れ落ちている。閉じ込められ、出すことができない声に似ている気がした。
「――リネ……」
アリウスはベッドに近づいた。
きめの細かい肌だ。顎から首にかけては白鳥のそれのように細く折ることは簡単だろう。今ならば起こすことなく逝かせられる。決闘の賞品として扱われて屈辱を受けることがなくてすむ。
アリウスはそっとリネの頸部に手を伸ばした。
「――アリウスさんの周囲は敵ばかりだったんですね」
リネがアリウスに言ったことが浮かぶ。その時の彼女はどう思っていたのだろう。同情心、それとも共感? 慈しみの目はただアリウスを映していた。
今、彼女の周囲は敵ばかりだ。
「……」
アリウスはリネの胸で握りしめていた手を取った。
触れた途端、彼女の指は何かに縋るようにアリウスの手を握り返して来た。
夢でも見ているのか、リネは苦しそうに眉を寄せている。
「……辛いです、か?」
リネの指に小さな爪がある。まるで透き通った月のかけらだ。寄せ集めたらこんな形になるだろう。
アリウスは何かに操られるように、腕を取り、薬指に唇をつけた。
言葉にできないものが口のそばまでせりあがって来るが、自分にはその資格がないように思えた。
「……」
アリウスはキスした指を自分の頬に充て、手の甲に語りかけるように唇を落とす。
アリウスは自分が何をしているのかわからない。どんな顔をしているのだろう。時間だけが過ぎて行く。部屋の四隅に闇が忍び寄って来ている。
「……リネ」
眠り続ける彼女をこのまま見つめていたい。そんな衝動に駆られた時、リネが目をゆっくりと開いた。ツボミがほころぶ瞬間に似ていた。しかし瞳はすぐに意識が戻らないのか霞がかかったように、ただぼんやりと周囲を見ている。
「驚かないで、下さい」
アリウスは自分から声を掛けた。
自分でも酷く間抜けなことを発していると思う。寝所にいきなり現れたら誰でもびっくりするだろう。ただそれ以外の言葉は思いつかなかった。
リネはアリウスを見、部屋を一巡し、握られている手に視線を落とした。
ここで何をしているのか、どうして、と尋ねたいことはあるだろう。しかし彼女はそれをせず、アリウスが絡めた指を不思議そうに見つめていた。
それはまるで驚くということを止めてしまったようだった。
「アリウス――いいえ。キリトと呼ばなければ……いけないのでしょうね」
彼女の声からは怯えも震えも何も伝わってこなかった。
「あなたは、僕がここに居るわけを知りたくありませんか?」
「……そうですね。でも」
リネは真紅の目を伏せた。
「言いたけば先に告げていると思います。キリトなら」
「さすがですね、リネ。あなたはこんな時でも冷静だ。わずかですがあきらめきっているのではないかと思った僕を許して下さい」
アリウスはベッドに腰を下ろした。
リネはアリウスに座る場所をつくろうと、横たわりながらも壁に寄る。隙間のできた分、アリウスはリネと間を詰めた。
愚かなことだ。リネを端に追いつめる。逃げられないように、二人に溝がなくなるように。彼女の手を握りながら。
「……ヤーウェを二分する闘いが三日後に行われます。その勝者はあなたを腕に抱くことになります」
「詳しくは知らされていません」
「でしょうね。あなたは捕らわれたウサギだ。どのように料理されるか知る必要はない」
「カダルは、知っているのでしょうか」
リネの目は何かを訴えているように見えた。
「カダルは教えてくれないのです」
「……」
アリウスは真っ直ぐに来るリネの視線を外した。
カダルの名前がその唇から出るのは良い気持ちがしない。また焦げたような不思議な感覚が奥から湧き出る。
「それは……当事者ですから。今ごろお姫様を救う騎士のごとく頑張っていると思います」
カダルは責任感が強そうだった。
それに傍から見ていてもリネに対する気持ちが漏れ出ている。きっと隠すということができないのだろう。口は悪いが堂々としているし、一族を率いる良き長となるに違いない。
「キリトは……」
「はい?」
「キリトはわたしが誘拐されたのをいつ知ったのでしょうか。ゴッドラムから来たのはそのせいですか。珠洲の村の合併阻止するために?」
「え、ええ。まあ。理由は――たくさんありますが」
アリウスはリネから顔を反らせた。
近くにいるのに直視できない。
「たくさんありすぎて……わからない」
村の独占はゴッドラムにとって脅威になるだろう。ヤーウェに力を付けさせすぎるのも良くない。しかしどれもアリウスがキリトになる必然はない。部下に見張らせ玉座で指示をすれば良いことだ。先ほどもそのことを考えて考えた。考えて答えを出した。そしてその答えのために山を越えた。
言葉にしても誰も信じないだろう。
アリウスですら信じていない。
「……」
「そういえば以前に言っていた。ヤーウェの崩壊を見るためですか」
「……それも、あります。ありますが」
「?」
「いえ……」
アリウスは否定をしなかった。
「あの。それより聞きたいことがあります。リネは、従うのですか?」
「え」
「だからあなたは決闘の賞金になる気ですか。カダルが何とかしてくれると考えていますが、彼は生き残りあなたとあなたの村を救うと信じていますか?」
「……」
リネは寂しげに俯き、身体を強張らせている。
答えはいくら待ってもなかった。
そう、リネに答える権利はないのだ。わかっているのにアリウスは聞かなければ治まらなかった。
「……すみません」
「いえ」
「……」
さすがに部屋の窓から夕方の風が吹き込み、太陽の光が低い位置から差し込み始めた。外は夕闇が空を覆い始めている頃だろう。
そばに居るにも関わらず、アリウスとリネは無言を貫いていた。
誰も信じない。自分の目と手で触れたもののみが真実だ。そのためアリウスは汚れ役も進んでやった。押さえつけ、力を身に纏うことが生き抜く術だった。
だけど今はそれとはまるで違う。
アリウスは彼女の手が離せない。
リネの包み込む優しさに土足で入った罪悪感と絡めた指から溢れる熱さに交互で襲われる。理性で考えられない所にいるのだという感覚はあるが、そこから抜け出す術は知らない。
「……リネ」
アリウスは絡めた指を外し、彼女の頬を撫でた。
見下ろす形になったがリネの顔がすぐそばにある。
彼女の赤い目にアリウスが映り、アリウスの瞳にもリネが存在しているのだろう。
リネ吐息がすぐ近くを通り過ぎてゆく。
これがアリウスはこれで先ほど考えた答えのすべて。
なぜここに来たのか逢おうとしたのか自分はどうしたいのか。
「あなたを、下さい」
それはたぶん大きなうねり。深い所からの呼び声。誰にも渡したくないという気持ち。
アリウスとしてキリトとして――男として。




