ヤーウェ・あふれた水
この作品は完全オリジナルで、特定の宗教、国は関係ありません。
〈勇者なるカルマト〉
〈慈愛あるドルーズ〉
〈敬愛するイスマイール〉
ヤーウェの国は三部族が合議制で収めていた。カルマトは革新、ドルーズは保守、そしてイスマイールは中立と分かれ、それなりにうまくいっていたはずだ。
しかし新種のサソリが現れて変わってしまった――いや、サソリはただの「きっかけ」に過ぎない。コップの水はギリギリまで注がれていたのだとカダルは思う。
自室の机にはジャマダハルと呼ばれる「切る」のではなく「刺す」ことに特化した剣が置かれていた。戦いに使うのは砂漠に住む火竜の背びれを加工したものだが、これははるかに小さい。爪を限界まで研いだ、いわゆる懐剣だ。
父が前夜にやって来て無言でこれをカダルに渡した。護身のためにということだろう。金色の柄の部分にはイスマイールの印が掘られている。
「チッ」
カダルは舌打ちした。
こんなものを持ち歩かなければならないほど切迫しているということは水がすでにあふれているということか?
カルマトのアーヒラと次の部族会でリネを賭けた決闘をすることになってから、民の様子が微妙にきな臭くなってきている。今まで部族間では表立って争いをすることなかった。作物の配分や土地の使い方で揉めたが、みんな冷静だった。だから平和は維持できると過信していた。
しかしあっさりと裏の顔は、出て来た。
昨日も殴り合い寸前で止めたが、みんなそれを当たり前のような目で見ていた。いつからこうなのだろう。
「――出かけてくる」
足早にカダルは絨毯の上を歩いた。乱暴に歩を進めたせいかカリグラフィー文字文様のタペストリーが落ちる。
「カダル様、今日はお止め下さい」
「どうしてだ」
「部族会議と決闘の日時が正式に板に張り出されました」
「何を、今さら」
カダルは気にせず、前を塞ごうとする爺を押しのけた。
「だから今日は皆、殺気立っておりますゆえ」
「はあ?」
「とにかく大人しくして下さい」
「わかっているっ!」
カダルは思わず大きな声を上げた。慌てて口を押えるが、もう遅い。心配している爺の顔が曇ってゆく。
「村人があちらこちらで部族別に徒党を組み喧嘩をしています」
「昨日もおとといも止めた」
酒の勢いを借りているようだが、今までの不満が溜まっているのは間違いない。
デンジャーの毒をまだどうしようもできない長達に民が苛立っている。死人が出たことで身近に迫った恐怖を抑えられないのだろう。
「俺のせいだ」
カダルは無力だという悔しさが込み上げて吐きそうだった。
「そんな、カダル様はよくやっていらっしゃいます。だから大人しくしていてくださいませ」
「……俺が危ないからといって曲げる男じゃないのは爺も知っているよな」
「はい、まあ」
爺は残念ながら、と口の中でつぶやいた。
「ならば、止めないでくれ。張り出しを見てからリネの様子を見に行く。俺達のせいで気を病んでいるんだ」
「……カダル様はリネさんのことになるとますます頑固ですな」
「はあっ?」
「いいえ。もうお止めしません」
爺は横を向き、口を前に鳥のように突き出している。子供のような仕草だが、あれはカダルにわざと不満を見せつけているのだ。
「悪い。親父にもみんなにも心配掛けているのはわかってる。でも珠洲の村をどうにか元に戻したい。それには彼女の万能薬を伝授してもらって量産することだと思うんだ」
無理は承知だった。リネという薬師が使う紗華の花しか使えない。しかしそれを手伝い大量に生産できれば、カルマトの勧める村の研究所案は回避できる。
カダルは拳を握った。
「爺、大丈夫だっ! とにかく心配するなっ!」
怒鳴ると植物文様の装飾パネルも落ち、アラベスクの花瓶が転がる。
爺がため息をつき、肩を竦めた。
まったく最近は家の中も危ないじゃないか、とカダルは半ば文句を爺に言いがら屋敷を後にした。
部族会議の評議員だけならば板に張り出しはしない。満月の夜だと決まっている。
しかし今回はカルマト派のアーヒラとイスマイール派のカダルが行う〈決闘〉が絡んでいる。次期部族長同士の闘いだ。公の戦いとして民の目の前でする必要があった。
板がある公共広場は集会場の近くで、大勢が集まれるよう建物はない。あるのは砂と井戸だけだ。中心でぽつんと公示されている。
〈三日後の太陽が中天の刻。アーヒラとカダルをイマームの名の元に決闘を行う〉
板に羊の皮で作られた掲示の書が張られている。
これで珠洲の――リネの運命が決まる。
カダルは何があってもアーヒラのような男に奪われたくはなかった。
あの砂漠の夜のようなつややかな黒髪。
深いルビーの目。しなやかで柔らかそうな肢体に指先。いつまでも聞いていたい声。強さに裏打ちされた優しさ。カダルは彼女を取られたくなかった。
「……」
約束したんだ。自由に行き来し、恋愛して自由に生きることが普通にできる国にするって。
でもそれにはまだまだ遠い。
ともすれば挫けて折れそうになる心をカダルは両脚に力を込め耐えた。奥歯を噛みしめ目に力を入れる。
「俺は負けない」
押し殺した声を出した時、左の頬に何かが走った。
――石?
それも尖った石だ。カダルの頬から細く血が染みだして来る。
振り向くと五人の男に囲まれている。いずれも屈強な男だ。一番大きな奴はカダルより三十センチは背が高いだろうし、太目の奴は五十キロ重いだろう。五人は砂避けのターバンの他に目だけを出した黒い布を顔につけている。
「……賊か」
しまった。
カダルは立て札に見入っていた。公共の場所だという気の緩みもあった。
周囲を見たが、誰もいない。不自然なほど静まり返っている。
気配のない所を見ると五人は訓練された私兵だろう。
顔を隠している所を見ると、無差別に民を襲うつもりではなく、個人を――カダル本人に向けられたものだ。
殺すなら最初の一撃でやられている。石を投げたのは彼らが後ろから襲う下卑た者ではないと示したつもりだろうか。
この場合、それが良いことか悪いことかわからないが……。
「……」
これは暗殺ではない。六人の男達が手にしているのは太さ五、六センチの棍棒で、骨を折ることくらいはできるだろうが殺すことは無理だ。
考えられるのは決闘の前に怪我を負わすこと。
屋敷を出た時からつけられていたのかも知れない。
カダルは唇を噛んだ。
無言で棍棒が振り下ろされる。
カダルは上半身をたわませ、よけた。
砂が足元で沸き立つ。
右から、一拍置いて熱波のように襲い掛かられ、左から吹き落とされた風が来る。
「きりがない……」
カダルは服に圧を感じながら身をよじる。しかし鍛えられたであろう男達の執拗な棍棒は次から次へと飛んで来た。避けることで精いっぱいだった。
今さら「誰だ」なんてことは聞けない。聞いている暇はない。
カダルに傷をつけようとする一派は予想がついた。ただこの五人は捕まえても「自主的にやった」としか言わないこともわかっている。それが妙に腹立たしかった。
「……くっ」
髪の毛が数本千切れ飛ぶ。
頭を狙われた。
次に脚だ。
咄嗟にカダルは手をつき、握った砂を手前の大男にぶちまける。
目を押さえている間に急所である喉元に蹴りを入れた。大男はくぐもった音で咳き込むと、真下に膝をつく。
後ろに回ったカダルは、右手首に手刀を入れ、棍棒を奪い取った。そしてその勢いで元持ち主だった男の腹を薙ぐ。
この間、二秒。
カダルはなんとか武器を奪えた。
しかし後、五人がカダルを囲んでいる。
「……」
奴らは大男の様子見をし、すぐに殴り込んでは来なくなった。一定の距離を取り、砂の目潰しを警戒している。
カダルも自分から飛び出しては行けなくなった。一人倒したが、しょせん多勢に無勢。長期戦には不利だ。
――どうする?
カダルが棒を構え十分も立つと汗が滝のように流れ出した。
陽は頂上にあり、熱波を送ってきている。少しずつだが、相手は肩で息をし始めた。もちろんカダルも緊張と直射日光で体力は猛スピードで消耗している。
「……っ」
数を減らすのが得策か。
カダルは一か八か、一番端の男の膝に打ち込んだ。
時間はかかるが、確実に倒さなければやられる。膝を砕かれた男は頭から倒れのたうち回る。
しかしカダルの腕と上半身が勢いで下がった。
その間に別の刺客の影が見えた。
「っ!」
カダルは次に襲われたらこちらが危ないと逃げを打とうとした。
だが左足が砂に滑る。
「……く」
駄目かっ。
そう思った時に、刺客とカダルの隙間に鋭い何かが飛んできた。
石だと意識すると同時に、カダルが膝に打ち込んだ男の上に、被さるように男が倒れる。倒れた男の額から血が流れ落ち、ターバンと黒い布が紅く染まってゆく。
「……」
助けられたのか?
振り向くとキリトが少し微笑み、まるで花でも摘むような姿で立っている。
そしてキリトは何げにカダルの後ろから襲い掛かって来た男のこめかみに肘で一撃を食らわせた。
咄嗟のことでカダルは何がなんだかわからなかった。
「あと二人」
冷静なキリトの声だけが、熱い広場に響く。
「お、おう」
落ち着け、俺。
カダルは棒を持ち、体制を立て直す。どうしてだかわからないが助っ人が来た。
「――そこだっ」
そしてまだ事態が飲めていないであろう一番太め男のみぞおちを突く。男は横隔膜の動きを止め、呼吸困難でその場にうずくまった。
キリトはというとキツネ目の男の顎を肘の先端を強打している。
そこは急所だ。誰でも脳震盪を起こす。
彼は最低限の動きで最大限の力を出していた。
「また助けられたな」
カダルはキリトに向かい合った時、彼が呼吸を乱していないことに驚いた。おまけに武器を手にしていない。珠洲の村らしく草木染めだろう服をゆったりと着ているが、埃ひとつなかった。
「酒場で寝て迷惑かけた。今度は襲われた所をありがとう」
カダルは少し背中に冷たいものを感じながらキリトに礼を言った。
「いいえ。ちょうどね。決闘の日時が正式に張り出されたと聞いたのでね。見に来たのですよ。お助けしたのはたまたまです」
「たまたまって?」
「多人数対お一人のようだったのでね。そうでなければ僕の相手はいなかったでしょう」
キリトは黒い髪を掻き上げ、何ごともなかったようにカダルの目を覗きこんできた。
「ずるいの、嫌いなんです」
「あ、ああ」
目の前に六人が倒れているが、キリトはそれよりももっと不気味な気がした。
が、カダルは首を振り、考えを改める。彼は助けてくれたのだ。キリトは意味ありげな物言いをするが、間違ってはいない。
「ここに来たのはあなたの屋敷に行く途中でしたし、会えたのは幸いでした」
「ん?」
「ちょっとね――ちょっと話さなければいけない事件が起こったようなのでね」
何が楽しいのか、キリトは薄い笑みを唇に浮かべていた。
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