ヤーウェ・媚薬
この作品は完全オリジナルで、特定の宗教、国は関係ありません。
ユグノーは教えられた通り、香を焚いた。
甘い香だ。少しメロウ・ローズの匂いに似ている。
シーアから言われた〈男性向け媚薬〉の香がどのような効果を出すかわからなかったが、とにかくカダルは倒れている。
でもこれで良いのだろうか。ユグノーは急に不安になった。
カダルの荒い呼吸は生きている印だが、どこか目が虚ろで、ユグノーを見つめていない。ユグノーは視界に入っていないのだ。
私を――見て。
香炉から出る煙がくゆる。
ユグノーはそっとカダルの肩に触れた。
しかし、カダルは「リネ」とつぶやいただけだった。
「リネ……? あの村の薬師」
ユグノーは名前を聞き、ビクッと身体を震わせた。
カダルと出会いはその珠洲の村だった。カダルは明るく真っ直ぐな人柄だった。情熱的な黒い瞳は、自分と無関係の村を真剣に心配していた。
『誰も不幸にしたくない。したくないんだ』
その時のカダルの言葉はユグノーの心を打った。
ユグノーはゴッドラムではいないタイプだった。自分の利害を抜きにして、相手のことを想う。その気持ちは清々しかった。
「――リネ?」
確か村でも彼女のことを心配していた。
カダルは村のリネに好意を抱いているのだろうか? 尊敬しているとは言っていたけれど、女の直感がそれだけではないと告げている。そうだったらカダルはユグノーの手には届かないかも知れない。
「嫌よ……」
ユグノーはカダルの手が欲しかった。
父もいない。母もいない。頼れる国は背を向けている。クエーカ達は必死で守ってくれようとしているけれど、それはユグノーがネストリウスの娘だからだ。たぶん王族でなければ見向きもしてくれないだろう。
私は――必要とされているの?
否。
ネストリウスの娘という地位が必要なだけだ。
反政府は建前だけのリーダーにしようとしている。アリウスは確かに嫌いだ。仇だし、死んでしまえと思っている。だが彼と対立し座を奪うことまでは考えていない。自分に国のかじ取りは無理だ。きっと誰かの操り人形にされるだろうから。
だから――ユグノーはもっと違う人生を歩みたいと思った。
運命に逆らいたいのだ。きっと。
ユグノーはゴッドラムを離れて冷静に自分を見つめることができた。
王族などではない、女性のみる夢がみたい。そう、ユグノーは自分だけを見てくれる相手が欲しいのだ。ただそれだけで良い。多くは望まない。それがカダルであれば幸せだと思った。
「カダル。私、愛しているの」
ユグノーは告白してみた。
しかしカダルは何も答えない。夢うつつの世界をさ迷っているようだ。視線が泳いでいる。ユグノーと違う誰かを探している。
違う誰かを。
「いやよ……」
ユグノーは自分の胸を押さえた。キュと心臓が捻じ曲がったような痛みを覚える。こんなに好きなのに届かない。
これからもカダルは私自身を見ないだろう。しょせん、他国の王族でしかない。
初めての感情はユグノーの中に喜びと哀しみを生み、混乱させた。
シーアの案に乗ったのもそのせいだった。
『――イスマイールは味方につけないと。そのためには、わかるわね』
そうシーアは妖艶に微笑んだ。とても赤く濡れた唇だと思った。その唇から紡ぎだされる言葉は魔法のようにユグノーから理性を奪った。
「……そうね。誰にも期待できない。自分の欲しいものは、自分で奪わないと。でしょう、ユグノー」
確かに与えられるだけの立場はもう嫌だ。
好きな人の心が欲しい。そのためにだったら何でもできる気がした。
ユグノーは〈熱の花〉を一気に飲んだ。思ったよりも濃く、度数は高いだろう。喉から胸にかけて焼け付くような熱さを覚えた。
「カダル……」
ユグノーは名前を呼んだ。
「愛しい人。私を――見て」
カダルのターバンを脱がしてみた。少しクセ毛の黒髪がさらりと前に落ちる。汗をかいているのか、首筋から一筋のきらめく粒が流れていた。
ユグノーはそれを指ですくった。
「カダル。ごめんね」
今からすることが男のプライドを粉々に砕くことをユグノーは知っていた。知ってなお選んだ。
誰にも渡したくない。このままだと三部族の一つ、イスマイールは珠洲の村につくだろう。村のためにドルーズと組むかも知れない。そうなるとカルマト――ゴッドラムの反政府とは敵対することになる。
それだけは避けたい。自分の敵になることは。
「……」
すべてを得るにはこの方法しかないのだ。そうおのれを納得させようとした。
ユグノーはカダルの頬のふちをそっと撫でる。
顎に向かっての線が男らしい。彼の肌はユグノーの指を吸いつけて離さない。
「愛しているの。あなたもそうよ、ね」
語尾が震えた。
その途端、カダルの手が大きく横に動く。
まるで拒否をしているようだった。
「駄目よ。だめ。カダル、あなたは――私に」
ユグノーは横に動いた手を取り、自分の胸にあてる。
高鳴る心臓の音が、カダルに届けば良いと思った。想いが手を通じて届けば良いと思った。
「……」
わかってはいるが、ユグノーはまだ少し躊躇している。
蝶よ花よと育てられた。が、愛し方も愛され方も学ばなかった。人々はユグノーに賛辞の言葉を惜しみなく捧げ、その手を欲しがった。なんと愛らしいか、美しいか、誇りに満ちているかを語り、詩を送って来た。その自分が無理矢理にことを起こそうとしている。
「これから……私が?」
認めたくないが、父であるネストリウスが亡くなってユグノーの世界は変わった。変わってしまった。
もうこれしかないのだ。この方法でしか。
カダルに意識がないのが哀しい。
「カダル……」
毛足の長い絨毯がユグノーとカダルを包み込むように敷かれている。
「許してね」
ユグノーは一度大きく息をつき、吐いた。迷いは捨てよう。カダルはぎりぎりで意識がある。きっと途中で気づき、愛してくれる。その為の香だ。
ユグノーは砂避けのマントを取った。カダルは薄いシャツを身につけていた。彼らしく真っ白だ。戦士らしく心臓近くには矢よけの皮が張られている。
ユグノーはゆっくりと装備を外した。
カダルは陽に焼けた肌をしている。傷は無数にあるが、これは戦いの勲章だろう。
ユグノーは肩から胸にかけての傷を、薬指でなぞった。
「――好きなの。本当に」
傷にそのまま顔を近づける。
そしてゆっくりと舌で舐めた。肌の匂いがうっとりとするほど濃密だ。香のせいか、くすぐったいのか、カダルは身体をくゆらせる。
「ねえ、傷は今も痛まない? 私、カダルの痛みを吸い上げてあげる」
傷にもう一度唇をつける。
度数の高い〈熱の花〉は、ユグノーにその名の通り熱を植えつけた。自分でも大胆になるのがわかる。
「キスするわ。良いでしょ」
ほどよく酔いが回ったユグノーは自分の唇にカダルのそれを重ねる。
乾いてざらついていた。でも堪らなく甘い。
あの強い意志の言葉を紡ぐ唇は、ユグノーを拒むすべを知らない。
ユグノーは何度もキスを繰り返した。
相変わらずカダルの瞳はユグノーを映さなかったが。
『あなたが、カダルのものになるのではなく、カダルをあなたのものにしなさい』
不意にシーアの言葉がよみがえった。
そう――今、カダルはユグノーの思いのままだ。夢の時間を過ごせる。もっと深く彼を知ることもできる。
なのに。
なのに嬉しくない。
意識なく横たわり、違う娘の名前を呼ぶ男を自分のものにしても意味はない。すべてを手に入れるって、カダルを私のものにするって……。
ユグノーは彼の唇をついばみながら言った。
「わかっているのに――こんなこと、嫌われるって……」
好きだから。
本当に好きだから、嫌な奴と蔑まれたくない。
国は違っても心通わすことができるのだと伝えたいから。初めての感情をわかって欲しいから。
「私――わたし……」
カダルが欲しい。
拒否されるのは嫌。でも彼を全部知りたい。
「あぁ……」
ユグノーはカダルから身体を離し、頭を抱えた。
今すぐにでも無防備なタガルは抱ける。でも抱いてはもらえない。カダルの心はここにない。
シーラは、目覚めてから行為をたてに脅すようにユグノーに言った。でもそれはプライドが許さない。
ユグノーは相反する気持ちに責め苛まれた。「愛すること」と「愛されること」が一致しない。それが辛い。
キリキリと刺すような痛むような想いを吐き出してしまいたかった。たとえ心臓と一緒にであっても、吐き出してしまいたいくらいだ。
そして想いがかなうなら、命さえ惜しまないだろう。ユグノーはカダルの動かぬ身体を見つめ、唇を噛んだ。
カダルの手を取り、語りかける。
「私を愛してくれるわね。こんなにも綺麗なんですもの。みんな私を欲しがるのよ。そしてこれ絹よ。服の下は透かしの薄物を羽織っているの――触れて」
ここまで自分に言わせるカダルが、うらめしい。
ゴッドラムでは皆誉めてくれた。ユグノーはその手にキスをと何度もねだられた。殿方の憧れの的だった。
「お願い……何とか言ってカダル」
ユグノーはカダルの指に自分の指を絡ませた。
シーアにもらった香がきつすぎるのか、身体に合わないのか、ぴくりとも動かない。
「私の、名前を呼んで……」
しかしその願いは叶えられなかった。
「素敵なキスでしたね、ユグノー。手馴れてらっしゃる」
不意に後ろから拍手が投げ掛けられた。名前を呼んだのはカダルではない。
ユグノーは驚き、扉の方を見る。
「ごちそうさまでした、かな」
「――え……?」
そこには、二度と見たくない従兄弟の顔があった。
「今後、次話投稿されない可能性が極めて高いです。予めご了承下さい」
という「お札」を貼られました。
まだ書く意思はあります。なんかごめんなさい。




