ヤーウェ・会話(Ⅰ)
この作品は完全オリジナルで、特定の宗教、国は関係ありません。
カダルは今日もリネの軟禁されている家へ向かおうとしていた。手には彼女が以前、美味しいと言っていた豆のハーブドレッシングを乗せた皿がある。キドニービーンズとハーブのディル、チャービルを混ぜたシンプルなものだ。カダルはリネの笑顔が見たかった。
柔らかい曲線を描く眉と紅い瞳。ふっと微笑む瞬間が好きだ。
心が温かくなる。
カダルは今までそんな感覚は知らなかった。そもそも心がどこにあるかわからない。なのに、ぬくもりを感じている。
リネはいきなりヤーウェに連れてこられ、不安と心配に押しつぶされそうになっているのに弱音を吐かない。時々泣きそうな顔をするのは知っているが、カダルに無理して作り笑いを見せている。それもいじらしいと思う。
「リネ、腹へってないか?」
カダルは扉を勢い良く開けた。
リネはクローゼットを見ている所だった。珠洲の村ではない服を抱きしめていた。
「な、何、カダル」
リネは慌ててクローゼットを閉めた。
「別に。食い物持って来たぜ」
カダルは陽気に皿を見せた。リネの顔は花がほころぶように優しい雰囲気を醸し出す。
「オレが作ったんだ」
「あら、意外ですね」
「味見で半分以上食っちまったけどな。味は保障する」
「ふふふ」
最初連れて来られた時よりも、リネは落ち着いたようだった。タエ達をドルーズが連れて来たせいだろう。
「最初、剣で野菜を切ろうとしたら『包丁がありますよ』って注意されちまった。じゃあ肉ならいいかと聞いたら『処理場に行ってください』だって。細かいよな~」
カダルは机の上に皿を置きながらグチをこぼした。
「……そう考えてる人に初めて会いました」
「え、俺が変なの?」
カダルは真顔でリネを見た。リネはくすくすと笑っている。
ま、いいか。
つられてカダルも笑う。
カダルはリネが幸せなら何でも良い。命を助けてくれたのだから、それに少しでも報えればと思う。
「あ――それから俺を滝に連れて行ってくれたんだって?」
カダルは話題を変えた。
「え?」
「ごめん。お礼が遅れたよな。あやふやにしか覚えてなくて……大変だったんだろ」
「どう教えてもらったんですか?」
リネの顔色がいきなり変わった。庭に生っているハシュピスの花のように頬が染まる。耳たぶも真っ赤だ。元もと色が白いからこうなるのだろう。でも――
「あ、俺、変なことまた言った?」
「……」
「じゃあ、記憶のない時に恥ずかしいことしゃべったんだ。うわ~最悪」
カダルは自分の頭を抑えた。
リネが赤くなるくらいだから「リネちゃん助けて」とか「死にたくない」とか弱気を口にしたのだろうか。それとも肉食いたいとか? 厚切りにした肉の表面をあぶり、ペッパーとソルトをぶっ掛け、かぶりつくとか具体的に説明したのなら致命的だ。
いや、まさか「好きだ」とか本能的に言ってしまったとしたら。
「あー、俺……う~」
カダルはしどろもどろになりながら、頭を掻いた。
どうしよう、リネの顔がまともに見られない。ただお礼を言うつもりだったのに。
「うう……」
「いえ、あの、こちらこそ。無理矢理に」
カダルが言葉に詰まっていると、リネがぽつりと小声で恥ずかしそうに言った。
「は? 無理矢理?」
「聞かれたんでしょう、全部」
「まあ。タエさんに少し」
毒を飲んで死にかけた。リネはカダルを滝に連れてゆき、その場で万能薬を創り、飲ませた、と。
「無理矢理に飲ませてこちらこそ、ごめんなさい」
「いや、その。感謝してる」
無理矢理とは万能薬のことだろうとカダルは思った。死にかけていたのだから無理でも何でも飲ませてくれたことはありがたい。
「タエさんから聞いて……嬉しかった」
「う、嬉しい?」
リネは驚いたように目を見開いた。
カダルはイスマイール次期部族長として厳しく育てられた。特に命を守る武術はみっちりと仕込まれている。
だから今までに死にかけたというのは一度もない。火竜と戦った時だって腕を少し負傷しただけだった。
「ああ。その、俺、初めてだったから。初めてがリネで嬉しい。ありがとう」
「は、はじ、初めてっ?」
リネはますます赤くなった。落ち着かないようにそわそわしている。
見ていて楽しいが、どうしてそうなるのかカダルにはわからない。
「え、えーと……感動的初体験で……」
次の言葉を迷っていると、扉がノックされた。
「キリトです。入ります」
声が聞こえた。
キリトとはタエ達と一緒に来た男性だ。ヤーウェ人と違って細身の、やや中世的な青年だった。
「ど、どうぞ……」
そのキリトが入って来ると、室内の空気は一変した。
何よりもリネが緊張したように表情を強張らせる。
「――失礼、来客中でしたか」
キリトはカダルを見ると、にこやかに微笑んだ。
「あ、豆のスープ持って来ただけだから」
「お食事中ですか? 時間的に避けたつもりですが」
確かに時計の針は三時を少し廻っている。
「いや、なんていうか、おやつ……」
カダルが言うと、キリトは少し驚いたようだった。確かにおやつに豆のスープは変かも知れない。いや、そもそも珠洲におやつの習慣はあるのだろうか? リネの顔を見るためじゃないかと疑われる?
カダルは慌てた。
「下心は決してないから」
「はあ?」
キリトは心底驚いた顔をした。
「あなたはよくわからない人ですね、カダル」
「そ、そうか?」
カダルはドキドキが止まらない。
「わかりすぎる人は、えてしてわからないものですから」
「?」
このキリトという男は何が言いたいのだろう。カダルはちょっと気になった。
「リネ、タエさんからの伝言です『長老が食事をとるようになった』らしいですよ」
キリトはリネに話しかけた。
「そうなの、ですか」
リネはホッとしたのが半分、まだ安心できないという気持ちが半分、といった顔をした。表情はまだ強張っている。
「タエさんは長老の世話や部族のみなさんとの話し合いをしなければいけないそうで。当分、僕がリネのところへうかがいますね」
「……」
リネはキリトに心を許していないのか? だが仲が悪いとまでは感じられない。
カダルはリネとキリトを交互に見た。
「あの、村に関しての話だったら、俺は外に出てようか?」
カダルは自分がいるから遠慮しているのかも知れないと思った。
「いいえ。いて下さる方が良いです。お尋ねしたいことがありますから」
「俺に?」
キリトはカダルに向き直り、改めて微笑んだ。
「カダルさん、あなたはリネを賭けてカルマトのアーヒラと戦うらしいですね」
「うっ」
直球だ。
「ドルーズさん達に聞きました。勝った方が彼女を嫁にするとか。つまり村に対してイスマイールが主導権を握る、ということですね」
「つ、つまりそういうことになる……かな」
リネの視線を強く感じた。
カダルはあえてその件を話すことを避けてきた。リネを物のように扱うのは嫌だし、村を吸収合併する意思があると表明するようで言いづらい。
今のカダルは「リネや村に悪いようにしない」と言うのが精一杯だった。
「では――」
キリトが目を細める。
「あなたは我々の味方、と考えてもよろしいので?」
「あ、ああ」
「あなたの考えは、イスマイールの意思ですか?」
「それは……」
キリトという男は言いにくいことを――言いにくいことだけを尋ねて来る。
「イスマイールは現在のイマームを尊重する。決闘は正式に決められたことだから、避けられないが」
「勝ってリネさんを妻にする気ですか」
「……」
カダルはうつむいた。
この場合、否定すれば良いのか肯定してもよいのかわからない。
カダルは次期部族長ではあるものの、発言権はあまりない。当然、決定権もない。部族会議は絶対的だった。リネを定めに従って妻にする、ということに抵抗はあるが、アーヒラに渡したくないのは事実だ。
「神聖な民を自分の物にするなんて、感心しませんねえ」
カダルが黙っていると、キリトがたたみ掛けるように言った。
「村は中立。ヤーウェでもゴッドラムでも珠洲の村は禁忌の存在です。こういう話を聞いたことがありませんか?」
「――え?」
「元々、ヤーウェもゴッドラムも一つの国だった。しかし争いが耐えなかった。神は怒り、二つに分断すべく中央に高い山を造った。それでも人間が信じられない神は、ヤーウェとゴッドラム双方から人質を取り、珠洲の村とした」
「……知らないが」
カダルは初耳だった。しかし両国の言葉は一緒だということは事実だ。遠い昔は一つの国だとは教えられたこともある。だが、それが神の介入であるとは。
「本当なのか?」
カダルは反射的にリネの方を見た。
リネは肯定も否定もしない。
「ゴッドラムでは、『珠洲の中立を崩すのは神の怒りを買う』と言われているそうですよ。なんと言っても〈人質〉ですからね」
「……」
「今ごろ、どんな罰を神は考えているのでしょうか」
キリトは喉の奥で低く笑った。
リネは何も言わない。
「……単なる言い伝え、だろ」
「そう取るのはヤーウェの傲慢ですよ」
切り口鋭いキリトの言葉はカダルを不安にさせた。キリトの口調には説得力があったし、山の神秘はカダルも知っている。
確かにヤーウェでは山の民はすべて〈神の子〉と呼ばれていた。ゴッドラムで〈死に近い村〉というのも聞いたことがある。
ただヤーウェでは自然=神ではなかった。砂漠は過酷な現実にすぎない。神々は干渉しない。
「珠洲を欲しがった時点で、ヤーウェの崩壊が始まったのかも知れませんねえ」
「……」
「実はね、僕はその崩壊をこの目で見たくて来たんですよ」
黙るカダルにキリトは挑むような眼差しを向けてきた。
敵意、ではないが、どこか危険な匂いがする。
「キリト、それは本当なの?」
リネが不安そうに彼に尋ねた。が、キリトは唇の端を上げているだけだ。
彼はヤーウェの崩壊を楽しんでいるのか?
カダルはこの整った顔立ちの青年に底知れぬ闇を感じた。
読んでいただきありがとうございました。




