ゴッドラム・屋敷にて
この作品は完全オリジナルで、特定の宗教、国は関係ありません。
アリウスはベッドに横たわりながら天井を見つめていた。足の痛みは我慢できる。しかし出血が多かったのか起き上がると目眩がした。急所から大きく外れているのに恥ずかしいことだ。
恥ずかしいといえば、捕虜にし、珠洲の村との取引材料にしようとしたリネに介抱されている。
「……彼女はいったい何を考えているんでしょうか」
アリウスは額に手を当てた。
並外れたお節介か? 仮にもアリウスは首筋に小刀を当てた相手だ。殺そうとした者に血止めの処置をし、走り回っているなんて。
「くっくっ」
アリウスは自虐的に笑った。
閉じ込めようとした屋敷のベッドに反対に寝かされている自分。動けないなんて、動けないなんて予想外すぎる。もう笑うしかないのだ。
「あ、大丈夫ですか」
その時、扉が開いた。
運の悪いことに笑い声をリネに聞かれたようだった。リネはほっとしたように微笑み、アリウスに近づいて来た。
「え――その服は……」
アリウスは一瞬、声が喉に詰まって出てこなかった。
「あ、あのすみません。その、上手く説明できないんですけど……ええと、わたしも血だらけになっていたので着替えさせていただきまして」
リネは答えにくそうにうつむいた。彼女は淡い桜色のロングスカート、リリーホワイトの上着を身につけていた。襟元と袖口は淡い黄色のレースで縁取られている。服は少し大きめだが、その分、ふんわりと身体を包んで見えた。
「……」
「薬箱も見つけました。ちょっと古いですけど化膿止めと包帯。痛み止めもあります」
「あの部屋に入ったのですか?」
アリウスはその服には見覚えがあった。
「ちょっと待って下さい、今、水を用意しますから」
リネはアリウスの質問には答えずに背を向ける。背を向けるといつの間にか手にしていたグラスを頭上に掲げた。
そのグラスも記憶していた。母がオレンジジュースをアリウスにくれる時に使っていたものだ。かすみ草の花が透かし彫りされている。
「何をするんです?」
リネは口の中で小さく呪文を唱えているようだった。グラスを胸の位置まで下ろし、額の高さに上げる。それを数回繰り返していた。
「なんとか出来ました」
「え?」
振り向くリネの手のグラスには水が湛えられていた。
「――魔法が使えるのですか」
「違います」
リネは即座に否定した。
「なんというか、山の滝は心が通じている者に水を分けて下さるんです。しいて言えばこれは山の優しさでしょうか。今、受け取れるのはわたしだけですが、以前にも何人か薬師がこの技を使えました」
場所を越えて滝は水を分けるというのか。
まさしく神の山だ。それが出来る薬師は巫女のようなものだろうか。
アリウスはふと疑問に思った。
「ちょっと待って下さいリネさん、では今、特別な薬師はリネさんなんですか?」
「リネで結構です、アリウスさん。まあ、結論からいうとそうですけれど、珠洲の村の薬師はみんな特別で立派ですよ」
「……はは」
やっぱり。
アリウスは額に手を当てた。
万能薬が作れるというのは十中八九リネだろう。山の滝と通じている薬師が一人しかいないのならばなおさらだ。
なんて運が良いのだろう。
探していた者は自分から身分を明かし、ここに居る。殺せばすべて丸く収まる。デンジャーの毒は無敵だ。殺せば。
なのに。
なのに何なんだ、この気持ちは。
アリウスは自分自身がわからなかった。喜んでいるのか、悲しんでいるのか。悲しんでいるのならそれはなぜだ? 誰か教えて欲しい。目の前で母の――母の服を着て優しく微笑んでいる人をどうすればいいのか。
「水をどうぞ。滝の水は〈奇跡の水〉と呼ばれています。きっと身体の内部から傷を治して下さいますよ」
「――どうも」
リネはグラスを差し出す。
アリウスは反射的に受け取った。
オレンジシュースは父が屋敷に訪れた時だけ与えられた飲み物だった。父は母と母の婚約者を力ずくで遠ざけ隔離し、自分だけが母の味方だといわんばかりに行動していた。家柄を理由に城にも入れてもらえなかった母を庇うこともできない父は、ある意味、身分制度の被害者だったのかも知れない。
しかしジュースは嫉妬と押し付けの苦い味がした。母はグラスに彫られているかすみ草がオレンジに染まるのを綺麗だと言った。だからアリウスは喜んだフリをして飲んだ。
苦い苦いオレンジの味。
優しく染まるかすみ草。
このグラスはそれらを覚えているだろう。
グラスから溢れそうになっている水は冷たく暗い部屋で光を纏っているように揺れていた。覗き込むアリウスの紅い目が映っている。
「僕などに飲む資格があるんでしょうかね」
「もちろんです、怪我人ですから」
「怪我人だから滝の水をあっさりと差し出すんですか?」
「はい」
「何でも許せるんですか。あなた達、珠洲の村は?」
「……そんなことはありませんけど」
「だって僕はあなたを盾にして殺そうとしたのですよ」
「それが何か?」
アリウスは不思議そうに首を傾げているリネにイラついた。いつも冷静を保てるのに今は心がざわついている。
「珠洲の村の子供はまず人との距離の取り方を学びます」
「……?」
どうしたのか、リネはいきなり村のことを語り始めた。
「珠洲の村で子供は生まれません。珠洲にいる子供はすべてゴッドラムやヤーウェから捨てられた子供です。ゆえに村は血縁でつながれていないのです」
「え、それってつまり、珠洲の村は純粋に捨てられた者で構成されていると?」
アリウスはいきなりで戸惑った。
珠洲の村はタブーでアリウスのような立場の人間はほとんど耳にしないことだからだ。
「はい。駆け落ちをしてくる組は年間四~五組。捨て子は十人前後。我々村が来る者を拒まないのは、受け入れないと村が滅んでしまうから。もっとも、受け入れた人数分、次の年に亡くなります」
「で、村の人数は常に一定に保たれていると?」
「はい」
アリウスは平然と答えるリネに驚いた。
山の民は神の民、神の民は死に近い民。ヤーウェやゴッドラムでの噂は残酷にも本当のことになる。それを自ら認めるのか。
「なぜ?」
「たぶん……想像ですが、山は人間の繁殖を許していないのだと思います。いるのは仕方がないが、これ以上増えるな、と。捨て子が多かった次の年、大規模な山崩れで同じ数が亡くなりました。それに山に駆け落ちや亡命で来ても、天寿を全うしたと言える人はいません。長く持って十年。子供の時から山で育っていないと、山は認めないのです」
「認めない……なんて」
「死は年齢順にはやってきません。人間という種も自然の一部ですから、定めに従わなければなりません」
「……」
山で生きていく、というのは山が人数を制限して置いてやっているという意味か。罪深い人間を繁殖させないという山にアリウスはなぜか納得した。
「話は最初に戻りますが、珠洲の子供はまず自分が相手にどれだけ近寄ったら良いのか距離を考えます。生きるために本能で考えます。甘えて良い人、逆らってはいけない人。子供が好きな人もいるし、苦手な人もいる。これは善悪ではありません。個性です。それらの見極めを命がけでやるのです。……だから殺されようとしたって何だって自分が信用できると信じたらそれに従います」
リネはまっすぐに目を見て話しかけて来た。
「つまり、僕はリネの信用に値する、と?」
「はい」
簡単に〈信用〉というが、そんなもの紙くずに等しい。人は都合の良い相手を〈信用〉し、悪くなると切り捨てる。そんなもの嫌というほど見てきた。
ユグノーだってそうだった。初めて会った時に「従兄弟ね、よろしく」と微笑んだくせに、母の身分を知ると無視を決め込むようになった。あの冷たく見下ろすような視線は忘れない。
「僕は――」
アリウスは語り始めた。
「デンジャーという猛毒を手に入れ、政敵を一掃しようとしています。解毒剤のない毒はとても魅力的で、百パーセント成功してくれる。僕はそのデンジャーの解毒薬を恐れた。それが敵の手に渡ると成功率は低くなる。そのことを恐れたんです。だから珠洲の村の薬師が万能薬を作れると知るや、その人物を殺そうとした。リネ、あなたを誘拐したのは村からその情報を得るためでした。ただその髪の色は城に置いておくには目立つ。ここに監禁しようと思いました。それにユグーノーを逃がしたことにより残派が襲って来るという噂もあったので僕もしばらく身を隠くすつもりでした。湖畔でネストリウス叔父上側に襲われたのは計算外でしたが、屋敷周辺に配備するための護衛兵を呼んでいたので慌てませんでした」
「……そうでしたか」
リネはまるですべて知っていたかのように顔色も変えず、うなずいている。
「あなた奪還にネストリウス側のクエーカーが動いているということは、珠洲の村にユグノーが亡命したということでしょう。たぶん僕が欲している毒のことは知らない。だけど怪我が治ったら僕は彼女奪還のために珠洲を襲いますよ。ユグノーを手に入れればクエーカーは手出しできませんから。それを知ってなお信じると言えますか、あなたは――リネは僕を」
アリウスの肩は小刻みに揺れている。ここまで口にするつもりはなかった。なのに止まらない。誰か止めて欲しかった。
「小刀はまだ僕の右ポケットにあります。使うなら今です。小さいですけれど、左胸を狙えば女性でもとどめを刺せるでしょう。そうすれば村は安全だ。あなたも。そうですよね、万能薬を作れるリネ」
すべてを吐き出すようにアリウスは喋り続けた。後悔はない。懺悔もない。自分のやったことを否定する気も、やめる気もない。
おかしくなりそうだ。
こんなことを殺す本人に聞かせている。
「――アリウスさん、アリウスさんの周囲は敵ばかりだったんですね」
リネは驚くほど静かな声だった。
「水を、どうぞ」
「え?」
アリウスはしばらく動けなかった。
しかしリネの言葉に従うように手はグラスを口元に運び、喉はそれを流した。
わからない。
どこからどこまでが自分の意思なのかアリウスはわからなかった。命令されたように動き、水を飲んでしまった。
「……染み入るようだ」
アリウスはぽつりとつぶやいた。
胸が熱い。
滝の〈奇跡の水〉はアリウスの身体の隅々まで広がった。そして潤し、癒していく。これは慈しみという感情だ。
アリウスは長い間忘れていた気がした。
祈りを宿した水、それが〈奇跡〉と呼ばれるゆえんだろう。これは滝と心を通わせる薬師の作った薬だ。感情を備えた薬だ。
いくらデンジャーの毒が強力でも敵いはしない。きっと無毒化してしまうだろう、こんなにも安らぎと慈しみで満たされているのだから。こんなにも。
「――僕は血で汚れている」
気がつくとアリウスは自分の手を見ていた。
伯父達を殺した。逆らう者も都合の悪い者も手に掛けた。
言い訳はしない。そうしなければ立場が守れなかった。日陰の母から生まれた子供はそうしなければ強くなれなかったから。
「汚れて、いる……」
「洗えばいいのです。わたしもまた、珠洲の村人の犠牲と交換に拾われた子ですから」
「……そう」
リネを捨てた親もリネも血で汚れている。自分も国も歴史もすべて。
生きることは汚れること。
洗えばいいのか?
洗ってもまた血を流すのに?
「グラスの花が――綺麗だ……」
アリウスは自分の紅い瞳が涙を宿していることに気がつかなかった。
読んで下さりありがとうございました。
今回は「恋に落ちる瞬間」を意識して書いてみました。
ったく、色気ねーなと思われた方、すみません。筆力不足です。




