血が赤い理由
ッツ。
指先に痛みが走る。一瞬。
何が起こったのか、その指先に目を走らすと、線の切り口から赤黒い液体がツツツと流れ始めている。自らの身に起きた災難を明確に理解した。
痛。
さっきよりも声を張り上げ、痛みを周囲にアピール。
クラス中の視線が僕に集まる。僕はここを見てくれと言わんばかりに手を前に突き出す。
たくさんの視線が僕の顔から肩、腕を伝って指先に向けられる。ポタリと一滴、赤い雫が机の上に落ちた。
わぁっと声が上がり、僕は一躍、時の人となる。
彫刻刀は時に凶器となり、人を襲う。毎日、木ばかり削らされていたら嫌気もさすだろう。僕は彫刻刀の気持ちが痛いほど理解できる。痛いほど。
注意力が不足したヤツの一人や二人、クラスには必ずいる。ただ今回は、注意力不足クラス一位の竹田君を差し置いて、二位の僕が彫刻刀の犠牲になったという、それだけのこと。彫刻刀を授業で使うと決まった時点で、このての事故は想定の範囲内。僕がクラス代表になったという、それだけのこと。
やがて周りで大丈夫かいと声が次々に上がった。僕は指の股をおさえて止血を試みる。
左隣の席の宮本さんがハンカチを渡してくれたけれど、僕はハンカチに描かれたキティちゃんを血みどろにしたくなかった。この年でキティちゃんに嫌われると、後々の人生に多大な影響を及ぼしそうな気がする。直感的にそう判断した。
ハンカチに遅れること五秒、右斜め後ろの座席の森さんから差し出されたティッシュペーパーをいただき、傷口をおさえると、赤色が鈍くにじむ。同時に切り傷の痛みを弱く感じる。
右隣の塩塚君が赤に染まる白を見て痛そうな顔をする。大丈夫。痛いのは僕だ。それに痛みはさほどひどくない。塩塚君に移入された痛みの感情は、僕の感情をはるかに越えている。いや、僕が感じるべき痛みの感情を塩塚君が何割か引き受けてくれたのかもしれない。
先生の提案で保健室へ行くことに。
宮本さんが付き添うと言う。宮本さんは保健委員。保健室まで急げば徒歩一分。頭痛でフラフラするわけじゃない。足を怪我して歩けないわけじゃない。出血多量で倒れるはずがない。
一人で行けます。
宮本さんお願いね。
僕の意見は無視かよ。思ってみたところで先生の意見にはかなわない。
それじゃあ行こうか。
仕方ないので僕は立ち上がって宮本さんを促す。なぜか僕から誘う形になってしまった。どっちが怪我人だよ。変な感じ。
教室を出ていこうとする。廊下側先頭の座席、後田君がニヤニヤ笑っている。君も保健委員だろ。言おうかと思ったけどやめた。たぶん次の休み時間、後田君は僕と宮本さんの仲をひやかすはずだ。まぁいいや。
教室を出て、歩き始めるとすぐに宮本さんが大丈夫?と聞いてきた。教室で何度もみんなから尋ねられた。もうダメかも、なんて答えたらどんな反応するんだろ。
痛くはない。
そう答えた。正直に今の気持ちを。
三組と四組は体育らしい。教室に人の気配はない。廊下は、はるかかなたの向こうの突き当たりまで、シンと静まり返っている。
ねえ、どうして血は赤色なのか知ってる?
宮本さんがよく聞き取れる小声で聞いてきた。なぞなぞ遊びをしたいのか、大喜利をしたいのか、宮本さんの表情では判断がつかなかったが、どちらにせよ、答えは考えつかなかった。深く考えたわけじゃないけど。
わかんない。
そっけないけどそう答えるしかなかった。
血は…。
トン、トン。二歩分、足音を強く鳴らす。
目立つように赤いの、目立つために。
確かに黄色だと肌に同化して目立たない。緑だと周囲に同化して目立たない。赤色は目立つ。衝撃の色だ。簡単な答えだな。ただの間を埋めるだけの話題なのかな?宮本さんの真意は掴めない。
血は…。
トン、トン。宮本さんは続ける。
それ自体が意志を持ってるの。流している本人にだけじゃなく、他の人にもその人の痛みを伝える。きっと優しいのね。
血が優しい?
そう。とても。
にっこり微笑んだ。怪我人を保健室に搬送している人が投げかけているとは思えないくらい、とても素敵な笑顔だった。僕はティッシュペーパーにくるまれた指先を見つめた。
痛くない?
痛くはない。
血が優しい?よくわからなかった。でも、まぁいいや。そもそも僕は、宮本さんという人自身もよくわからないし。
保健室到着。
宮本さんが中まで先導してくれる。保健の先生は慣れた手つきで処置をしてくれた。僕は年に数人訪れる彫刻刀で怪我する、そそっかしい男子のレッテルを貼られたのかもしれない。
五分で処置完了。宮本さんは処置が終わるまで待っていてくれた。迷惑なようで、嬉しいような。嬉しいような?そう、嬉しいような。
帰りは無言だった。
たまに宮本さんの足音が軽く廊下に響く。二歩分セットで。
トン、トン。
廊下の窓から斜めに射し込む陽の光が、埃をキラキラ舞わせていた。光を受けた床は反射して眩しい。
あっ。
上りの階段で宮本さんが軽くつまづいた。
おっとと。
僕は支えた。支えた手の傷口が包帯越しに宮本さんの肩に触れた。痛みを感じすぐに手を引く。痛みを感じ?そう、痛みを感じ。
ごめんなさい。ありがとう。大丈夫?
全然。
包帯を巻いた指が属する手を、開いて閉じて開いて閉じた。宮本さんは笑った。僕は痛みを感じた傷口から血の流れを感じた。つま先から頭の先まで流れる血の流れを。
優しさか…。
ポツリとつぶやいた。思わず。
えっ?
何でもない。
身体中を優しさが流れている。そう思うと心に安堵感が広がった。
血の痛みを知っている。
血が赤い理由を知っている。
だから。
だから僕は人を殺さない。
最近、ニュースを観ていると、痛ましい事件ばかり目にします。人が人を故意に傷つけない、殺さない。難しいことではないと思うんですけど、ね。血が赤い本当の理由はわかりませんけど。