付き合って二年の彼女に「ただの友達」と紹介されたので、別れました。今さら彼氏に戻ってほしいと言われても
「彼氏?」
俺が最後の値札を置こうとしたところで、その声がした。
隣の売場から来た大崎さんが、瑠美と俺を交互に見ている。革の財布や小物を作っている人で、何度か挨拶したことがあった。
「違うよ。ただの友達。写真とか、搬入を手伝ってもらってるの」
俺の手には、まだ一枚、値札が残っていた。
戸倉瑠美と付き合って二年になる。
昨日も彼女の部屋で夕飯を食べ、今朝は車で迎えに行った。会場までの道で、イベントが終わったら何を食べようかと話した。
その相手が、友達だそうだ。
「そうなんだ。いつも一緒だから、てっきり」
大崎さんは深く追及せず、自分の売場へ戻った。
瑠美はイヤリングの角度を直している。
「瑠美」
「ん?」
そこへ客が来た。
彼女は笑顔で応対を始めた。俺は持っていた値札を置き、机の下の空き箱をまとめた。
聞こえなかったふりはできなかった。でも、今ここで問い詰めたら、客まで困らせる。
準備を終えて売場の脇へ退いた。手伝いを始めた頃は、瑠美がそこから何度も俺を振り返っていた。
今日は一度も、目が合わなかった。
◇
俺は安西文哉。二十六歳で、部品メーカーの事務職に就いている。
眼鏡をかけていて、服はだいたい同じ店で買う。大勢で盛り上がる場所では、話し始める頃には話題が変わっていることが多い。
ただ、カメラを持って一人で歩くのは好きだった。
休日に商店街や川沿いへ行き、気になったものを撮る。看板の剥げた文字とか、閉店した店のシャッターに映る木の影とか。人に見せるつもりもなく、家で写真を選んでいた。
瑠美とは、友人が誘ってくれた街歩きの集まりで知り合った。
俺が古い時計店の前で立ち止まると、彼女も戻ってきた。
「何撮ってるの?」
「看板。文字の形が面白くて」
「見せて」
画面を見せると、瑠美は顔を近づけた。
「ほんとだ。お店、もう閉まってるのに、写真だと営業してそう」
そんなふうに言われたのは初めてで、何と返せばいいか分からなかった。
帰り際、彼女から連絡先を聞かれた。
次は二人で出かけた。
カメラを持ってきてよ、と瑠美が言った。彼女は俺が立ち止まると、一緒に足を止めた。
自分でもスマホで撮って、同じ場所なのに違うね、と二つの画面を並べて笑った。
「文哉、話すと面白いのに。最初、ずっと黙ってたから怒ってるのかと思った」
「怒ってない。何話していいか分からなかった」
「今みたいなのでいいよ」
交際を申し込んだのは俺だった。
瑠美は、やっと言った、と笑ってくれた。
彼女は休日にアクセサリーを作っていた。小さな石や金具を組み合わせたイヤリングやネックレス。通販で売り、時々、販売イベントにも出る。
初めて商品を撮ってほしいと頼まれたとき、俺も面白そうだと思った。
家にあるライトを使い、背景の紙を替えながら撮る。実物の色と画面を見比べていると、瑠美が横から覗いた。
「こんなにきれいに写るんだ」
「きれいにはしたいけど、実物と違ったら困るから」
「じゃあ、これ。この色、一番近い」
俺が選んだ写真と同じだった。
瑠美は嬉しそうに頷き、それを通販の商品ページに使った。
最初に搬入を手伝った日の帰りは、彼女が夕飯をごちそうしてくれた。
「今日は私が払う。朝からありがとう」
「売れた分、材料買うんじゃないの」
「それとこれは別。文哉とご飯食べたいし」
あの頃、デートの予定は二人で決めていた。
彼女から映画に誘われたことも、俺が撮りたい場所へ付き合ってもらったこともある。仕事で疲れた日は、互いの愚痴を聞きながら夕飯を食べた。
付き合えてよかったと、本当に思っていた。
変わり始めたのは、瑠美が毎月のようにイベントへ出るようになってからだった。
作るのは彼女。値段を決めるのも、注文の返事をするのも彼女だった。俺は写真を撮り、商品ごとに画像を分け、イベントの日は車を出した。
最初は、無理なら言ってね、と聞かれていた。それが、次の日曜空いてるよね、に変わった。
散歩に行く予定が、写真を撮る一日になった。
一度、イベント仲間との食事に誘われたことがある。
瑠美は楽しそうだった。俺も話そうとはしたが、知らない店や人の話題に、うまく入れなかった。
大崎さんがカメラについて聞いてくれて、少し答えた。それでも、ほかの人たちが冗談を言い合う輪の中では、ほとんど黙っていた。
帰りに瑠美が言った。
「もう少し話してくれたらよかったのに」
「ごめん。次は、もう少し」
「二人だと話すじゃん。ああいうときも、普通にしてよ」
誰かが俺を馬鹿にしたわけではなかった。
でも、それからは搬入だけ頼まれ、仲間との食事には誘われなくなった。
先月、久しぶりに行くはずだった映画が、発送用の箱を組み立てる日に変わった。
帰る前に、俺は伝えた。
「手伝うのはいいけど、二人で出かける日も欲しい」
「ごめん。今忙しくて。次のイベントが終わったら行こう」
その次のイベントが、今日だった。
◇
昼過ぎ、客が途切れたときに、瑠美へ声をかけた。
「さっき、どうして友達って言ったの?」
彼女は俺を見ずに、売れた分のイヤリングを補充した。
「こういう場で恋愛の話したくなかっただけ」
「大崎さん、いつも一緒だから聞いたんだと思うけど」
「いちいち説明することじゃないでしょ」
俺は机の端に手を置いた。
「でも、違うって言ったよね」
瑠美がようやくこちらを向いた。
「今、それ話す?」
会場の向こうから客が来る。俺は、後で、と言って離れた。
閉場までは、売場の外でほかの出展を見た。何度か来た会場なのに、初めて気づいた店がいくつもあった。
北原佳穂さんの売場の前で足を止めた。街の風景を描いたポストカードや便箋を並べている。同じイベントで何度か話した人だった。
「こんにちは。今日も来てたんですね」
「こんにちは」
挨拶して、カードを一枚手に取った。
商店街の角にある古い映画館。入口の上に、不揃いな文字の看板が描かれている。
「これ、知ってます」
「行ったことあります?」
「前を通っただけです。看板、いいですよね」
「そうなんです。あの文字、どうしてあんな配置にしたのか考えちゃって」
少し笑った。
彼女は客が来ると接客に戻り、俺もカードを買って売場を離れた。
買ったものを瑠美に見せようとして、鞄にしまった。
閉場後、予定どおり搬出を手伝った。
机を片づけ、箱を車へ運ぶ。瑠美の部屋まで送って、荷物を玄関へ入れた。
「ご飯、どうする?」
彼女が聞いた。
今朝なら、それを楽しみにしていた。
「その前に、話したい」
部屋には入らず、玄関で立ったまま言った。
「次に聞かれたら、付き合ってるって言える?」
「だから、わざわざそんな話しなくていいじゃん」
「わざわざじゃなくて、聞かれたとき」
瑠美は箱の持ち手を折りたたんだ。
「文哉も、みんなの前でもう少し普通に話してくれたら」
喉が詰まった。
「それなら、彼氏だって言えるってこと?」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味?」
彼女は答えなかった。
俺は、昔の瑠美の声を思い出した。今みたいなのでいいよ、と言ってくれた声。
「人が多いと、うまく話せない。それは分かってる。でも、それで付き合ってないことにされるのは嫌だ」
「付き合ってないとは言ってないでしょ」
「彼氏って聞かれて、違うって言った」
瑠美が黙る。
「俺、別れたい」
口に出すと、足元が頼りなくなった。
彼女は顔を上げた。
「そこまでのこと?」
「俺には、そこまでのことだった」
初めて付き合った相手だった。
ほかの人となら、もっとうまくできるかもしれない。瑠美からそう思われているのではないかと、最近は何度も考えていた。
それでも、俺にも嫌なことはあった。
「今日の搬出は終わった。撮った写真は全部、いつものフォルダに入ってる。預かってる撮影用の分は、来週返す」
「ちょっと待って。次のイベント、申し込んであるんだけど」
俺を引き留める言葉が、それだった。
次回の手伝いについては、まだ何も約束していなかった。瑠美は今回と同じように俺が来ると思っていたらしい。
「次は手伝えない」
「今言われても困るよ」
「まだ一か月ある。ほかの方法を考えてほしい」
瑠美は、ごめん、と言った。
俺は頷いた。でも、部屋には入らなかった。
翌週、預かっていたアクセサリーと、彼女が俺の部屋に置いていた物を返した。俺の本も受け取った。
彼女は、少し考えようと言った。
俺は、考えて決めた、と答えた。
◇
五月に別れ、六月の休日は、一人で川沿いを歩いた。
カメラの電池は充電してあるのに、最初の一枚を撮るまで時間がかかった。
いいものを見つけると、瑠美に教えようとしてしまう。
それでも、帰る時間を気にせず歩いて、家に着いた頃には、久しぶりに何十枚も撮っていた。
北原さんから連絡が来たのは、その翌週だった。
以前、瑠美を通じてイベント中に撮った売場写真を渡したことがあり、その際に連絡先を交換していた。知り合った頃は、瑠美も俺を彼氏として紹介していた。
『商品写真のことで、一度相談してもいいですか。ご都合が合えばで大丈夫です』
彼女が撮った便箋の写真も添えられていた。
『白い紙なのに、写真では青っぽくなってしまって』
確かに、画面の中の紙は青みがかっていた。
説明を返すと、撮影をお願いした場合の謝礼と、いつ頃なら可能かを聞かれた。
俺は仕事で撮影を請け負っているわけではない。それも伝え、今回は一度だけ、枚数と渡す日を決めて引き受けた。
撮影場所は、北原さんが時間を決めて借りた、小さなレンタルスペースだった。
「戸倉さん、今日は一緒じゃないんですね」
便箋を机に並べながら、北原さんが聞いた。
「別れたんです」
言ってから、カメラの設定を確認した。
「そうだったんですね」
少し間があったが、詳しい理由は聞かれなかった。
話す必要がないことが、ありがたかった。
撮影では、一度、意見が分かれた。
北原さんは窓に近い位置がいいと言った。俺は、そこで撮ると紙が白く飛んで、淡い線が見えなくなると説明した。
「明るい感じにはしたいんです。でも、線は見えてほしい」
「少し離して、こっちからも照らしてみましょうか」
二つの位置で撮って、画面を並べた。
「こっちです。柔らかい感じは残ってる」
「じゃあ、この位置で」
彼女は自分の希望を言った。俺も、できることと難しいことを言った。
話しているうちに、次の一枚が決まった。
予定の時間内に撮影を終え、後日、選んだ画像を渡した。彼女は確認してから、決めていた謝礼を払ってくれた。
そのお礼の食事で、俺は久しぶりに商品以外の写真を人に見せた。
「こういうのも撮るんですね」
「元々は、こっちばかりです」
スマホの画面を指で送っていくと、北原さんが一枚を指した。
閉店したパン屋の横にある細い路地。夕方の光が、入口の自転車だけを照らしている写真だった。
「ここ、私も立ち止まると思う」
俺は彼女の顔を見た。
「パン屋の文字もいいですね。もう少し見てもいいですか」
スマホを渡した。
彼女は一枚ずつ見て、時々、撮った場所を聞いた。商品をよく見せるための写真ではない。俺が勝手に好きで撮ったものだった。
「この辺り、歩いてみたいです。今度、案内してもらっていいですか」
「いいですよ」
返事はすぐできた。
その後に、いつ空いているかを聞くのが、少し難しかった。
◇
七月最初の日曜日、北原さんと駅前で待ち合わせた。
彼女は薄いスケッチブックを持っていた。
「持ってきちゃいました。もし途中で描き始めたら、置いていってください」
「置いていくのは、ちょっと」
「じゃあ、三分だけ待ってください」
最初に止まったのは、駅を出て五分も経たない場所だった。
古い喫茶店の窓に、手書きのメニューが貼られている。彼女は覗き込み、俺は一歩下がって、窓に映った街路樹を見た。
「安西さん、そっちから撮るんですね」
「木が映ってるので」
「私はこのオムライスの字が気になる」
大きさが揃っていない文字を見て、俺も笑った。
同じ窓でも、見ているところが違った。
昼食の後、彼女が行きたい場所を三つ挙げた。
地図を見て、俺は閉館時間を確かめた。
「全部回ると、最後の資料館に間に合わないかもしれません」
「ほんとだ。私、近そうなところ全部入れちゃった」
「川のほうは、また今度でも」
口にしてから、余計なことを言ったかと思った。
北原さんは地図を見直して、頷いた。
「そうします。資料館、一番見たいので」
歩きながら、また今度と言ったことが気になった。
彼女は気にしていないようだった。それが少し残念で、少し安心した。
資料館へ向かう途中、古い映画館を見つけた。
北原さんのポストカードにあった場所とは別の建物だったが、看板の文字がよく似ていた。
俺が立ち止まってカメラを構えると、彼女も少し先で足を止めた。
撮り終わって顔を上げたとき、一瞬、姿が見えなくなった。
「安西さん、こっち」
脇の細い通路から手が上がった。
北原さんは、壁に残った上映作品の古い広告を見ていた。
「これ、手で描いてますよね。すごい」
振り返った顔が、楽しそうだった。
俺はカメラを持ち上げかけ、下ろした。
「……北原さんも、撮っていいですか」
彼女が俺を見る。
商品の写真なら、こんなふうに喉が乾くことはなかった。
「私?」
「嫌なら、いいんですけど」
「嫌じゃないです。ただ、どこ見たらいいですか」
「今みたいに、看板を」
彼女は看板へ顔を戻した。けれど、口元が少し上がっている。
俺は一枚撮った。
画面を見せると、北原さんが小さく声を上げた。
「こんな顔してたんだ」
「楽しそうでした」
「楽しいですから」
返事に困って、俺は画面をもう一度見た。
その写真を、帰ってからも何度か見た。
翌日、看板の写真と一緒に彼女へ送ると、今度は彼女からスケッチの写真が届いた。
窓に映る木も、絵の中に入っていた。
次の外出は、俺から誘った。
別の古い映画館を見つけた、と送るだけの文章を、何度も書き直した。
最後には、そのまま送った。
『行きたいです。今回は私が、お昼のお店探していいですか』
返事を読んで、携帯を持ったまま頷いた。
◇
瑠美は六月のイベントを、一人で準備した。
文哉がもう来ないと言ったときには、少し困らせたいだけだと思っていた。
交際中も、頼みごとが増えると彼は黙ることがあった。でも、結局は手伝ってくれた。別れたと言っても、次の予定を話せば来てくれるのではないかと思った。
今回は、返事が変わらなかった。
大崎に頼むと、搬入の日は自分の荷物で車がいっぱいだと言われた。
「写真なら、知ってる人紹介できるよ。料金は聞いてみて」
紹介された撮影者の料金は、瑠美の考えていた額より高かった。枚数を減らす相談をすると、その分の金額と、次に空いている日程が返ってきた。
高すぎるわけではない。人の時間を使うのだから、その条件になる。
瑠美は依頼を見送り、自分のスマホで撮った。
色が合わない。直すと、今度は金具が暗くなる。
撮り直すうちに、制作に使うはずの夜が終わった。
持ち込む種類を減らし、荷物を二つに分けて電車で運んだ。
客は来た。作品も売れた。文哉がいなくても、活動は続けられた。
ただ、帰りに箱を持つ手を替えながら、彼に任せていたことの多さを考えた。
七月、新しいイヤリングができた。
左右で少し違う形にした。写真を撮って、文哉へ送ろうとして、指が止まった。
前なら、こういうところを一番に見つけてくれた。
こっちだけ少し長いんだね、と言って、何度も角度を変えて撮った。
売れなかった日も、今日はあの人がすごく迷ってたから、次は買ってくれるかもしれない、と帰りの車で話してくれた。
片づけが終わった後、外で夕飯を食べる時間が好きだった。
いつから、文哉が一緒にいることより、何をしてくれるかを数えていたのだろう。
あの集まりで、彼が口数の少ないことを誰も責めなかった。大崎は彼に話を振っていた。
なのに、瑠美はほかの出展者が連れていた、よく笑い、会話を盛り上げる恋人と比べてしまった。
自分も、そんな相手を連れている人に見られたかった。
文哉が笑うのを、二人きりなら何度も見ていたのに。
八月に入っても、その写真は送れないままだった。
瑠美は連絡画面を開いた。
前のやり取りは、撮影用に預けていた商品の返却日についてだった。
何度も文章を消してから、謝りたいことがある、と送った。
◇
瑠美からの連絡を読んだのは、八月の平日の夜だった。
別れてから、事務的な連絡以外はしていない。
謝罪が続いた。
友達と言ったこと。二人で出かける約束を守らなかったこと。人にどう見られるかを気にして、俺を傷つけたこと。
『もしよかったら、一度会って話したい』
俺は少し考えた。
別れた日の会話を、また繰り返したくはなかった。でも、あの頃の時間までなかったことにはしたくなかった。
会うのではなく、電話でならと返した。
「ありがとう。ごめんね、急に」
久しぶりの声だった。
「うん」
「文哉が嫌だったんじゃない。周りによく見られたくて、変なこと言った」
俺は椅子に座った。
「二人で出かけてたとき、楽しかった。文哉が何撮ってるか聞くのも。私、そういうの、忘れてた」
「俺も楽しかったよ」
瑠美の息が、電話の向こうで止まった。
その言葉だけなら、もっと早く言えたかもしれない。
「もう一度、付き合えないかな。次はちゃんと彼氏って言う。手伝いばっかりにも、しないから」
俺は目を閉じた。
「ごめん。戻るつもりはない」
瑠美は、すぐには話さなかった。
「私、ちゃんと分かったよ」
「うん。謝ってくれたことは、分かった」
それと、また付き合いたいかは、別だった。
彼女の前で黙るたび、また嫌な顔をされるのではないかと思いながら付き合う気にはなれなかった。
「俺は、手伝いがなくても付き合っていたかった。友達だって言われるまでは」
電話の向こうで、小さく鼻をすする音がした。
「……次の新作だけでも、写真、お願いできない?」
俺は机に置いたカメラを見た。
「ほかの撮影の人には、頼めない?」
「うん。でも、文哉のほうが私の作りたい感じ、分かるから」
昔なら、嬉しかったと思う。
俺の撮影が好きだと言ってくれたことも、嘘ではないのだろう。
「それも、引き受けない」
瑠美は、分かった、と言った。
俺は、作品を作ることまでやめないでほしいとは言わなかった。それは彼女が決めることだった。
もう伝えることはないか聞いて、電話を終えた。
◇
瑠美は、一人になった部屋で、新作の箱を閉じた。
また恋人になれば、写真を頼めば、以前のように会える。そう期待していたことに、今さら気づいた。
謝る言葉は届いた。それでも、文哉は戻らなかった。
彼が自分を好きだった時間を、返してもらう方法はなかった。
◇
北原さんとは、その夏、何度か出かけた。
仕事の帰りに食事もした。
彼女は会社での失敗を話した。見直した資料の、名前の一文字だけ間違えていたという。
「中身をあんなに確認したのに、そこって思いました」
「名前は、俺も見落とします」
「安西さんでも?」
「俺、全部確認できる人じゃないですよ」
彼女が笑った。
俺も、初めて出張に行ったとき、駅の反対側で迎えの車を待っていた話をした。
写真の話がなくても、食事の時間はすぐ過ぎた。
九月に入った土曜日、小さな写真展へ二人で行った。
見終わると、北原さんが一枚について感想を言った。俺は別の写真が好きだった。
どこが好きなのか話すと、彼女は入口を振り返った。
「もう一回だけ、見てきてもいいですか。今の話聞いて、気になった」
俺も一緒に戻った。
彼女が最初に好きだと言った写真も、見直した。
帰り道、次に何を見に行こうかと話しながら、俺は北原さんに声をかけた。
「少し、話してもいいですか」
川沿いの道で足を止めた。
彼女が頷く。
カメラのストラップを何度も指で触った。こういうとき、持っていないほうがよかったと思った。
「北原さんと、また出かけたいです」
「私もです」
「それだけじゃなくて」
彼女は俺を見ていた。
急いで先を言ってしまいたかった。でも、言葉を待ってくれている顔を見て、少し呼吸が戻った。
「好きです。付き合ってほしい」
彼女は目を伏せた。
返事を待つ間、川の音が聞こえた。
「私も、安西さんが好きです」
顔が上がった。
「一緒に歩くと、自分なら通り過ぎるものを見られるし。違うものが好きでも、話したくなるんです」
彼女の指が、鞄の持ち手を握った。
「写真をお願いした日だけ会う人になりたくなくて。街を案内してって、少し頑張って言いました」
「……そうだったんですか」
「そうだったんです」
俺は、あの食事で二人で写真を見た時間を思い出した。
いつが空いているかを聞くまでに、ずいぶん時間がかかった。
「俺も、次に誘うとき、何度も書き直しました」
「結構すぐ返事しちゃいました。もう少し考えた感じにすればよかった」
「すぐ来て、嬉しかったです」
北原さんが笑った。
俺も笑えた。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
二人でまた歩き始めた。
途中で、彼女の手が俺の手に触れた。そのまま繋いでもいいかと聞くと、頷いてくれた。
写真を撮るときは離す。撮り終えたら、また手を取る。
それだけで、帰る道が短く感じた。
◇
十月、佳穂さんの出るイベントへ遊びに行った。
搬入はもう済んでいた。彼女は売場を一人で回せる量にしており、閉場後の荷物も自分で運べる。
今日は見て歩くつもりだったので、カメラも持ってきた。
俺が来るのは、昼過ぎに少しだけ。一度会場を離れ、終わる頃に戻って、一緒に夕飯を食べる約束だった。
「文哉さん、こっち」
名前を呼ばれるのには、まだ慣れなかった。
近づくと、佳穂さんが新しいカードを見せてくれた。
七月に二人で見つけた、あの映画館が描かれている。
「隅の広告も入れたんですね」
「入れたくて。小さいから、結構苦労しました」
俺は一枚買った。
彼女は売り物の袋に入れ、いつもと同じように代金を受け取った。
「安西さん?」
隣の通路から大崎さんが声をかけた。
俺が挨拶をすると、佳穂さんにも顔を向ける。
「二人、知り合いだったんだね」
「はい。私の彼氏です」
佳穂さんは、ごく自然に言った。
大崎さんは、そうなんだ、と笑った。
「この前話してた写真展、一緒に行ったの?」
「そうです。おすすめでしたよ」
少し展示の話をして、大崎さんは自分の売場へ戻った。
佳穂さんが、俺を見上げた。
「……言ってよかった?」
頷こうとして、それだけでは足りないと思った。
「うん。俺も、そう紹介したかった」
彼女の顔が、少し赤くなった。
俺も多分、同じ顔をしていた。
「じゃあ、文哉さんの友達に会うときは、お願いします」
「分かった」
客が来たので、俺は机から少し離れた。
佳穂さんがカードの説明を始める。袋に入れた俺の一枚を、鞄にしまった。
会場を出て、夕飯の店を確認した。
地図では近く見えたが、一つ裏の通りだった。迷わないように歩いて確かめ、店の前から彼女へ連絡する。
『お店、見つけた。ちゃんと案内できそう』
しばらくして返事が来た。
『ありがとう。終わったら一緒に行こうね』
カメラを持って、会場へ戻るまでの時間を歩いた。
窓に映る木の影がきれいで、一枚撮った。
夕飯を食べながら、佳穂さんに見せようと思った。




