厄介には武力をぶつけよう!
待ち合わせの鐘が鳴る少し前から、イマン・チェリーは菓子店の軒先に立っていた。
春先とはいえ日陰にはまだ冬の名残があり、石畳を渡る風が薄い外套の裾を揺らし、磨いた靴の爪先をじわじわと冷やしてくる。それでも硝子窓の向こうには、蜂蜜を塗った焼き菓子や苺を載せた小さなタルトが並んでいたから、眺めているだけでも退屈はしなかった。
今日は婚約者のバリーが、評判の菓子を食べてみたいと言い出したのである。甘いものにさほど執着のない男が珍しく乗り気だったので、イマンも昼食を軽く済ませてきた。
結婚式の準備が本格的に始まってからは、顔を合わせても招待客の席順や家具の搬入日、領地間の契約、使用人の配置について話してばかりだったので、こうして何の役にも立たない時間を二人で過ごすのは久しぶりだったが、こういう予定はいつも何故か邪魔が入る。
鐘が鳴る前に通りの向こうから急いでくるバリーを見つけた時、イマンはその歩き方だけで、今日は苺のタルトにありつけないのだろうと察した。
仕事へ向かう時の彼は背筋を伸ばし、歩幅まで几帳面に揃えているのに、困り事を抱えている時だけ右肩が少し下がる。
本人には教えていない。婚約して七年も経てば、本人の知らない癖の一つや二つは見つかるもので、そういうものを見つけては心の中へコレクションするのがイマンの趣味だった。
バリーはイマンの前まで来ると帽子を取り、走ったわけでもないのに苦しそうに息を吐いた。整えていた濃い茶色の髪が風に乱れ、額へ一筋落ちている。
「すまない、イマン。従妹が具合を悪くしたから、見舞いに来いと言われてね」
やはり、と胸の中でだけ呟き、イマンは眉を下げた。誰に言われたのかは聞くまでもない。従妹のルイーズか、その母親である叔母か、たいていは両方である。
「あら……可哀想に。お大事にと伝えてね」
「君ならそう言ってくれると思ったよ」
安堵したバリーが口元を緩める。イマンは手袋を外し、冷たい指先で彼の頬へ触れた。目の下に薄く影が落ち、顎の線も少し鋭くなっている。可哀想なのはルイーズだけではないらしいが、通りの真ん中で尋ねたところで、大丈夫だと答えるに決まっていた。
「行ってらっしゃい、バリー。あまり遅くならないようにね」
「ああ。埋め合わせは必ずする」
「苺が終わる前にお願い」
「必ず」
そう答えてから、バリーは一度だけ名残惜しそうに店の窓を見た。それから帽子をかぶり直し、来た道を引き返していく。イマンはその後ろ姿が人混みに紛れるまで見送り、手袋をはめ直した。一人で食べてもよかったが、今日の苺の味までバリー抜きで覚えてしまうのは、なんとなく惜しい。厨房で働く者たちへ焼き菓子でも買おうかと考えていると、背後で押し殺した声がした。
「またですって」
「お気の毒ね。あれほどお綺麗でも、心までは手に入らないのね」
「ルイーズ様の方が先にお知り合いだったのでしょう」
「幼い頃から支え合っていたそうよ。病弱な令嬢と、彼女を守り続ける青年なんて……」
「でも、チェリー家との縁談があるから」
「家のために愛を諦めるなんて、まるで『白百合の寝台』みたい」
「チェリー男爵は相当な持参金を用意したそうですもの。テイラー子爵家も断れないでしょうね」
声の主たちは、イマンと目が合うと慌てて顔を逸らした。婦人が扇を広げ、その隣で娘らしい少女が恥ずかしそうに下を向いて頬を赤らめる。イマンは軽く会釈だけして店へ入った。娘の方は恥を知っているらしい、怒るほどのことでもない。
『白百合の寝台』は、昨年から若い女性の間で流行している恋愛小説だった。
余命短い令嬢と、彼女を一途に想いながら政略結婚を強いられる騎士の物語。婚約者として登場する公爵令嬢は、黒髪をきつく結い上げた冷淡な女で、見舞いを妨害し、手紙を燃やし、最後には毒まで盛ろうとして国外へ追放されるらしい。
イマンは読んでいないが、あまりに流行したので筋書きだけは知っていた。最近では病弱な若い女性と親しくする婚約者持ちの男性がいれば、誰かが必ずこの物語へ当てはめたがる。
バリーは優しい騎士。ルイーズは儚い白百合。そしてイマンは二人の愛を妨げる悪女。配役はすでに決まっているようだった。
チェリー家が爵位を得たのは、イマンが生まれる少し前である。父親は一台の荷馬車から商いを始め、鉱山道の整備と穀物運送で財を築き、戦時には王家へ物資を融通した。
その功績で男爵位を授けられたが、古い貴族から見れば、チェリー家は金で門を押し開けた昨日今日の家でしかない。
一方のテイラー子爵家は、由緒だけなら建国期にまで遡れる。古い屋敷と立派な紋章はあるが、土地は痩せ、屋根は毎年どこかが雨漏りした。
イマンは裕福な男爵家の一人娘で、バリーは貧しい子爵家の三男。長男は家を継ぎ、次男は騎士団へ入り、土地を持たない三男が婿に出る。
そこだけ切り取れば、金で買われる花婿の話に見えなくもない。病弱な従妹まで加われば、世間の好む悲恋は出来上がる。
ただし、バリーの婚約者は最初からイマンだった。婚約が決まったのはイマンが十歳、バリーが十二歳の時で、ルイーズが療養のためテイラー家へ滞在するようになったのは半年前である。順番を気にするなら、かなり無理のある配役だった。
とはいえ、イマンの顔立ちが悪女役に向いていることは否定しにくい。
母親に似た明るい金髪は、何もしなくても大ぶりの縦巻きになり、父親譲りの長すぎる睫毛は、伏せるだけで何か企んでいるように見える。
笑えば華やかだが、黙っていると傲慢そうだと幼い頃から言われてきた。もっと素朴な顔なら薄幸の婚約者役をもらえたのかもしれないが、生まれ持った睫毛を半分抜くわけにもいかなかった。
店員が恐る恐る注文を尋ねてきたので、イマンは厨房の者たちの顔を思い浮かべながら焼き菓子を選ぶ。苺のタルトは買わなかった。
バリーがルイーズのために予定を取りやめるのは、これが初めてではなかった。
結婚後に使う馬車を選ぶ日には熱が出たと呼び戻され、音楽会の夜には胸が苦しくて眠れないから話し相手になってほしいと言われ、新居へ運ぶ書棚を確認する日には庭を歩くため男性の腕が必要だと使いが来た。
医師も看護人も侍女もいるのに、なぜバリーの腕でなければならないのかは分からない。
バリー自身はすっかり疲れきって、断って叔母の甲高い声を聞くくらいなら、さっさと応じる方がましだと思っているらしい。学習性無力感というらしい。可哀想に。
バリーは、声の大きい者へ譲ることに慣れていた。父親の注意は跡継ぎの長男のロバートへ向き、母親は王立学園の教員として生徒たちを抱え、次男のグレゴリーは幼い頃から剣を振っていた。そのせいで、三男のバリーは、揉め事が起きれば折れて場を静かにする役へ回りやすかった。
そのくせ仕事には細かく、結婚式の招待状の紙質から食器棚の蝶番まで、頼まれていないことにも気がつく。
イマンの花嫁衣装についても仕立て屋と何度も打ち合わせを重ね、胸元の刺繍糸が光を弾きすぎると言って染め直させた。イマンには前の糸との違いがほとんど分からなかったが、眉間に皺を寄せて布を見比べるバリーが面白く、そのまま好きにさせている。
婿入り後はチェリー男爵の補佐として、商会と領地の双方を取りまとめることになっていた。金の動きに強いチェリー家と、古い貴族社会のしきたりを知るバリーは、仕事の上でも相性がよい。イマンの父親も、娘の婚約者というより将来の共同経営者を見る目で彼を気に入っていた。
そのバリーが、今はルイーズと叔母に時間も気力も削られている。
テイラー家の父親と長男は河川工事のため領地を離れ、次男は騎士団の遠征任務中。母親も一月の半分は学園の教員寮で過ごしていた。家族が揃っていた頃には大人しく療養していたルイーズが、皆が留守にするようになってから頻繁にバリーを呼び始めたことを、本人たちはまだ詳しく知らないらしい。使用人は雇い主の親族について勝手な報告をしにくく、バリーも両親へ訴えるほどではない、自分が我慢すれば良いと黙っていたのである。
その日の夜、バリーはチェリー家を訪れた。応接室へ通されるなり、普段なら向かいの椅子に座る男が、イマンの隣へ腰を下ろした。
二人掛けの長椅子へ沈み込み、肩が触れるところまで寄ると、背もたれへ頭を預けて目を閉じる。イマンは読みかけの手紙を卓上へ置いた。
「苺のタルトは食べた?」
「食べていないわ」
「どうして」
「一人で食べる気分ではなかったから。料理人たちに焼き菓子を買ったの」
「そうか」
「ルイーズの具合は」
「僕が着いた時には、もう熱も下がっていた」
「それはよかったわね」
「ああ」
会話がそこで途切れた。暖炉の薪が小さく爆ぜる。バリーは目を開けたが、天井を眺めたまま動かなかった。
「それで、何時間いたの」
「六時間」
「まあ」
「帰ろうとすると泣くんだ。叔母上は、ルイーズは身体が弱くて友人も作れないのだから、話し相手くらいしてやれと言う。二時間ほど本を読んで、庭で咲いた花の話をして、昔の話を聞かされて、夕食まで一緒に食べた。帰ると言ったら胸が痛むと言い出したから、医師を呼ぼうとしたら必要ないと止められた」
「あなたが帰る時だけ痛くなる胸なのね」
「便利な胸だ」
珍しく刺のある言い方だった。イマンは笑いそうになったが、横顔があまりに疲れていたので堪え、代わりに肩へ寄りかかりやすいよう姿勢を変えた。
バリーは少し迷ってから、遠慮がちに額を寄せてきた。外では指先へ触れるだけでも人目を気にするくせに、疲れている時だけ、彼は子供のように体重を預ける。イマンはその顔が好きだったが、そのために何時間も意味の無い拘束をされては割に合わない。
「今日も通りで噂をされていたわ」
「僕とルイーズのことか」
「ええ。病弱な令嬢と、彼女を愛しながら金持ちの娘へ売られる由緒正しい家の三男ですって」
「売られる」
「チェリー家はお金だけはあるから」
「だけ、ではないだろう」
「世間では、爵位を買った商人の家よ。お父様が王家を助けたことなんて、恋物語には邪魔なのでしょうね」
バリーは肩から額を離し、暖炉の火を睨んだ。
「流行りで評価が変わるのは納得いかないんだ。僕たちが出会った頃、君の金の髪も睫毛も、お姫様のようだと言われていた。僕は今もそう思っている」
イマンは瞬きをした。確かに幼い頃にはそう言われていた。まだチェリー家が爵位を得たばかりで、商人の娘が子爵家の庭へ招かれること自体が珍しかった。
バリーも最初の日にはほとんど口を利かなかったくせに、帰り際になって、花を一本くれた。庭師に頼んで切ってもらった、庭で一番美しく大きく咲いた花だった。
「派手な金髪も生意気そうな目つきも、傲慢な成金令嬢に見えるんですって」
「審美眼が無い輩だ。君の美しさに嫉妬してるんじゃないか? それか本当に頭が悪いかの二択」
二択、で指を二本立てたあと、バリーは遅れて自分の言葉があまりにも率直だったと理解したらしく、わずかに目を逸らした。イマンは彼の頬へ手を伸ばした。昼間より温かい。
「あなた、疲れている時の方が素直ね」
「今のは疲れているから言ったわけじゃない」
「では、元気な時にも言って」
「努力する」
「努力が必要なの」
「君を褒めると、君より先に君の父上が喜ぶから、少し複雑なんだ」
「ごめんなさいね、お父様は子供っぽいの。好きな人が好きな人のことを好きだと、嬉しくて仕方ないのよ」
「僕も“好きな人”の枠に入れられているのは、喜ぶべきことかな」
「喜んだ方がいいわ。子供っぽいから、嫌いな人には本当に酷いのよ、私のお父様」
「知っている」
バリーは息を吐き、またイマンの肩へ額を戻した。イマンの父は優秀だが、感情で動きがちな男だ。好かれている分には頼り甲斐があるが、一度嫌うと何をするか分からない。
「ルイーズはあなたと何を話すの?」
「昔のことが多い。僕が木から落ちた時に泣いたとか、祭りで菓子を分けたとか。僕はほとんど覚えていないんだが、向こうはよく覚えている」
「あなたのことが好きなのね」
「従兄としてだろう」
「そうだといいわね」
バリーが怪訝そうに顔を上げたので、イマンはその乱れた前髪を指で整えた。
「一度お見舞いに行った時、ルイーズのお部屋に『白百合の寝台』が置いてあったの。続編も、同じ作者の別の本も」
「流行している本だろう」
「ええ。病弱な令嬢が、婚約者のいる男性と結ばれるお話」
「まさか」
「私もまさかとは思うわ。結婚間近の従兄を寝取れると思うほど、夢見がちな年齢でもないでしょうし」
「寝取る」
「あら失礼、率直だったわ」
イマンが目を伏せてみせると、バリーは小さく笑った。けれど、その笑みはすぐに消えた。
「ルイーズは、子供を望めないと言われている」
「聞いているわ」
「結婚そのものが難しいと、叔母上はよく言う。だから少しくらい望みを聞いてやれと」
「その少しが今日の六時間なのね」
「昨日は三時間、一昨日は手紙を三枚分、仕事の合間に顔を出せというのは毎日」
「断ればいいと、自分でも分かっているでしょう」
「あの甲高い声を聞くくらいなら……って思っちゃうんだよ、いつも後で後悔するんだ」
「可哀想なバリー」
バリーは返事をしなかった。イマンは彼の手を取り、指先に残っていた薄いインクの跡を親指でこすった。
「あなたが疲れて甘えてくるのは素敵よ。普段は見られない顔だから」
「それなら、悪いことばかりでもないな」
「でも、私は元気なあなたが一番好きなの」
バリーはしばらく黙り、やがてイマンの手を握り返した。
「君なら、そう言うと思った」
「その言葉、今日は二度目ね」
「何度でも言うさ」
「私が怒らないと思って、甘えているでしょう」
「僕は君に甘えるのが好きなんだ」
「可愛らしいこと。素直でよろしい」
翌週、二人は花嫁衣装の最終確認をする予定になっていた。仕立て屋はチェリー家へ出向いてもよいと言ったが、バリーが工房の窓から入る午後の光で刺繍糸を確かめたいと譲らなかったため、イマンが店を訪れることになっている。
ところが約束の前日、テイラー家から使いが来た。届けられた手紙は、いつもの短い詫び状よりずっと長かった。几帳面な文字のところどころで、筆先が紙へ食い込んでいる。
『ルイーズが明日も僕にそばにいるよう求めている。叔母上は、僕が外出すれば命に関わるかもしれないと言っている。これまでなら、また君に予定を変えてもらっていただろう。だが、君との約束を理由に断れば、何か起きた時に君まで責められかねない。そんなことはさせたくない。申し訳ないが、衣装をこちらへ運んでもらえるよう仕立て屋へ頼んだ。テイラー家で最も光のよい部屋を空け、必要なものは用意する。店主と職人たちも来てくれることになった。君さえよければ、予定どおり確認をしたい』
読み終えたイマンは、手紙を膝の上へ置いた。
これまでのバリーなら、死ぬかもしれないと言われた時点で予定を取りやめていただろう。ルイーズの言葉を信じているのではない。背を向けたあとに本当に何かあれば、叔母がバリーのせいだと騒ぐところまで想像してしまうのだ。
だが今回は、婚約者との約束を理由にすれば、イマンまで巻き込まれる。欲深い男爵令嬢が、病弱な娘から従兄を奪って死へ追いやった。たとえ本当に死ななくても、死にそうになったとでも言えばいい。誰も確認なんてしないのだから。
それを分かったうえで、バリーは屋敷へ残りながら約束も守ることにしたらしい。仕立て屋には迷惑だが、自分を差し出して済ませる以外の方法を、ようやく選んだ。
「お嬢様、いかがなさいますか」
「行くわ。せっかくバリーが、何も諦めない方法を考えたのだもの」
翌日、テイラー家へ着いたイマンを迎えたのは南側の大広間だった。普段は家具に布をかけたままになっている部屋だが、今日は長椅子や卓が壁際へ移され、敷物も巻き取られていた。磨かれた床へ午後の光が伸び、三面鏡や仕立て屋の道具箱、衣装を掛ける衝立が並んでいる。窓の外では薄い雲が流れ、そのたびに刺繍糸の色がわずかに変わった。
店主と職人たちはすでに到着していた。店主は予定外の出張にもかかわらず機嫌がよく、歴史ある子爵家の広間で花嫁衣装を仕上げるのも悪くない趣向だと言った。バリーが相応の追加料金を約束したのだろう。本人は窓辺で職人と刺繍糸を見比べており、イマンに気づくと、隠しきれない安堵を顔へ浮かべた。
「来てくれてありがとう。勝手に場所を変えてしまって、すまなかった」
「場所が変わっただけで、予定は変わっていないでしょう。あなたにしては上出来よ」
「褒められている気がしないな」
「とても褒めているわ。今日は自分を生贄にしなかったもの」
イマンが手を差し出すと、バリーは一瞬周囲を見てから指先を取った。店主も職人も作業へ集中している振りをしながら、しっかりこちらを見ている。
「ルイーズは」
「今朝、医師が診た。熱はなく、脈にも異常はない。ただ、僕がこの部屋にいると知ってから胸が苦しいと言っている」
「医師はまだいるの」
「ああ。叔母上が、午後にも容態が変わるかもしれないと引き止めた。自分で残した以上、今日は医師を呼ばずに僕だけを呼び付けることはできない」
「考えたわね」
「もっと早く考えるべきだったよ」
バリーはそう答えながら、落ち着かない様子で扉の方を見た。イマンはルイーズを警戒しているのだと思った。実際には、それだけではなかった。
衣装の確認が始まると、バリーはいつもの調子を取り戻した。職人がイマンの背中で留め具を直し、店主が裾の落ち方を確かめる間、窓からの光に合わせて位置を変え、刺繍が黄味を帯びすぎていないか、真珠が布へ沈んで見えないかと口を出す。イマンは三面鏡の中の自分より、鏡の端へ映り込む彼を眺めていた。周囲をぐるぐると歩き回り、口を出し、あれがいいこれがいいと落ち着きなく、職人の手元から目を離さない。
「胸元をもう少し開いてもよいのでは」
店主が布を折りながら尋ねると、バリーは考え込んだ。
「いや、今の方が刺繍は綺麗に見えると思う。ただ、苦しくないかはイマンに聞いてください。僕が着るわけではないので」
「ようやく気づいたのね」
「最初から分かっているよ」
「それなら私ではなく、糸へ話しかけるのをやめてくださる? 刺繍に嫉妬してしまうところだったわ」
職人たちが笑い、バリーは少し赤くなった。
その時、廊下から足音が近づき、叔母の高い声が先に部屋へ飛び込んできた。
「これは何なの、バリー!!」
扉が勢いよく開き、叔母が入ってきた。その後ろには白い肩掛けをまとったルイーズと、付き添う侍女がいる。ルイーズは自分で歩いていたが、部屋へ入る直前になって侍女の腕へ体重を預けた。顔色は悪くない。けれど花嫁衣装姿のイマンを見ると、ひどく傷ついたように目を見開いた。
「ルイーズが苦しんでいる隣で、よくこのようなことができますね。見せつけるために、わざわざ衣装をこちらへ運ばせたのですか」
職人たちの手が止まった。店主は眼鏡の奥からバリーを見る。バリーは叔母とイマンの間へ立った。
「僕が頼みました。外出すればルイーズの命に関わると仰るので、屋敷へ残ったまま約束を果たせるようにしただけです。医師も同じ屋根の下にいます」
「そういう問題ではありません。ルイーズがどれほど心細いか、あなたには分からないの。しかも、その原因になっている娘を屋敷へ招き、花嫁衣装を広げるだなんて」
「イマンは原因ではありません」
「この娘との結婚さえなければ、あなたはルイーズのそばにいられるでしょう」
「結婚がなくても、そばにいるつもりはありません」
叔母の声がさらに高くなる。イマンが衣装のまま何か言えば、病弱な娘を見下ろしているように見える。バリーも分かっているらしく、自分の身体でイマンを隠した。
「あなたは昔から優しい子でした。それが、この娘と婚約してから変わってしまった。金のある家へ婿入りするためなら、病に苦しむ家族まで捨てるのですね。ルイーズがこのまま倒れたら、あなたたちは責任を取れるの」
バリーの肩が強張った。叔母の言葉にではなく、その後ろを見ての反応だった。
廊下の向こうから重い足音が響く。乱暴な音というより、重いものが足早に来るから仕方なく鳴るというだけの音だ。
「遅れて悪いな。走ってきた」
叔母の後ろへ現れたのは、テイラー家の次男、グレゴリーだった。
騎士団の制服の上へ旅用の外套を引っ掛け、額には汗が浮いている。肩幅が広く、扉がいつもより狭く見えた。険しい顔へ走った疲れまで加わり、何もしていない者まで謝りたくなるような姿をしている。
彼を見たバリーは驚くより先に、わずかに目を逸らした。
「馬車を送ったのに」
「俺より遅いのが悪い」
グレゴリーは室内を見回した。花嫁衣装姿のイマン、バリー、扇を震わせる叔母、侍女へ寄りかかるルイーズ、壁際の職人たち。最後にバリーを見る。
「来てくれたことには本当に感謝する」
「まだ何もしていない。それより、お前は何で花嫁衣裳の前に叔母上を立たせている。邪魔だろう。どかせ。縁起が悪い」
「グレゴリー、何をしに来たのです。騎士団の務めがあるのでしょう」
「弟から連絡が来た。我が家の婚約を、居候の親戚が邪魔しているとな」
「居候だなんて。私たちは血のつながった家族ですよ」
「家族なら、結婚間近の弟を毎日病室へ呼びつけるのか。ずいぶん暇な家族だな」
「この子は本当に身体が弱いのです。あなたには病人の不安が分からないのでしょうね」
叔母はその後も、ルイーズがどれほど可哀想か、バリーがどれほど冷たくなったか、イマンが金で彼を縛ったかを一息に並べ立てた。グレゴリーは途中で口を挟まず、腕を組んで黙って聞いていた。叔母は止められないのを勢いがついたと勘違いしたらしく、自分が婚家でどれほど苦労したか、世の男がいかに薄情かという話にまで移った。
ようやく息を継いだところで、グレゴリーが言った。
「だから離縁されるんだな」
部屋の空気が固まった。
「何ですって」
「叔母上がなぜ離縁されたのか、今のでよく分かったと言った。相手が黙っている間に、勝手に自分が正しいことにするんだろう。元の夫も途中から聞くのを諦めたんじゃないか」
「あなた、なんということを……」
「兄上」
バリーが止めたが、グレゴリーは片手を上げただけだった。
「お前は黙っていろ。黙っていたからここまで増長させたんだ。あとでお前の話もする」
バリーが口を閉じた。グレゴリーは叔母へ向き直ったが、ふとイマンの衣装の裾が床へ広がっていることに気づき、声を少しだけ和らげた。
「イマン嬢、立たせたままで悪い。椅子へ座っていてくれ。裾を踏んで転ばれたら、こいつの首を絞めても足りん」
「ありがとうございます。けれど、少し離れて見ていた方が安全そうです」
「それもそうだな。バリー、イマン嬢の横へ行け。せめて今くらい守れ」
バリーがイマンの隣へ下がると、グレゴリーは叔母へ顎を向けた。
「続けるぞ。病弱であることと、弟の時間も婚約も好きに使えることは別だ。医師も看護人もつけ、屋敷も部屋も用意した。それで足りず、結婚する男まで寄越せと言うなら、療養ではなく乗っ取りだ」
「なんて侮辱を。ルイーズは嫁ぐことも、子を持つこともできないかもしれないのですよ。バリーには将来があるのだから、少しくらいこの子に分け与えても─────」
「子供を持てないかもしれないから、他人の夫を半分寄越せと言うのか。ずいぶん斬新だな。王都の法学者へ聞かせてやりたい」
「まだ夫ではないでしょう!」
「来月には人の夫だ。だから今のうちに取ろうとしているようにしか見えん」
ルイーズが侍女の腕へ顔を伏せた。叔母が声を震わせる。
「チェリー家が財産でバリーを買ったのでしょう。由緒あるテイラー家の息子を、金で……」
「いや、バリーの一目惚れで頼み込んで婚約者にしてもらった」
グレゴリーはあっさり遮った。
バリーの顔から色が消えた。
「兄上、それは」
「向こうが選ぶ立場だぞ。なんでこんな古臭いだけの貧乏貴族が、大金持ちの美少女と婚約できると思っているんだ。イマン嬢には公爵家からも声がかかっていたのに、こいつが父上の執務室へ毎日押しかけて、どうしてもチェリー家へ話を持っていってくれと頼み込んだ。父上が子供の一時の熱だと言ったら、食事も喉を通らない顔で手紙を書き始めた。
俺と兄貴はこいつの為に、全く興味のないロマンス小説を読まされた上に、ラブレターの内容を精査させられたんだぞ。ああ僕は君の小鳥、この胸の切なさを歌にして捧げたい。今でも悪夢で繰り返されるんだ、この意味のわからん詩のようななにかが」
「兄上、頼む……」
「最初の二通は誤字が多くて母上に書き直しを命じられ、三通目は長すぎて父上に半分へ削られた。最後に自分の字で清書して─────」
バリーは両手で頭を抱え、その場へしゃがみ込んだ。
「もうやめてくれ……」
イマンは花嫁衣装の裾を持ち上げながら彼の横へ寄った。
「大丈夫。知っていたわよ」
バリーがゆっくり顔を上げた。希望を失った目をしている。
「知っていたのか」
「いちばん熱烈なラブレターを自分の字で書いて送ってくれた方と婚約したのよ、わたし。ちゃんと手紙も残しているから、安心して」
「捨ててくれ……」
「いやよ、私の宝物だもの」
職人の一人が噴き出し、慌てて咳へ変えた。店主は口元を押さえながら、見なかったことにして布を整えている。グレゴリーだけは真顔だった。
「本人が知っているなら問題ないな。立て、バリー。お前がしゃがんでいるせいで、ますますイマン嬢が強制的に婿を買ったように見える」
「兄上のせいだろう」
「なんだと、あの素敵なラブレターでイマン嬢の心を射止めたんだから胸を張れ。頑張った俺たちが報われないだろうが」
バリーはしばらく立ち上がれなかった。
叔母の顔は怒りで赤くなっていた。自分の作った物語を、よりによってバリー本人の初恋で壊されたのが我慢ならないらしい。
「子供の頃の憧れでしょう。ルイーズと過ごした時間の方が長いのです。この子はバリーを必要としているのですよ」
「時間で換算しても短いだろうが、たまに会う従妹、半年前から居着いてる居候と、七年前からの婚約者でなんで時間勝負で勝てると思ってる。老化によって計算が出来なくなる病があると聞いたが……。いや、いい。あとで叔母上にも医者を手配する。
まあ、都合の良い優しい男が手元に欲しいだけだろう。バリーが毎日病室で本を読むだけの男になったら、今度は将来性がないと文句を言うに決まっている」
「ルイーズはそのような娘ではありません!!」
「では、今すぐ部屋へ戻って医師の言うとおり休ませろ。従兄の婚約者が花嫁衣装を着た途端に胸が痛くなるなら、病気ではなく嫉妬だ。嫉妬するなとは言わん。勝手に苦しめ。だがその慰めを他人に求めるな」
「グレゴリー兄様、私はただ、バリー兄様が心配してくださるから……」
「心配はしているだろうさ。バリーは困っている者を放っておけない。面倒を避けるために言うことを聞く癖もある。そこへ都合のよい意味をつけたのはそちらだ。こいつも悪いが、お前の将来まで引き受けるほどの罪は犯していない」
壁際まで戻っていたバリーが小さく呟いた。
「味方を呼んだはずなのに、僕にもダメージが与えられている」
「お兄様なりの激励でしょう」
叔母がグレゴリーの肩越しに二人を睨みつけた。そのまま、扇をへし折らんばかりに握りしめて甲高い声を上げる。
「あなたたちは、病人を笑いものにして楽しいのですか。もしルイーズに何かあったら、この娘にも責任を取らせますよ!」
その言葉に、面倒そうに叔母を見ていたグレゴリーの顔から、わずかに残っていた愛想が消えた。
「それを脅しと言うんだ。医師が異常なしと診ている時に死を持ち出し、バリーの行動を縛る。外へ出れば見捨てたと責め、屋敷へ残って約束を守れば、今度は花嫁衣装を見せつけたと騒ぐ。何をしても悪人にするつもりなら、最初から話を聞く意味がない」
「私は母親として娘を守っているのよ!」
叔母は扇を胸元へ叩きつけた。興奮で肩を上下させながら、今度はルイーズを抱き寄せる。
「私がルイーズを守るのよ! 病弱に産んでしまったんだもの、この子の幸せを守りたいと思って何が悪いの!? この子は生まれた時から、皆が当たり前に持っているものを諦めてきたのよ。健康も、結婚も、子供も。せめて好きな人のそばにいたいと願うくらい、叶えてやってもいいでしょう!?」
ルイーズが目を伏せた。止めるでもなく、同意するでもない。ただ、花嫁衣装姿のイマンを横目で見ている。
グレゴリーはしばらく叔母の顔を見ていた。何か言い返す言葉を探しているようにも見えたが、やがて深く息を吐き、眉間を指で押さえた。
「知らね~~……」
「……何ですって」
「うちと関係ない無人島とかで、勝手に幸せになっててくれ。ほんと話通じねえなこのババア……」
「なっ」
「グレゴリー兄上」
バリーが思わず呼んだが、グレゴリーはもう叔母を見るのにも飽きたらしく、片手をヒラヒラと振った。イマンはバリーの背にそっと隠れ「いまババアって言わなかった?」と確認する。「言ったよ」「言ったの……」 あまり、聞かない言葉だった。騎士団は平民上がりの叩き上げも多いと聞くので、そこから学んでしまった悪い言葉なのかもしれない。せめてお年を召したお方と言って欲しかった。
「病弱に産んだことを後悔するのは叔母上の勝手だ。その罪滅ぼしに他人の人生を差し出すな。ルイーズが持てなかったものを全部バリーから取って埋め合わせようとするな。親子二人で勝手に完結しろ。こっちを巻き込むな」
「親族に向かって、なんという言い方を─────」
「親族だから今まで医師も部屋も人手も出してきたんだろう。それ以上に何を寄越せというんだ。どこまで与えれば、叔母上の中でルイーズは幸せになったことになる」
「この子が望んでいるのはバリーだけです!」
「だから、それが迷惑だと言っている」
グレゴリーはあくびを噛み殺すように口元へ手を当て、それから壁際のバリーへ顔を向けた。
「叔母上がこうなるまで断らなかったお前にも責任はある。怒鳴られるから、面倒だからと曖昧に返事をして、婚約者にまで火の粉が飛んでから俺を呼ぶな。もうすぐ夫になるんだろう。自分の家へ持ち込ませたくないものくらい、自分で玄関から追い返せ」
「……分かっている」
バリーが項垂れると、グレゴリーは今度はイマンへ向き直った。先ほどまでの投げやりな声を少しだけ和らげる。
「イマン嬢、こんな話を花嫁衣装で聞かせて悪かった。こちらの問題はこちらで片をつけるから心配しないでくれ」
「ええ、頼りにしてます」
何も言えず叔母の唇が震えたが、グレゴリーは容赦しなかった。つまらなそうに、攻撃のための言葉を投げ続ける。
「それと、イマン嬢を侮辱するのは二度と許さん。うちが古い以外に何を持っている。屋根は漏る。畑は痩せる。父上と兄上は他領の川工事へ人手を出して小銭を稼ぎ、俺は国境を走り回り、バリーは婿入り先で働く準備をしている。皆、自分の立場を分かっている。分かっていないのは、とっくに代替わりした実家へ戻ってきた途端、女主人にでもなったつもりでいる叔母上だけだ」
「私はこの家の娘です!」
「もういい年だ。娘で押し通すな」
「お兄様が戻れば、あなたの無礼をすべて─────」
「父上にも兄上にも使いの者を出した。母上にもだ」
その一言で、叔母の顔が変わったのを、グレゴリーは見逃さなかった。
「何だ。母上へ知られるのが嫌なのか」
「それは……お義姉様は学園のお仕事でお疲れですから、家の細かなことで煩わせる必要は」
「家政を預かる女主人へ知らせず、何を勝手に仕切っている。母上が戻るまで黙って待て。言い訳はその時にしろ」
「私は間違ったことなどしていません」
「なら今まで通り堂々としていればいい」
叔母は何か言い返そうとしたが、声が続かなかった。代わりに涙が溢れ、扇で顔を覆う。ルイーズもつられたように泣き始め、侍女が困った顔で二人を支えた。グレゴリーは面倒そうに眉を寄せた。
「二人同時に泣くな。慰めるための人材もうちの大事な使用人だぞ、無駄に消費させてやらないでくれ」
「兄上、もう少し柔らかく……」
「お前が柔らかく言い続けた結果がこれだ。俺にだけ上品さを求めるな」
グレゴリーは扉を開け、廊下にいた使用人へルイーズを部屋へ戻し、医師を呼ぶよう命じた。叔母は泣きながらもイマンを振り返ったが、グレゴリーが扉を押さえたまま睨むと、何も言わず出ていった。
静かになった部屋で、職人たちは壁際へ寄ったまま針や布を抱えていた。店主も眼鏡を直している。グレゴリーは室内を見回した。
「何をしている。衣装が仕上がらなければ、結婚が延びるぞ」
店主が最初に我へ返り、手を打って職人たちを呼び戻した。イマンも三面鏡の前へ戻る。バリーはまだ耳まで赤くしたまま、兄の前へ立った。
「来てくれたことには感謝している」
「なら最初から言え。お前は面倒を避けた結果、大輪のバカを咲かせる」
「反省している」
「反省だけなら犬でもする。もうすぐ夫になるんだろう。イマン嬢の評判まで傷つけられてから兄を呼ぶな。自分で言え。それでも駄目ならすぐ助けを求めろ。周りへ後始末を押しつけるな。俺はお前の兄だから助けたんだ、一生感謝しろ」
バリーは少し俯いたあと、素直に頷いた。
「ありがとう、兄上」
「ガキみたいな顔しやがって」
「今回の件は本当に反省してるんだ! 今日はもう、これ以上は勘弁してくれ。泣くぞ」
「お前が泣くと俺が叱られるから面倒なんだよなあ、だいたい全部お前が悪いってのに」
グレゴリーはそれだけ言い、パシンと軽い音を立ててバリーの頭を平手で叩いた。全く本気ではないのが分かる一撃に、バリーは「いたい!」と騒ぎながらまたしゃがみ込む。それを無視して、今度はイマンへ向き直った。
「迷惑をかけたな。弟は仕事だけなら使えるが、人間相手になると時々こうなる。結婚後も妙な我慢を始めたら、遠慮なく叱ってくれ」
「すでに叱っています」
「足りない。もっと強くていい。見えないところなら殴っても良いし、母上に頼んで若い頃使っていた鞭を譲って貰おう」
「鞭はやめよう!」
「お前に俺を止める権利は無い」
衣装の確認は、その後ほとんど滞りなく進んだ。胸元の糸は光の中でも派手になりすぎず、バリーが染め直させた甲斐はあった。裾を少しだけ短くし、腰の留め具を調整すれば完成する。
グレゴリーは窓辺の椅子へ座り、出された茶を三杯飲み、菓子を全て食べた。走ってきたせいで空腹だったらしい。花嫁衣装については何も言わなかったが、最後に一度イマンを眺め、弟にはもったいないと告げてから、大股で部屋を出ていった。イマンとバリーは並んで、その広い背中を見送った。
「持つべきものは頼りになる身内ね」
「僕もこうなれるようにがんばらせていただきます……」
バリーは小さく言い、疲れたように顔を覆った。
翌日、王立学園から戻ったバリーの母親は、使用人たちから話を聞き、ルイーズの診察記録や来客の記録、バリーが受け取った手紙をすべて食堂へ運ばせた。テイラー家で家政を取り仕切る最高権力者は、家長である父親ではなく、間違いなく彼女だった。
叔母は、母親が帰宅したと知った時から静かになった。
若い頃にも似たようなことがあったらしい。父親が母親と結婚したばかりの頃、叔母は兄を取られたとでも思ったのか、用もないのに新婚夫婦の部屋へ入り浸り、母親のやり方へ口を出し、父親を何度も呼びつけた。父親はほとんど相手にしていなかったが、今より若かった叔母は、その分だけ元気も声量も余っていた。とうとう母親が朝から食堂へ呼び出し、義妹としてではなく一人の貴族女性として、日が暮れるまで話をしたのだという。
何を話したのかは誰も知らない。
父親は途中で仕事へ逃げ、使用人たちも扉の外へ近づかなかった。夕食の頃に出てきた叔母は物音を立てることすらやめ、その後しばらく、母親から声をかけられるたびに背筋を伸ばしていた。
今回も母親は声を荒らげなかった。叔母を食堂へ呼び、扉を閉めた。昼食は二人分だけ中へ運ばれ、ほとんど手をつけられないまま戻ってきた。午後の茶も同じだった。
夕方、叔母が食堂から出てきた時には目を赤くしていたが、声は出さなかった。ルイーズの元へ行くことも、バリーへ手紙を書かせることもなく、自分の部屋へ戻った。
翌朝から、屋敷は不自然なほど静かになった。
ルイーズの療養場所は変えられることになった。ただし、親族と完全に切り離された保養地ではなく、テイラー家が所有する離れへ移される。医師と看護人を近くへ置き、話し相手として王立学園を卒業したばかりの女性も雇われた。読書好きで恋愛小説にも詳しいが、物語と現実を混ぜる相手には容赦なく現実と混同するなと言い聞かせるタイプらしい。バリーの母親が選んだというので、少なくとも病室で一緒になって悲恋へ酔うだけの相手ではないだろう。
グレゴリーは叔母を泣かせた件で、河川工事から戻った長兄に叱られた。
「余計なことを言わず、適当に怒り狂わせて一線を越えさせれば、今度こそ縁を切れたかもしれないのに、お前が『だから離縁される』などと言うから喧嘩両成敗になった。まだまだ居つくぞ、あの親子」
そう長兄に愚痴をこぼされたらしい。
グレゴリーは、向こうが先にこちらの婚姻を侮辱したと反論したが、長兄からは、だからこそ最後までこちらが正しい側でいればよかったのだと返された。
父親としては、叔母を外へ追い出す気はないようだった。放り出せば町や親戚の家を回り、自分は実家からも見捨てられた可哀想な未亡人だと泣いて騒ぐに決まっている。実際には離縁された身なのだが、叔母にとって細かな違いは問題ではないらしい。ルイーズが病弱であること自体は確かで、どこかで本当に倒れられても困る。まだグレゴリーには婚約者もいないため、父親は身内の恥を身内の土地へ封じ込めておく方を選んだ。
「俺たちは家族ではなく、危険物の管理人なのか」
グレゴリーはそう言っていたという。
ルイーズが離れへ移る前日、イマンのもとへ一通の手紙が届いた。白い封筒には薄い香水の匂いが染みついており、中にはたった一行、あなたは勝ったと思っているのでしょう、と書かれていた。
イマンは返事を書いた。
『勝負をした覚えはありません。どうぞお身体を大切に』
それだけでは冷たすぎるかと思い、離れの近くでは六月に青い花が咲くことと、晴れた日には二階の窓から川が見えることを付け加えた。ルイーズから返事は来なかった。
その数日後、バリーがチェリー家を訪れた。叔母に呼びつけられていた頃とは違い、右肩は下がっていない。ただし、どこか落ち着かず、応接室へ入ってからも何度か扉を振り返った。
「どうしたの」
「母上が、叔母上の次は僕と話をすると言っている」
「当然でしょうね」
「君までそう言うのか」
「お義母様へ何も知らせず、一人で黙っていたのでしょう。叱られる理由は十分よ」
「分かっている。分かってはいるんだが、母上は学園でも厳しいと評判の教師なんだ。いままでは実子だからと手心を加えてくれていたが、やらかしてしまった今となってはいったい何を言われるのか、考えるほど怖くなる。僕は兄上達と違って、しっかり叱られたことが無いんだ……」
「なんだかんだで要領がいいものね。でも、あなたなら大丈夫よ」
「根拠がない慰めはやめてくれ」
バリーはしばらく言いにくそうに唇を結び、それからイマンの手へそっと触れた。
「次の休日は、僕が叱られる番らしい。できたら午後に僕と会ってほしい」
「叱られた後に」
「ああ。もしかしたら泣いているかもしれないから……」
イマンは彼の手を握り返した。以前のバリーなら、叱られることも、傷つくことも、平気な顔で抱え込み、一人きりになってからようやく息を吐いていただろう。弱った時に、ちゃんと助けてと言えるようになったことは、今回の騒ぎで良かったことが一つだけあるとすれば、きっとそれだった。
イマンはつないだ手を引き、少しだけ身を寄せた。バリーが何か言うより先に、その頬へ軽く口づける。触れるだけの短いキスだったのに、彼は目を見開き、それから耳まで赤くした。
「わたしの可愛い人、よく出来ました」
子供を褒めるような言い方に、バリーは困ったように目を逸らした。けれど手を離すことはせず、むしろ先ほどより少し強く握り返してくる。しばらく唇を結んでいたが、やがてイマンにしか聞こえないほどの声で答えた。
「僕の愛しい人、あなたのために、これからも頑張ります」
まだ頑張るのね、と言いかけて、イマンはやめた。今度の頑張るは、一人で耐えるという意味ではないのだろう。だから代わりにもう一度、今度は彼の唇へ口づけた。




