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灰と桜  作者: しろ
9/10

聞く前の沈黙

 彼女と会う約束をしたのは、

 昨日の夜だった。


「明日、少しだけ会えない?」

 それだけの文面。

 理由も、時間も、場所も、

 細かいことは何も書いていなかった。

 それなのに、

 俺はすぐに返事をしていた。

「うん、いいよ」

 

 その“いいよ”が、

 本当に軽いものだったのかどうか、

 今となっては分からない。


 夕方の公園は、

 子どもたちの声が少し残っていて、

 ベンチの影が長く伸びていた。


 先に来ていた彼女は、

 いつも通りの服装で、

 いつも通りに笑った。

「ごめん、待った?」

「いや、今来たとこ」

「そっか。よかった」

 その“よかった”が、

 何に対してなのか、

 俺は聞かなかった。


 並んで歩き始める。

 特別な話題はない。

「最近さ、寒くなってきたよね」

「もう秋だしな」

「秋ってさ、好きなんだよね。

 なんか、理由なく物悲しい感じがして」

「変な理由だな」

「ひどい。

 でも、翔ってそういうの、

 分かりそうなのに」

 分かりそう。

 その言い方に、

 少しだけ胸が詰まる。

「……分かるっていうか、

 考えないようにしてるだけだよ」

「それ、ずるくない?」

「ずるいかもな」

 彼女はくすっと笑った。


 いつもより、

 ほんの少しだけ長く。

「ねえ」

 歩きながら、

 彼女が言う。

「翔ってさ、

 何かあったら、ちゃんと聞く人?」

「何が?」

「例えば、私が何か隠してたら」


 心臓が、

 一拍遅れて鳴った。

「……内容による」

「内容による、か」

 彼女は空を見上げた。


「聞かれるのって、

 楽なときと、

 すごく怖いときがあるよね」

「あるな」

「翔は、

 どっちが多いと思う?」

 すぐには答えられなかった。


「……聞かないほうが、

 楽なときもある」

「うん」

「でも、

 聞かないままでいると、

 後で後悔することもある」

「……そっか」


 彼女は歩く速度を少し落とした。

「翔は優しいね」

「それ、

 あんまり褒め言葉じゃないだろ」

「うん。

 でも、嫌いじゃない」


 沈黙が落ちる。

 重いわけじゃない。

 ただ、

 言葉が次に進めなくなっただけだ。


 俺は、 何度も口を開きかけて、 閉じた。

 聞くなら、今だ。

 

 でも、

 聞いた瞬間に、

 この並んで歩く距離が

 変わってしまう気がした。


 彼女が、

 ふっと息を吐く。

「ねえ、翔」

「なに」

「今日はさ、

 こうやって話せてよかった」


 それは、

 終わりの前に言う言葉みたいで。

 俺は、

 立ち止まった。

「……梨々香」

 名前を呼んだ瞬間、

 自分の声が、

 思っていたよりも低かった。


 彼女が振り返る。

 その顔は、

 いつもと同じで、

 ちゃんと笑っている。

 だからこそ、

 俺は思った。


 ――次は、

 聞かなきゃいけない。

 今日じゃなくてもいい。

 今じゃなくてもいい。


 でも、

 聞くと決めた。


 翔と別れたあと、

 私はしばらく、その場から動けなかった。


 夕方の公園は、

 さっきまであんなに騒がしかったのに、


 今は妙に静かで、

 ベンチに落ちる影だけが長く伸びている。


「……はあ」

 小さく息を吐く。

 ちゃんと笑えていたと思う。

 ちゃんと話せていたと思う。

 変なことも言ってないし、

 余計なことも、たぶん言ってない。

 ――なのに。


 翔の最後の声が、

 何度も頭の中で繰り返される。

「……梨々香」

 名前を呼ばれただけなのに、

 どうしてあんなに、

 胸の奥がきゅっとなったんだろう。


「聞く、って顔だったなあ……」

 誰に聞かせるでもなく、

 そう呟く。

 翔は優しい。

 それは、前から分かっていた。

 でも最近は、

 その優しさが、

 少しずつ形を変えてきている気がする。


 前は、

 何も聞かずに隣にいてくれる優しさだった。

 今は、

 聞く覚悟をしようとする優しさ。


「……困るよ」

 そう思うのに、

 嫌じゃない自分がいる。


 スマートフォンを取り出して、

 画面を見つめる。

 翔とのトーク画面。

 特別な言葉は何もない。

 「またね」とか、

 「おつかれ」とか、

 そういう、当たり前のやり取り。

 

 それが、

 どれだけ大事か、

 私は知っている。

 だからこそ、

 壊したくない。

「言ったらさ……」

 声に出すと、

 現実になってしまいそうで、

 途中でやめる。


 言ったら、

 翔はきっと、全部背負おうとする。

 私の不安も、

 怖さも、

 まだ決まっていない未来も。


 そんなこと、

 させたくない。

 だって、

 それは私の選択だから。

 

 歩き出す。

 家へ向かう道。

 途中で、

 通い慣れた建物が見える。

 病院。

 

 無意識に、

 視線がそっちへ向いてしまう。

「……今日じゃない」

 自分に言い聞かせるように、

 小さく言う。


 今日は、

 翔と話した日だ。

 それだけで、

 十分だと思いたかった。


 家に着いて、

 靴を脱ぐ。

「ただいま」

 返事はない。


 それにも、

 もう慣れてしまった。

 部屋に入って、

 鞄を置く。

 ベッドに腰を下ろすと、

 一気に力が抜けた。


「……翔」

 名前を呼ぶ。

 今度は、

 誰もいない部屋で。

 きっと、

 近いうちに聞かれる。


 それは、 避けられない。

 でも、 聞かれるまでの時間は、

 私が決めていいはずだ。


 そうじゃないと、

 選択した意味がなくなる。


 スマートフォンが震える。

 翔からだ。

「今日はありがとう。

 ちゃんと話せてよかった」

 短い文。

 でも、

 あまりにも翔らしい。

「こちらこそ。

 また話そうね」

 そう返して、

 画面を伏せる。


 ――聞かれたら、どうする?

 答えは、

 まだ出ていない。

 ただ一つ、

 はっきりしていることがある。


 私は、この日常を守りたい。

 たとえ、

 それが一時的なものだとしても。


 翌日の朝は、

 昨日の続きみたいな顔をして始まった。

 空は曇っていて、

 駅までの道も、

 特別な変化はない。

 

 それなのに、

 胸の奥だけが、

 ずっと落ち着かなかった。


 学校に着くと、

 彼女はもう教室にいた。

 いつも通りの席。

 いつも通りの表情。

「おはよう」

「おはよう、翔」

 それだけで、

 少し安心してしまう自分がいる。

 ——まだ、同じ日常の中だ。


 授業中、

 彼女はちゃんとノートを取っていたし、

 先生の質問にも答えていた。

 体調が悪そうにも見えない。

 少なくとも、

 そう見せない。


 昼休み、

 俺は思い切って声をかけた。

「今日、放課後、少し時間ある?」

「うん。あるよ」

 即答だった。

 それが、

 準備されていた答えなのか、

 本当に偶然なのか、

 分からない。

 分からないまま、

 時間だけが進む。


 放課後。

 人の少ない中庭。

 風が吹いて、

 木の葉が擦れる音がする。

「ここ、久しぶりだね」

 彼女が言った。

「前はよく来てたな」

「うん。

 なんか、静かで好きだった」

 少しの沈黙。


 俺は、

 逃げ道を探すみたいに、

 視線を彷徨わせた。


 でも、

 今日は逃げないと決めていた。

「……なあ、梨々香」

「なに?」

 彼女は、

 ちゃんと俺を見る。

 その目が、

 まっすぐすぎて、

 一瞬だけ言葉に詰まる。


「最近さ、

 俺、変なこと考えてて」

「変なこと?」

「うん。

 別に、根拠があるわけじゃないし、

 誰かに何か言われたわけでもないんだけど」

 言葉を選ぶほど、

 時間が伸びる。

「……梨々香が、

 何か一人で抱えてるんじゃないかって」

 彼女の表情は、

 変わらなかった。


 でも、

 瞬きを一つ、

 余計にした。

「それは、

 どういう意味?」

「そのままの意味。

 俺に言わないことがあるなら、

 それが悪いことだとは思ってない」

 少し息を吸う。

「ただ、

 もし俺が、

 何も知らないままでいることで、

 梨々香が一人になるなら……

 それは、嫌だなって思った」


 沈黙。

 風の音が、

 やけに大きく聞こえる。


 彼女は、

 しばらく何も言わなかった。

 それから、

 小さく笑った。


「……翔ってさ」

「うん」

「本当に、

 面倒な優しさするよね」

「よく言われる」

「知ってる」

 彼女は、

 視線を少し落として、

 続ける。

「でもね、

 今は、まだ言えない」

 その言葉は、

 はっきりしていた。

「嘘をついてるわけじゃない。

 隠してる、って言われたら、

 否定はできないけど」


 顔を上げて、

 俺を見る。

「それでも、

 今は、

 言えない」

 俺は、

 うなずいた。


 簡単じゃなかったけど、

 ちゃんとうなずいた。

「……分かった」

 それは、

 妥協じゃない。

 拒否でもない。

「でも」

 俺は続ける。

「聞くのは、

 やめない」

 彼女の目が、

 少しだけ見開かれる。


「今じゃなくていい。でも、いつか必ず聞く」

「……うん」

「そのときは、逃げないでほしい」

 彼女は、

 しばらく黙ってから、

 小さく答えた。

「……約束は、できない」

「それでもいい」


 そう言った瞬間、

 不思議と胸が軽くなった。

 答えをもらえなかったのに。

 真実に触れていないのに。


 でも、 俺はもう、

 何もしないまま隣にいる人間じゃない。

 それだけは、

 はっきりしていた。


 帰り道、

 二人並んで歩く。

 距離は、

 昨日と同じ。

 なのに、

 もう同じじゃない。


 聞くと決めた。

 隠すと決めた。

 その二つが、

 静かに向かい合い始めていた。

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