ずれた音
その日の朝は、少しだけ慌ただしかった。
駅へ向かう道で、
俺は何度も時計を確認していた。
遅刻しそう、というほどではない。
ただ、いつもより余裕がない。
ホームに着いても、
彼女の姿は見えなかった。
「……先、行ったか」
そう思って電車に乗る。
車内を見回しても、いない。
珍しいな、と思った。
でも、たまにはある。
学校に着いて、
教室に入る。
彼女の席は、空いていた。
胸の奥が、ほんの一瞬だけざわつく。
理由を考える前に、チャイムが鳴った。
遅れて、彼女が入ってくる。
少し息が上がっていて、
髪も、いつもより乱れている。
目が合うと、
彼女は小さく手を振った。
それだけで、
俺は何も聞かなかった。
——聞かない。
それは、もう癖みたいなものだ。
授業が始まり、
教室は静かになる。
彼女はノートを開いて、
ペンを走らせている。
でも、
書くスピードが少し遅い。
休み時間。
周囲がざわつく中で、
俺は声をかけた。
「朝、大丈夫だった?」
それだけ。
それ以上は、言わない。
「うん。ちょっとバタバタしただけ」
「そっか」
彼女は、鞄の中を探るふりをして、
俺から視線を外した。
それで、会話は終わった。
昼休み。
今日は、彼女から誘ってきた。
「一緒に、外行かない?」
「いいよ」
校舎を出て、
中庭のベンチに腰を下ろす。
春の空気は、
まだ少し冷たい。
「ねえ」
彼女が、ベンチの背もたれに寄りかかりながら言う。
「翔って、
“変わらないもの”って好き?」
「急だな」
「いいから」
少し考えてから答える。
「……嫌いじゃない」
「そっか」
彼女は空を見上げた。
「私はね、
変わらないものに、
すごく安心する」
言い方が、
どこか丁寧すぎた。
「でも、
変わらないままじゃ、
いられないものもあるでしょ」
「……まあ」
俺は曖昧に頷く。
彼女は、それ以上続けなかった。
代わりに、軽い調子で笑う。
「ごめん、変なこと言った。
今日はなんか、話が散らかる日だ」
「そんな日もある」
「あるよね」
そう言って、
彼女は立ち上がった。
その背中を見ながら、
俺は思う。
言葉は、確かに交わしている。
会話も、続いている。
でも、
どこかで音がずれている。
壊れてはいない。
ただ、
同じリズムじゃない。
それだけのことなのに、
胸の奥が、
少しだけ冷えた。
午後の授業は、いつもより長く感じた。
黒板の文字を追いながら、
俺は何度か、窓の外に目をやった。
雲はゆっくり流れていて、
急ぐ気配なんてどこにもない。
——世界は、ちゃんと回っている。
その安心感に、
少しだけしがみついていた。
授業が終わり、
教室がざわつき始める。
「翔、ちょっといい?」
声をかけてきたのは、
同じクラスの友人だった。
「なに?」
「いや、大したことじゃないんだけどさ」
彼は言葉を選ぶように、
一度、周りを見回した。
「桜井、今日遅刻してたろ」
「ああ」
「最近さ、ああいうの多くない?」
その言い方に、
妙な引っかかりを覚える。
「別に、たまたまだろ」
「まあ、そうなんだけど」
友人は曖昧に笑って、
それ以上は踏み込まなかった。
——踏み込まない。
それが、今日の空気だった。
放課後、
彼女は用事があると言って、
先に帰った。
「ごめんね」
「いいよ」
それだけのやり取り。
教室に残った俺は、
鞄を持ったまま、少し動けずにいた。
廊下に出ると、
別のクラスの生徒たちの声が聞こえる。
「最近さ、
あの人、保健室よく行ってない?」
「分かる。
なんか先生とも話してるの見た」
「体調悪いのかな」
名前は出ていない。
でも、
なぜか足が止まった。
会話は、
それ以上広がらずに途切れる。
笑い声と一緒に、
流れていく。
——ただの噂話だ。
そう思おうとした。
誰かが体調を崩すことなんて、
珍しくもない。
俺は歩き出す。
靴音が、やけに大きく響く。
校門を出ると、
夕方の空が広がっていた。
彼女のいない帰り道。
それも、別に初めてじゃない。
それなのに、
いつもより少し、
長く感じる。
ポケットの中で、
スマートフォンが震えた。
彼女からだった。
「今日は先帰るね。
ちゃんと休むから」
短い文。
でも、
変に丁寧だった。
「了解。
お大事に」
そう返して、
画面を閉じる。
“お大事に”。
その言葉が、
必要な場面だったのかどうか、
考えないようにした。
家に向かって歩きながら、
俺は気づく。
彼女の話を、
誰かから聞くことが増えている。
本人からではなく、
周りから。
それは、
意図したものなのか、
偶然なのか。
分からない。
でも、
静かに、
距離だけが変わっていく。
近づいたわけでも、
離れたわけでもない。
ただ、
同じ場所に立っていない。
そんな感覚が、
胸の奥に残った
夜は、思ったより静かだった。
窓を開けると、
遠くで車の音がするだけで、
人の気配はほとんどない。
机に肘をついて、
俺は何も書かれていないノートを眺めていた。
スマートフォンは伏せたまま。
画面を見れば、
余計なことを考えてしまいそうだったから。
——ちゃんと休むから。
彼女のメッセージが、
何度も頭の中で繰り返される。
それ以上の言葉はない。
だから、
それ以上を想像するのは、
俺の仕事じゃない。
そう思おうとした。
翌日。
朝の空は曇っていた。
駅へ向かう途中、
足取りがいつもより重い。
ホームに立っても、
彼女の姿はない。
電車に乗り、
学校に着く。
教室に入って、
すぐに分かった。
——今日も、いない。
胸の奥が、
音を立てずに沈む。
チャイムが鳴り、
授業が始まる。
先生は、
特に何も言わなかった。
それが、
逆に現実味を帯びさせる。
休み時間。
廊下に出ると、
職員室の前で立ち止まる先生の姿が見えた。
名前が呼ばれる。
——桜井。
それだけ。
それ以上の会話は、
聞こえない。
俺は、
足を止めたまま、
その場を動けずにいた。
聞こうと思えば、
もう少し近づけた。
でも、
それはしてはいけない気がした。
知ってしまえば、
もう戻れない。
そんな予感だけが、
確かにあった。
放課後。
空は、さらに暗くなっていた。
校門を出て、
何となく足が向いた先は、
見慣れた道だった。
気づいたときには、
俺はそこに立っていた。
病院。
自分で選んだわけじゃない。
ただ、
体が覚えていた。
入口の前で、
俺は立ち止まる。
中に入らない。
今日も、入らない。
でも、
ガラス越しに見える白い空間は、
確かにそこにあった。
人が出入りしている。
生きている人たちが、
当たり前みたいに。
——ここに、彼女はいない。
そう言い切れる根拠は、
どこにもない。
でも、
否定できない想像が、
胸の奥で膨らんでいく。
スマートフォンを取り出す。
画面をつけて、
すぐに消す。
連絡を取る理由は、
いくらでも作れる。
でも、
聞きたいことは、
聞いていいことじゃない気がした。
俺は、
何も知らない。
それでも、
何も知らないままでは、
いられないところまで来ている。
病院の前を離れ、
夜の道を歩く。
街灯の下で、
自分の影が長く伸びる。
一人分の影。
それが、
妙に心細かった。
——近づかない。
それが、
これまでの選択だった。
でも、
このまま近づかなければ、
失うものがある。
そんな気がしてならなかった。
答えは、
まだ出ない。
ただ、
胸の奥に残った音だけが、
静かに鳴り続けていた。




