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灰と桜  作者: しろ
7/13

あの日見た景色

 朝の空気は、少し湿っていた。

 窓を開けると、夜の名残みたいな冷たさが部屋に入り込んでくる。

 目覚ましが鳴る前に目が覚めたことに気づいて、

 俺は天井を見上げたまま、しばらく動かなかった。


 昨日と同じ天井。

 昨日と同じ朝。

 それが、ありがたかった。

「……起きるか」

 小さく呟いて、体を起こす。

 制服に袖を通し、鏡の前でネクタイを結ぶ。

 特に変なところはない。

 寝癖も、ひどくない。

 ——大丈夫だ。

 そうやって、自分に言い聞かせる。

 駅へ向かう道。

 いつもの時間、いつもの速度。


 ホームに立つと、

 少し遅れて彼女がやってきた。

「おはよう」

「おはよう」

 声を交わす。

 それだけで、胸の奥が少し緩む。

 電車に揺られながら、

 会話はほとんどなかった。

 でも、それは珍しいことじゃない。

 朝は、だいたいいつもこんな感じだ。


 学校に着いて、

 教室に入る。

 彼女は自分の席へ。

 俺も自分の席へ。

 距離は近いのに、

 話す必要がない距離。

 

 授業が始まる。

 チョークの音が、一定のリズムで続く。

 ノートを取りながら、

 俺はふと、横を見る。


 彼女は真面目な顔で板書を書き写していた。

 ときどき、少しだけ眉を寄せて。

 ——何も変わっていない。

 そう思おうとして、

 ほんのわずかに、違和感が引っかかる。

 でも、それが何かは分からない。

 分からないまま、

 チャイムが鳴った。

 

 休み時間。

 周りが一斉に動き出す。

「次、移動だっけ?」

 俺が声をかけると、

 彼女は顔を上げた。

「うん。理科室」

「そっか」

 それだけの会話。

 でも、彼女は一瞬だけ、

 何か言いたそうな顔をした。

 ——気のせいだ。


 そうやって、

 俺はその表情を見なかったことにする。

 廊下を並んで歩く。

 人の流れに紛れながら。

 肩が触れそうで、

 触れない距離。

 

 話そうと思えば、

 いくらでも話せる。

 でも、

 今日はやめておく。

 何も起きない朝。

 何も壊れない時間。

 それが、

 どれだけ脆いものなのかを、

 まだ俺は知らないふりをしていた。


昼休みのチャイムが鳴ると、

 教室の空気が一気に緩んだ。

 椅子を引く音、

 机を叩く音、

 誰かの笑い声。

 その中で、

 彼女はいつも通り、席に座ったままだった。

「購買、行く?」

 俺が聞くと、

 彼女は顔を上げて、少し考える。

「今日はいいかな」

「そっか」

 理由は聞かなかった。

 それも、特別なことじゃない。


 俺は一人で立ち上がり、

 購買へ向かう列に並ぶ。

 戻ってきたとき、

 彼女は机に肘をついて、

 スマートフォンを見ていた。

「はい」

 パンを一つ、机に置く。

「ありがとう」

 受け取る指先が、少し冷たい。

 彼女は袋を開けて、

 ゆっくりと食べ始めた。

「最近さ」

 彼女が、何気ない調子で言う。

「購買、混むよね」

「まあね」

「前はもっと空いてた気がする」

「時間じゃない?」

「かも」

 それだけの会話。

 意味はない。

 でも、続いている。


 彼女はパンを食べ終わると、

 机の上を片付けた。

「眠い?」

「ちょっと」

「夜更かし?」

「うーん……まあ」

 曖昧な答え。

 でも、それも珍しくない。

 俺は、それ以上踏み込まない。

 

 窓の外を見ると、

 校庭で誰かがボールを蹴っていた。

 空は明るくて、

 昼らしい音がしている。

「午後の授業、だるそうだね」

 俺が言うと、

 彼女は小さく笑った。

「翔もでしょ」

「まあ」

「顔に出てる」

「ひどい」

「事実」

 軽い調子。

 ほんの少しだけ、

 笑い合う。

 その時間が、

 ちゃんと“昼休み”をしている気がした。


 チャイムが鳴る。

「移動だね」

「うん」

 彼女は立ち上がり、

 俺より一歩先に歩き出す。

 背中を見ながら、

 俺は思う。

 ——今日は、普通だ。

 特別なことはない。

 気にする必要もない。

 だから、

 何も考えずに、

 その後ろを歩いた。


 放課後になると、

 校舎の空気は昼間とは違っていた。

 ざわめきがゆっくり薄れていく、あの独特の時間。

 教室の窓から差し込む夕陽が、

 机の天板をオレンジ色に染めている。

「今日はさ、なんか一日が早かったね」

 鞄を閉じながら、

 彼女がぽつりと言った。

「そう?」

「うん。授業、あっという間だった気がする。

 ノートも気づいたら最後のページで、ちょっと焦ったくらい」

「……そんなに集中してたっけ?」

「集中というか……“余計なこと考えないようにしてたら”、かな。

 なんか、そういう日ってあるじゃん。気づいたら時間進んでるやつ」


 彼女は笑ったけど、

 その笑顔の理由までは読み取れない。

「翔は? 今日はどうだった?」

「俺は……普通かな。

 いや、普通以上ってほどじゃないけど、別に嫌なこともなかったし。

 昼休みもなんか落ち着いてた気がする」

「昼休み、よかったよ。なんか、ずっと話してなかったことを話せたというか……」

「え、そんなに話したっけ?」

「話したよ。ちゃんと。

 “購買混むよね”の話とか、“翔の顔に眠そうって書いてた”話とか。

 ああいうの、別に大事な話じゃないけど……ああいうのが一番、好き」

 そう言って、少し照れたように目をそらす。

 彼女が“好き”と言ったのは会話の種類であって、

 俺自身ではないと分かっているのに、

 胸の奥が温かくなる。


「最近さ」

 彼女が廊下に向かって歩き出しながら言う。

「何か話そうとすると、

 つい言葉を選んじゃうことがあってさ。

 変なこと言ったらいけない気がして、喉のところで止まっちゃうの」

「なんだよそれ。俺、そんなに怖い感じ出してた?」

「違うよ。そういう意味じゃなくて……

 どっちかっていうと、自分の問題。

 私、喋りすぎると変に心配させたり、

 反対に“どうしたの?”って聞かれたりするのが……ちょっと苦手で」

「……聞かないよ? 無理には」

「ううん、翔はたぶん聞かない。

 だから逆に、安心して喋れるんだと思う」

 歩いているほうが楽なのか、

 彼女はいつもより饒舌だった。


「いつもより喋るね」

「今日は、喋りたい気分。

 喋って、溜まってたものを少し軽くしたいなって。

 ……わがまま?」

「わがままじゃないよ。

 むしろ……なんか、嬉しい」

「そっか。よかった」

 下駄箱に着くころ、

 夕陽の色は赤に近づいていた。

「翔ってさ」

 と、彼女が急に言う。

「ときどき、すごく真面目な顔するよね。

 今日の授業中とかもさ、板書見てるんだけど、

 なんか別のこと考えてるみたいな。

 深いところに潜っていくみたいな顔」

「……そんな顔してた?」

「してた。

 でも、そういうところ、嫌いじゃないよ。

 ちゃんと考える人だなって思う」

 彼女は靴を履き替えながら、

 ふっと微笑んだ。

「翔は翔でいいよ。

 変に背伸びしたり、急に強がったりしなくていい。

 私、そういうの苦手だから。

 “翔が翔じゃなくなる”の、耐えられない」


 その言葉だけは、妙に心に残った。

「……そんな簡単に変わらないよ、俺は」

「うん。変わらなくていい。

 そのままで、ちゃんと近くにいてくれたら」

 

 外に出ると、夕暮れの風が吹き抜けた。

 街の音が静かで、二人で歩く足音だけが響く。

「帰り、ゆっくり歩こうよ」

 彼女が言った。

「急がなくてもいいでしょ?

 この時間、なんか好きなの。

 あったかいような、冷たいような……今日が終わるって感じがして」


 俺たちは並んで歩き出す。

 話すことが増えた分だけ、沈黙が心地よい。

 風が、春に変わろうとしている匂いを運んできた。

 

 この帰り道を、

 何度でも歩ける気がした。

 ——本気で、そう思っていた。

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