寄り道
翌日は、特別なことのない朝だった。
目覚ましが鳴って、制服に袖を通して、昨日と同じ靴を履く。
変わったことといえば、
靴ひもを結ぶのに、少しだけ時間がかかったことくらいだ。
「……よし」
玄関を出る。
空は薄く曇っていて、雨が降るほどでもない。
駅までの道を歩きながら、
俺は何度もポケットの中のスマートフォンを触っていた。
別に、連絡が来る予定はない。
ただ、確認したくなる。
画面をつけて、消して。
それを何度か繰り返す。
「落ち着けって」
小さく呟いて、自分に言い聞かせた。
学校では、いつも通りの時間が流れた。
授業。休み時間。どうでもいい雑談。
友人が何か面白い話をしていた気がするけど、
内容はほとんど覚えていない。
放課後。
昇降口で靴を履き替えていると、彼女が声をかけてきた。
「一緒に帰ろ」
「うん」
それだけで、胸の奥が少し緩む。
並んで歩き出す。
昨日と同じ道。
同じ景色。
「今日は、部活ないの?」
「うん。今日はまっすぐ帰る」
「そっか」
会話は、それきりだった。
でも、気まずさはない。
しばらく歩いて、分かれ道に差し掛かる。
ここをまっすぐ行けば、駅。
右に曲がれば、商店街。
いつもなら、迷わない。
「……あ」
俺は、思わず立ち止まった。
「どうしたの?」
彼女が振り返る。
「いや、その……」
言葉を探して、少し間が空く。
「今日さ、ちょっと寄り道しない?」
自分で言っておいて、少し驚いた。
本当に、口から出た。
「寄り道?」
「うん。すぐ終わるやつ」
彼女は、ほんの一瞬だけ考えてから、微笑った。
「いいよ」
その答えに、なぜか胸が痛んだ。
商店街に足を向ける。
目的地は、決めていない。
——嘘だ。
本当は、決めている。
昨日見た文字。
駅前の掲示板。
頭の中から、消えてくれない言葉。
でも、それを口に出す勇気はなかった。
「最近さ」
彼女が、先に話し始める。
「翔、ちょっと変じゃない?」
「え」
「元気そうなのに、どこか違う」
「気のせいじゃない?」
「そうかな」
彼女は、それ以上追及しなかった。
それが、余計に胸に引っかかる。
商店街の端が見えてくる。
その先にある建物を、俺は見ないようにしていた。
白くて、無機質で、
やけに目立つ建物。
病院。
足が、自然とそちらへ向かう。
彼女は、何も言わない。
ただ、隣を歩いている。
——ここまで来たら。
俺は、立ち止まった。
「……ごめん」
「なに?」
「やっぱ、今日はここまででいい」
言い訳は用意していない。
それでも、彼女は優しく頷いた。
「分かった」
責めない。
聞かない。
その態度に、少しだけ救われる。
でも同時に、
逃げ場がなくなった気もした。
別れ際、彼女は言った。
「無理しないでね」
「……うん」
彼女が去っていくのを見送りながら、
俺は病院の入口を見つめていた。
入るつもりは、まだない。
ただ、
ここに“ある”という事実を、
確認したかっただけだ。
それでも。
胸の奥で、
何かが静かに、動き始めていた。
彼女と別れてから、俺はしばらくその場に立ち尽くしていた。
病院の正面入口。自動ドアが開いては閉じ、閉じては開く。
中から出てくる人の顔は、皆どこか似ていた。
疲れているのに、感情を表に出さない顔。
——見なければいい。
——今日は帰ればいい。
そう思っているはずなのに、足は動かなかった。
「……ちょっとだけ」
自分に言い訳をして、俺は自動ドアの前に立つ。
近づくと、機械的な音とともに扉が開いた。
空気が変わる。
外よりも少し冷たくて、消毒液の匂いがする。
受付の前には人が並び、
待合の椅子には、静かに座る人たち。
誰も騒がない。
誰も泣かない。
それが、逆に怖かった。
壁に貼られた案内図。
診療科の名前が、無機質な文字で並んでいる。
俺は、それを一つひとつ読むふりをしながら、
本当は何も頭に入っていなかった。
聞こえてくるのは、足音と、アナウンスの声だけ。
「◯番の方、診察室へどうぞ」
名前は呼ばれない。
番号だけが、淡々と処理されていく。
——ここでは、誰も特別じゃない。
その事実に、なぜか少し安心してしまう自分がいた。
椅子に腰を下ろす。
座ってしまったら、立ち上がる理由がなくなる気がして、
俺はすぐに立ち上がった。
何をしに来たんだ。
本当に。
スマートフォンを取り出す。
検索画面を開いて、また閉じる。
調べたいわけじゃない。
知りたいわけでもない。
ただ、
“ここに来た”という事実だけが、
頭の中で重くのしかかっていた。
廊下の奥から、ストレッチャーが運ばれてくる。
白いシーツ。
顔は見えない。
付き添いらしい人が、後ろを歩いている。
俯いたまま、何も言わない。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
——死。
そんな単語が、
唐突に浮かんで、すぐに打ち消した。
違う。
ここは、生きる場所だ。
そう思おうとするほど、
その言葉は現実味を帯びてくる。
俺は、病院を出た。
外の空気が、やけに軽く感じる。
さっきまでの静けさが嘘みたいだった。
歩きながら、ポケットの中で手を握る。
爪が食い込む感触が、確かに“生きている”と教えてくれる。
「……変なの」
誰に向けるでもなく、呟いた。
たった数分。
それだけで、世界の見え方が少し変わる。
彼女の顔が、浮かぶ。
いつも通りの笑顔。
何も隠していないような、あの表情。
——いや。
隠している、という言い方は違う。
彼女は、
ただ“守っている”だけだ。
何を、とは分からない。
でも、
その優しさが、
今は少しだけ、怖かった。
俺は、歩き続けた。
答えを出すためじゃない。
ただ、
立ち止まらないために。
夕方の空は、思ったよりも低かった。
雲が垂れ下がっているように見えて、手を伸ばせば触れられる気がする。
家とは逆方向に、俺は歩いていた。
理由は考えない。
考えた瞬間、足が止まりそうだったから。
住宅街の路地。
洗濯物が揺れている。
どこかの家から、夕飯の匂いが流れてくる。
それらは全部、
当たり前の風景だ。
当たり前で、
壊れにくくて、
ずっと続くものだと、
無意識に信じてしまう景色。
——本当に?
胸の奥で、小さな疑問が浮かぶ。
声にするほど大きくはない。
でも、確実にそこにある。
俺は立ち止まり、
電柱の影の中に身を置いた。
さっきまでいた病院の白さが、
頭から離れない。
人の声はあった。
人の気配もあった。
それなのに、
あそこはひどく静かだった。
生きている人間が集まっているはずなのに、
生きている実感だけが、
不自然なほど薄い場所。
——俺は、ああいう場所を知っている。
理由は分からない。
経験した覚えもない。
それでも、
人の生と死に対してだけは、
昔から妙に敏感だった。
彼女の顔が浮かぶ。
笑っている。
困ったように目を伏せる。
何も言わずに、隣にいる。
その全部が、
当たり前の光景だと思っていた。
——守っている。
この前浮かんだその言葉が、
もう一度、胸に落ちてくる。
彼女は、
何かを隠しているのではない。
何かを「背負っている」。
その可能性に気づいてしまった瞬間、
俺は自分がひどく臆病な人間だと知った。
知りたくない。
壊したくない。
だから、
冗談を言って、
日常に戻ろうとした。
でも。
病院の前で立ち止まった時、
俺は確かに選んだ。
見ないことを。
聞かないことを。
それは逃げだ。
そして、
逃げると決めた人間だけが、
逃げている最中に「覚悟」を持つ。
ポケットの中で、
スマートフォンが指に触れる。
今日は、調べない。
名前も、理由も、真実も。
ただ、
彼女のそばにいる。
それだけを選ぶ。
「……大丈夫」
誰に向けた言葉かも分からないまま、
小さく呟いた。
空は、相変わらず低い。
でも、さっきより少しだけ、
前に進める気がした。
知らないまま、
隣に立つ。
それが、
この日の俺が下した、
唯一の決定だった。




