隠された温度
彼女の様子がおかしい、と確信するほどの出来事があったわけじゃない。
ただ、ほんの些細なズレが、いくつも積み重なっている。
連絡の頻度が減ったとか、会う時間が短くなったとか、
そういう分かりやすい変化ではない。
むしろ逆だった。
彼女は以前と同じように笑い、同じように気遣い、
同じように「大丈夫」と言った。
だからこそ、違和感は消えなかった。
放課後、校門を出たところで彼女を見つけた。
夕方の光が校舎を斜めに照らしていて、影がやけに長い。
「待った?」
声をかけると、彼女はすぐにこちらを向いた。
「ううん、今来たところ」
即答だった。
少しだけ早すぎる返事。
俺は、そのことを口に出さない。
代わりに隣に並んで歩き出す。
歩幅は合っている。
距離も、いつも通り。
それなのに、
彼女の体温だけが、少し遠い気がした。
「今日、部活どうだった?」
「普通だよ。特に何もない」
“普通”という言葉が、最近やけに増えた気がする。
何も起きていないことを強調するみたいに。
俺は頷きながら、前を見たまま言う。
「そっか」
本当は、その先を聞きたかった。
何が普通なのか。
何が、何もないのか。
でも、聞かない。
彼女は、聞かれたくない空気を出していない。
むしろ、穏やかだ。
だから、踏み込む理由がない。
理由がないのに踏み込むのは、
ただの疑いだ。
それをしたくなくて、
俺は黙って歩いた。
通学路の角にある小さな公園を通り過ぎる。
ブランコが風に揺れて、きぃ、と短い音を立てた。
「……最近さ」
不意に、彼女が口を開く。
俺は一瞬、身構えた。
「なに?」
「夜、冷えるから。ちゃんと上着着なきゃだめだよ」
それだけだった。
拍子抜けするほど、いつも通りの心配。
俺の生活を気にかけてくれる、優しい言葉。
なのに。
「ああ、うん。気をつける」
そう答えながら、胸の奥がざわついた。
彼女は、俺の体調を気にする。
生活を気にする。
未来を気にする。
なのに、
自分の話だけをしない。
それが、はっきりと形を持った瞬間だった。
俺は彼女の横顔を見る。
夕暮れの光が、頬の輪郭を柔らかく縁取っている。
変わらない。
何も、変わっていない。
……はずなのに。
気づいてしまった以上、
もう見ないふりはできなかった。
彼女が何かを隠していることを。
それが、俺のためなのか。
それとも、俺には関係のないことなのか。
その境界線に、
俺は立ってしまっている。
駅前の通りは、夕方になると人が増える。
制服のまま寄り道をする学生、仕事帰りの大人、買い物袋を提げた人たち。
それぞれが、それぞれの生活に戻っていく途中だ。
彼女と歩いていると、その流れの中に自然と溶け込める。
特別なことは何もしていないのに、
世界が少しだけ穏やかになる。
その感覚が、俺は好きだった。
「ね、あそこ寄っていかない?」
彼女が指さしたのは、小さな文房具店だった。
昔からある店で、品揃えも特別いいわけじゃない。
「珍しいな」
「ちょっと、見るだけ」
“見るだけ”という言い方が、どこか慎重だった。
店内は静かで、紙の匂いがする。
棚の間を歩く彼女の背中を、少し離れたところから眺める。
ペンを手に取って、戻して。
メモ帳を開いて、閉じて。
選ぶというより、確かめているみたいだった。
「何か探してるの?」
そう聞くと、彼女は一瞬だけ視線を泳がせてから、笑った。
「ううん、なんとなく」
その“なんとなく”が、
最近は引っかかる。
レジの近くで、彼女は店員と短く言葉を交わした。
聞こえてきたのは、ほんの一部だけ。
「……それ、取り寄せになりますか?」
店員が何か答え、彼女は小さく頷く。
「じゃあ、大丈夫です。ありがとうございます」
買わずに、店を出る。
「欲しいものあったんじゃないのか?」
歩き出してから、そう聞いた。
「うーん……今じゃなくていいかなって」
理由はそれだけ。
彼女は歩く速度を少しだけ上げた。
俺は、半歩遅れてついていく。
その距離が、やけに気になった。
駅の改札が見えてきたころ、
後ろから名前を呼ばれた。
「桜——」
呼び捨てにしかけた声が、途中で止まる。
振り返ると、彼女の知り合いらしい女性が立っていた。
年上に見える。
少し疲れた表情。
「久しぶり。今日は一緒じゃないの?」
女性は、俺の方を一瞬だけ見てから、彼女に言った。
「……今日は、これから病院?」
空気が、ほんの一瞬だけ固まった。
彼女は間を置かずに答える。
「ううん、今日は違うよ」
声は落ち着いている。
表情も、自然だ。
「そっか。じゃあ、またね」
女性はそれ以上何も言わず、去っていった。
彼女は、何事もなかったように前を向く。
「知り合い?」
「うん、近所の人」
それだけで会話は終わった。
俺の胸の奥で、
何かが小さく音を立てた。
病院。
その言葉が、頭の中で反響する。
問い詰めるほどの材料じゃない。
偶然だ。
聞き間違いかもしれない。
それでも、
さっきの文房具店、
取り寄せ、
“今じゃなくていい”。
点と点が、勝手につながろうとする。
俺はそれを、必死で止めた。
彼女は隠している。
でも、それは俺を拒んでいるわけじゃない。
そう信じたい。
改札の前で、彼女は立ち止まった。
「今日はここまでだね」
「……ああ」
彼女は少し迷うようにしてから、
いつもより短く手を振った。
その仕草が、
なぜか胸に残った。
別れたあと、
俺はしばらく改札の前に立ち尽くしていた。
知らない方がいいことが、
この世にはある。
それを分かっていながら、
俺はもう、
“知らない側”に戻れなくなっていた。
家に帰っても、すぐに眠れなかった。
ベッドに横になり、天井を見つめる。
彼女の声。
歩く速度。
文房具店での仕草。
駅前で聞こえた、あの一言。
考えないようにしても、
頭の中で勝手に再生される。
——病院。
その言葉を、無理やり別の意味に置き換えようとする。
誰かのお見舞いかもしれない。
用事があるだけかもしれない。
それでいい。
そうであってほしい。
スマートフォンが、枕元で静かに光った。
彼女からのメッセージだ。
「今日はありがとう。気をつけて帰ってね」
いつも通りの文面。
絵文字も、句読点の位置も、変わらない。
俺はしばらく画面を見つめてから、
短く返事を打った。
「こちらこそ。おやすみ」
送信して、
端末を伏せる。
彼女は、変わっていない。
少なくとも、俺に見せる部分は。
だからこそ、
もしここで踏み込めば、
何かが壊れる気がした。
信頼かもしれない。
今の距離かもしれない。
あるいは、彼女が必死に守っている何か。
それを壊す権利が、
自分にあるのかどうか。
答えは出ない。
ベッドから起き上がり、
カーテンを少しだけ開けた。
夜空に、月が浮かんでいる。
薄い雲がかかっていて、輪郭がぼやけている。
——あの丘から見た月と、同じだ。
思い出したくないのに、
自然と浮かぶ。
あの場所。
あの夜。
彼女が、少しだけ黙った時間。
俺は、自分が怖くなった。
彼女の秘密が怖いんじゃない。
それを知った先の自分が、怖い。
止めたいと思うかもしれない。
縋りつくかもしれない。
「俺を選んでほしい」と言ってしまうかもしれない。
それは、彼女が一番嫌うことだ。
分かっている。
分かっているからこそ、
何も聞かないという選択をした。
——今は。
スマートフォンを手に取り、
彼女の名前が表示される画面を見つめる。
調べようと思えば、調べられる。
聞こうと思えば、聞ける。
でも、今日はしない。
俺は深く息を吸って、
端末を置いた。
知らないふりをする。
信じるふりをする。
それが、
彼女の隣にいるための、
唯一の方法だと思ったから。
この選択が、
正しいのかどうかは分からない。
ただ一つだけ、確かなことがある。
俺はもう、
彼女の人生に何も起きていないなんて、
思えなくなってしまった。
それでも、
踏み込まない。
今夜は、まだ。




