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灰と桜  作者: しろ
3/3

違和感

 変わらない、と思っていた。


 朝の電車の混み具合も、窓に映る自分の顔も、隣に立つ彼女の距離も。


 付き合う前と、付き合った後で、何かが大きく変わった感覚はない。

 

それなのに。


 ほんの少しだけ、何かがずれている気がした。


「おはよう」

 

彼女はいつも通りの声でそう言った。


 眠そうでもなく、無理に明るくもなく、ちょうどいい調子。


「おはよう」


 返しながら、顔を見る。

 

いつもと同じ。

 

表情も、仕草も、何も変わっていない。

 

だからこそ、違和感の正体が分からない。

 

電車が揺れ、つり革が軋む音がする。

 

彼女はスマートフォンを取り出して、画面を確認したあと、すぐに伏せた。

 

メッセージが来た、というほどの動きじゃない。

 

でも、確認する頻度が、少しだけ増えた気がした。

 

気のせいだと思うには、引っかかる。

でも、問いかけるほどの理由もない。


 ——考えすぎだ。


 そう自分に言い聞かせる。

 

彼女は、誰かの感情に寄り添う人だ。

 

忙しくなることも、気にかけることが増えることも、今に始まったことじゃない。

 

それでも、視線が自然と彼女に向かってしまう。

 

学校に着くと、彼女はクラスメイトに呼び止められた。

 

いつも通り、少し立ち止まり、相手の話を聞く。

 

俺はその様子を、少し離れた場所から眺めていた。

 

違和感は、やっぱり説明できない。

 

ただ、彼女の笑顔が、どこか慎重に見えた。

 

守っている、というより、

 

崩さないようにしている。


 昼休み、廊下で偶然すれ違った。


「お昼、一緒にどう?」

 

そう聞くと、彼女は一瞬だけ言葉を探すように視線を逸らした。


「あ、ごめん。今日はちょっと……」


 理由は言わない。


 でも、誤魔化している感じはなかった。


「そっか」

 

それだけで終わる。

 

不満はなかった。

 

本当だ。


 なのに、胸の奥に、小さな空白が残る。

 

今までも、こういう日はあった。


 それなのに、今日はやけに意識してしまう。

 

自分が、彼女の行動を気にしていることに。


 放課後、帰り道で合流したとき、


 彼女はいつもより少しだけ、歩く速度が速かった。


「何かあった?」

 

言ってから、後悔した。


 探るつもりはなかったのに、声に出してしまった。


「ううん。何も」

 

即答だった。

 

迷いのない声。

 

それ以上、何も言えなくなる。


 嘘だとは思わない。

 

でも、全部でもない気がした。

 

その感覚を、どう扱えばいいのか分からず、

 

俺はただ、彼女の隣を歩いた。


 夕方の空は澄んでいて、

 

何も起こらない一日が、静かに終わろうとしていた。

 

それが、少しだけ、怖かった。


 帰り道の途中、彼女は足を止めて自販機の前に立った。

 

小銭を探す指先が、少しだけ焦っているように見えた。


「飲む?」


 そう言って、こちらを見る。


 声音はいつもと変わらない。


「ありがとう」

 

受け取った缶は、まだ少し冷たかった。

 

季節が移り始めていることを、掌で思い出す。

 

彼女は自分の分を開けて、一口だけ飲んだあと、すぐにキャップを閉めた。


 飲み干さないところも、特に珍しくない。

 

それでも、その仕草がなぜか気になった。

 

俺は、彼女のことをよく知っていると思っていた。


 少なくとも、誰かよりは。

 

でも、それが思い込みだった可能性に、最近になって気づき始めている。


「……最近、忙しい?」

 

何気ないつもりで聞いた。

 

答えがどうであれ、受け止める準備はしていたはずだった。


「うん、ちょっとね」

 

彼女はそう言って、曖昧に笑った。

 

詳細を語らない笑顔。


 隠している、というより、


 話す必要がないと判断している顔だった。


 それが、妙に引っかかる。

 

彼女はいつも、誰かの事情を尊重する。

 

 踏み込まないことも、思いやりだと知っている人だ。

 

 だったら、俺も同じように、踏み込まない方がいい。


 頭では分かっている。


 それでも、胸の奥で、違う声がする。


——知りたい。

 

——置いていかれたくない。


 そんな感情が、自分の中にあることに、驚いた。


 俺は、彼女の人生の中心にいたいわけじゃない。

 

少なくとも、そう思っていた。

 

でも、彼女の中に

 

「俺の知らない何か」があると分かった瞬間、

 

それが急に不安になる。


 依存、という言葉が頭をよぎる。


 すぐに振り払う。


 そんな大げさなものじゃない。

 

ただ、恋人として、自然な感情だ。

 

そう言い聞かせるほど、

 

自分の心が言うことを聞かなくなる。


 横断歩道の信号が赤に変わり、二人は並んで立ち止まった。


 車のライトが流れ、夜の気配が濃くなる。


 彼女は、ふっと息を吐いた。


 疲れているようにも、安心しているようにも見える。


「……ね」


 彼女が口を開く。


「なに?」


「最近、寒くなったね」


 拍子抜けするほど、普通の話題だった。


「そうだな」


「風邪ひかないようにね」


 それだけ言って、彼女は前を向く。


 信号が青に変わった。


 心配されているのは分かる。


 気遣いも、本物だ。


 だからこそ、


 それ以上を聞けなくなる。


 彼女は、隠している。


 でも、それは俺を遠ざけるためじゃない。


 きっと、守ろうとしている。


 誰かを。

 

あるいは、自分自身を。

 

その“誰か”の中に、


 俺が含まれているのかどうか。


 それが、分からない。

 

歩きながら、

 

自分の感情が、少しずつ輪郭を持ち始めているのを感じた。


 不安。

 独占欲。

 依存。

 

どれも、まだ名前をつけるには早い。


 でも、確実にそこにある。


 そしてその中心に、

 

彼女がいることだけは、はっきりしていた


別れ道に差しかかると、彼女は自然な動きで足を緩めた。


 夕方から夜へ切り替わるその境目の時間帯は、いつも少しだけ心許ない。


「じゃあ、また明日」


 いつも通りの言葉。


 いつも通りの声。


「うん、また明日」


 返しながら、俺は彼女の表情を探してしまう。


 変わったところは、何もない。


 少し疲れているようにも見えるし、そうでないようにも見える。


 どちらとも取れる曖昧さ。

 

それが、今の俺にはやけに重かった。


 彼女は手を振って、歩き出す。


 背中が少しずつ遠ざかっていく。


 呼び止めることはできた。


 聞こうと思えば、聞けた。


 最近どうしたのか。


 何を抱えているのか。


 俺に言えない理由は何なのか。


 喉の奥まで言葉は来ていた。

 

でも、最後の一歩が踏み出せない。


 踏み込んで、

 

もし彼女が困った顔をしたら。


 もし、今の距離が崩れたら。


 それを想像するだけで、胸が締めつけられる。

 

俺は、彼女を信じたいと思っている。


 同時に、

 

彼女がいなくなる可能性から、目を逸らしたいとも思っている。


その二つが、矛盾なく同時に存在していることに、

ようやく気づいてしまった。


 ——ああ、これは。


 恋人として自然な感情だと、


 ずっと自分に言い聞かせてきた。

 でも、本当は。


 彼女がいない状態の自分を、


 想像できなくなっているだけじゃないのか。


 玄関の灯りが点き、


 彼女は振り返って、もう一度手を振った。

 

その笑顔は、今日一番、いつも通りだった。

 

だからこそ、

 

俺は何も言えなかった。

 

守られているのか、

 

遠ざけられているのか。


 判断する勇気が、なかった。


 彼女が家の中に消え、


 扉が閉まる音が、夜に溶ける。


 俺はその場に立ち尽くし、


 しばらく動けなかった。


 聞かなかったこと。


 見ないふりをしたこと。

 

それが、正しい選択だったのかどうか、



 今はまだ分からない。


 ただ一つ、はっきりしているのは。


 俺の中で、

 

 彼女はもう「隣にいる人」以上の存在になっていた。


 生きている実感を、


 自分の中に探す代わりに、


 彼女の中に置こうとしている。


 そのことに、

 

薄々気づきながら、


 俺は家路についた。


 夜は静かで、


 何も起こらないまま、

 

確実に一日が終わっていく。


 違和感だけを、置き去りにして。

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