気づかないほどに当たり前になってしまった距離
付き合い始めた、という言葉は、どうにも現実味がなかった。
告白をした日も、特別な約束を交わしたわけじゃない。
放課後、いつもの帰り道で、いつもより少し長く立ち止まって、それだけだった。
「……これからも、一緒に帰ろっか」
彼女はそう言って、少しだけ視線を逸らした。
断られるはずがないのに、心臓の音がやけに大きく聞こえた。
「うん」
それだけ返すのが、精一杯だった。
それからの日常は、驚くほど変わらなかった。
朝の時間、同じ電車。
放課後、並んで歩く道。
違うのは、歩幅と、沈黙の質くらいだ。
「今日、数学の小テストあったでしょ」
彼女が先に口を開く。
「ああ……忘れてた」
「顔に出てたよ。『あ、終わった』って」
くすっと笑う声が、すぐ隣から聞こえる。
「そんな顔してた?」
「してた。ちょっと可哀想だった」
「ひどいな」
「でも、嫌いじゃない」
そう言って、彼女は俺の袖を軽くつまんだ。
ただそれだけの仕草なのに、胸の奥が静かに温る。
不思議だった。
誰かに触れられるのは、基本的に苦手なはずなのに、彼女のそれは気にならない。
「寒くない?」
「……少し」
「じゃあ、こっち寄って」
言われるままに半歩近づくと、彼女は何も言わずに歩き続けた。
肩と肩が、ほんの一瞬、触れる。
それだけで、世界が少し静かになる。
「ねえ」
「なに」
「ちゃんと、楽しい?」
不意にそんなことを聞かれて、言葉に詰まった。
「……どうして?」
「なんとなく。無理してたら、嫌だなって」
彼女は前を見たまま言う。
探るような声じゃない。ただ、確かめるみたいな。
「楽しいよ」
嘘じゃなかった。
ただ、その理由が分からなかった。
「そっか」
それだけで満足したみたいに、彼女は微笑った。
人の感情に寄り添うのが上手な人だと思う。
踏み込みすぎない。
でも、離れすぎない。
俺は、自分の感情を説明するのが苦手だ。
言葉にしようとすると、輪郭がぼやけてしまう。
それでも彼女は、待ってくれる。
「今日はさ、何が一番疲れた?」
「……全部」
「ふふ。じゃあ、帰ったら甘いもの食べよ」
「それ、解決になってる?」
「なってる。少なくとも私は元気になる」
その理屈が、なぜか心地よかった。
夕焼けの中、二人の影が並んで伸びていく。
重なりそうで、重ならない距離。
——この時間が、ずっと続けばいい。
そんなことを思った自分に、少しだけ驚いた。
生きている実感は、相変わらず曖昧なままなのに。
彼女の隣にいると、それでいい気がしてしまう。
それが、少し怖かった。
校舎を出ると、空はもう夕方に傾いていた。
昼間の熱を残した風が、コンクリートの匂いを運んでくる。
彼女は少し前を歩いていた。
クラスメイトに声をかけられて、立ち止まる。
そのたびに、相手の目線に合わせて、ほんのわずかに姿勢を変える。
誰かの話を聞くときの癖だ。
笑顔は控えめで、相槌は多くない。
それでも、話しかけられる理由が分かる気がした。
ちゃんと「聞いている」ことが、態度から伝わる。
俺は少し離れたところで待つ。
急かす必要はない。
彼女が、そういう人だと知っているから。
「ごめん、待たせた?」
戻ってきた彼女は、ほんの少しだけ息を弾ませていた。
「大丈夫」
それ以上の言葉はいらなかった。
校門を出て、いつもの道を歩く。
アスファルトに落ちた木の影が、風に揺れている。
自転車のベルの音、遠くの犬の鳴き声。
日常の音が、ひとつひとつ、ゆっくり耳に入ってくる。
彼女の歩幅は一定だ。
誰かに合わせて変わることはあっても、自分のリズムを崩さない。
それが、少し羨ましかった。
俺は、自分の輪郭が曖昧だ。
何が好きで、何が苦手で、どう生きたいのか。
考えようとすると、すぐに霧がかかる。
でも、彼女の隣にいると、その霧が薄くなる気がした。
自分がどうありたいかは分からなくても、
ここにいていいとは思える。
それだけで、十分な気がしてしまう。
彼女が立ち止まり、空を見上げた。
雲の切れ間から、淡い光が漏れている。
「きれいだね」
小さな声だった。
俺も同じ方向を見る。
確かにきれいだった。
でも、それ以上の感想は浮かばない。
「……こういうの、好き?」
彼女が聞く。
「嫌いじゃない」
本当は、どうでもいいと思っているはずの景色だ。
なのに、彼女が見ているものだと思うと、
少しだけ意味を持つ。
彼女は満足そうに頷いた。
誰かの感情に寄り添うこと。
それを特別なことだと思っていないところが、
彼女の一番すごいところだ。
無理をしているようには見えない。
でも、背負っているものがないとも言い切れない。
その境界が、分からない。
問いかけることはできた。
でも、しなかった。
今の距離が壊れるのが、怖かった。
夕焼けが、少しずつ色を失っていく。
影が長くなり、世界が夜に向かっていく。
この時間が終わるのが、惜しいと思った。
それはきっと、
彼女と一緒にいる時間が終わるのが、
怖かったからだ。
気づかないふりをして、
俺は歩き続けた。
家の前で立ち止まると、彼女は一度だけ小さく息を吸った。
夕方と夜の境目の空気が、二人の間に溜まっている。
「……今日も、ありがとう」
何に対しての礼なのかは分からなかった。
一緒に帰ったことか、話をしたことか、それとも
――隣にいたことか。
「こちらこそ」
そう返しながら、胸の奥が微かにざわつく。
別れ際になると、いつもこうだ。
何かを言い忘れているような、でも何を言えばいいのか分からない感覚。
彼女は少しだけ迷うように視線を彷徨わせ、それから俺を見る。
「無理、してない?」
さっきも聞かれた言葉。
それなのに、今度は違って聞こえた。
「……してない、と思う」
そう答えた瞬間、自分でも曖昧だと分かった。
生きている実感が薄いことも、楽しい理由が彼女であることも、全部まとめて飲み込んで、表に出さない。
彼女はそれ以上、追及しなかった。
その優しさが、少しだけ苦しい。
「じゃあ、よかった」
そう言って、笑う。
安心させるための笑顔じゃない。
誰かを信じることを選んだ顔だ。
その信頼を裏切りたくなくて、
でも、同時に縋りついている自分にも気づいてしまう。
彼女がいなければ、俺はこの安心をどこに置けばいいんだろう。
この感情を、生きていると言っていいんだろうか。
「明日も、一緒に帰ろう」
気づけば、そんな言葉が口をついて出ていた。
確認でも、約束でもない。
半ば、祈りに近い。
「うん」
即答だった。
それが、ひどく嬉しくて、ひどく怖かった。
彼女は手を振って、玄関へ向かう。
扉が閉まるまで、視線を外せなかった。
胸の奥で、何かがきしむ。
この時間が終わることが、こんなにも不安になるなんて、思っていなかった。
生きている実感は、相変わらず曖昧だ。
でも、彼女がいない未来だけは、はっきりと想像できなかった。
それは、愛情なのか。
依存なのか。
答えを出すのが怖くて、
俺は夜に染まっていく空を見上げた。
静かに、確実に、
当たり前だった距離が、
俺の生の中心になりつつあることに気づきながら。




