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灰と桜  作者: しろ
15/15

触れられない距離

 朝の空気は、まだ冷たさを残していた。

 灰原翔は、いつもより少し早く目が覚めた。

 理由は分からない。ただ、胸の奥に小さな引っかかりがあって、眠り続けることができなかった。

 スマートフォンを手に取る。

 通知は、何も来ていない。

(……そうだよな)

 昨夜の通話を思い出す。

 待つ、と言った自分の声。

 それを受け止めるように、けれどどこか遠かった彼女の声。

 既読を気にする必要もない。

 連絡を催促する理由もない。

 それでも、指先は無意識に画面をなぞっていた。

 窓を開けると、冷たい風がカーテンを揺らす。

 空は薄い雲に覆われていて、光はあるのに、どこか鈍い。

「……今日、何しよ」

 独り言は、部屋に吸い込まれて消えた。

 学校へ向かう道。

 見慣れた景色のはずなのに、今日は少しだけ輪郭が曖昧に見える。

 人の話し声。

 自転車のブレーキ音。

 コンビニから漂うコーヒーの匂い。

 すべてが確かに“生きている”証拠なのに、

 自分だけが、その流れから半歩ずれている気がした。

(……考えすぎだ)

 そう思おうとしても、思考はすぐに彼女へ戻る。

 桜井梨々香。

 優しくて、誰にでも手を差し伸べるくせに、

 肝心なところでは、自分を見せない人。

 ——見せない、というより。

 “隠す”ことに、慣れすぎている。

 昼休み。

 翔は一人、校舎裏のベンチに腰を下ろしていた。

 風が吹くたび、枯れ葉が転がる。

 その音を聞きながら、ふと気づく。

(俺、前より静かになったな)

 以前なら、きっと不安を誤魔化すために、

 無理にでも彼女に連絡していた。

 大丈夫?

 何してる?

 会えない?

 そうやって、自分の不安を、彼女の存在で埋めていた。

 でも今は、しない。

 しない、というより——

 できなくなった、のかもしれない。

 待つと決めた。

 踏み込まないと、決めた。

 それは、彼女を尊重する選択のはずだった。

 けれど同時に、自分の感情を押し殺す選択でもある。

「……難しいな」

 誰に向けるでもなく、翔は呟いた。

 そのとき、ポケットの中でスマートフォンが震えた。

 一瞬、心臓が跳ねる。

 画面を確認する。

『ごめん、今日は少し体調がよくなくて』

 短い文。

 絵文字も、余計な言葉もない。

 それだけで、胸の奥がざわつく。

『無理しないで。ゆっくり休んで』

 そう返信してから、翔は画面を見つめ続けた。

 送信済みの文字は、正しくて、優等生で、

 でもどこか、他人行儀に見えた。

(……これでいいんだよな)

 問いかけても、答えは返ってこない。

 梨々香の言葉を信じたい。

 でも同時に、信じることが、

 彼女を一人にしてしまう行為なのではないかという不安が、消えない。

 ベンチの上で、翔は深く息を吐いた。

 触れたいのに、触れられない距離。

 近づけば壊れそうで、

 離れれば、もっと壊れそうな関係。

 それでも、物語は進んでいく。

 止まることは、許されない。

桜井梨々香は、カーテンを閉め切った部屋で、天井を見つめていた。

 朝か昼かも曖昧な時間。

 体は重いのに、眠気はもう残っていない。

(……だめだな)

 小さく息を吐く。

 身体の内側に、うっすらとした熱と冷えが同時に居座っている感覚があった。

 スマートフォンは、枕元に伏せたまま。

 画面を見なくても、翔からの返信が来ていることは分かっていた。

 分かっているのに、触れられない。

(今は……だめ)

 自分に言い聞かせるように、心の中で繰り返す。

 連絡を取れば、きっと優しい言葉をくれる。

 無理しないで、って。

 ゆっくり休んで、って。

 それが分かっているからこそ、

 今の自分を見せたくなかった。

 ベッドから起き上がり、ゆっくりと窓に近づく。

 カーテンの隙間から差し込む光は、思ったよりも眩しかった。

 外は、いつも通りの日常だ。

 誰かが歩いて、誰かが笑って、

 世界は、何事もなかったように進んでいる。

(……ずるいな)

 そう思ってしまう自分に、少しだけ自己嫌悪を覚える。

 だって、世界が止まらないことを、

 誰よりも分かっているのは、自分自身のはずだから。

 机の上には、学校のプリントと、

 それとは別に、無機質な封筒が一つ置かれていた。

 白くて、薄くて、

 中に何が入っているかを考えるだけで、喉の奥がきゅっと締まる。

(……まだ)

 梨々香は、封筒に手を伸ばしかけて、止めた。

 今じゃない。

 今、開いてしまったら、

 自分が自分でいられなくなる気がした。

 そのとき、スマートフォンが小さく震えた。

 反射的に、肩が跳ねる。

 画面を開くと、翔からのメッセージが表示されていた。

『無理しないで。ゆっくり休んで』

 それだけ。

 問い詰める言葉も、心配を押し付ける言葉もない。

 梨々香は、しばらくその文字を見つめてから、

 ようやく小さく笑った。

「……ほんと、優しい」

 優しすぎるくらいだ。

 だから、怖い。

 この人は、きっと。

 何も知らなくても、隣に立とうとする。

 それが、どれほど残酷なことかも知らずに。

(……ごめんね)

 謝る相手は、画面の向こうの翔であり、

 同時に、まだ何も言えずにいる自分自身だった。

 指先が、画面の上で止まる。

 何か返さなきゃ。

 返さないと、不自然になる。

『ありがとう。少し休んだら、また連絡するね』

 短くて、いつも通りの文。

 嘘ではない。

 でも、真実でもない。

 送信を押した瞬間、

 胸の奥が、ちくりと痛んだ。

(……聞かれたら)

 もし、正面から聞かれたら。

 どうして最近元気がないのか。

 何を隠しているのか。

 きっと、耐えられない。

 梨々香は、スマートフォンを胸に抱え込む。

 誰かを大切にすることと、

 誰かを巻き込まないことは、

 時々、同じ顔をしてしまう。

 その違いが分からなくなるほど、

 彼女はもう、余裕を失い始めていた。

 窓の外で、風が吹く。

 カーテンが、わずかに揺れた。

 触れたいのに、触れさせられない距離。

 それは、翔だけじゃなく、

 自分自身に対しても、同じだった。

 夕方の空は、色を失いかけていた。

 灰原翔は、帰り道の途中で足を止める。

 理由は特別なものじゃない。ただ、自然と視線がそちらへ向いただけだった。

 駅前の通り。

 人の流れが交差する場所。

 その向こうに、見慣れた後ろ姿があった。

(……梨々香?)

 一瞬、息を止める。

 桜井梨々香は、一人で歩いていた。

 いつもより少し前屈みで、歩幅が小さい。

 声をかけようとして、翔は躊躇した。

(体調、よくないって言ってたよな)

 無理をさせたくない。

 今は、休ませるべきだ。

 そう頭では分かっているのに、

 足は、彼女との距離を詰めていた。

 気づけば、数歩後ろ。

 声を出せば届く。

 手を伸ばせば、触れられる。

 でも、翔は何もできなかった。

 梨々香は、ふと立ち止まる。

 自動販売機の前。

 財布を探すように、バッグを開ける。

 その仕草が、ほんの一瞬、ぎこちなかった。

(……やっぱり)

 胸の奥で、何かが確信に変わる。

 これは、ただの体調不良じゃない。

 でも、じゃあ何だ。

 答えを想像するだけで、怖くなる。

 梨々香は、ペットボトルを手にして、ベンチに腰を下ろした。

 蓋を開けて、一口飲む。

 そのあと、少しだけ、顔を歪めた。

 翔は、もう我慢できなかった。

「……梨々香」

 名前を呼ぶ声は、思ったよりも低く、かすれていた。

 梨々香が、はっと振り返る。

 驚きと、戸惑いと、

 それから一瞬の“諦め”が、彼女の目に浮かんだ。

「翔……?」

「偶然。……たぶん」

 冗談めかして言おうとした言葉は、途中で崩れた。

 二人の間に、気まずい沈黙が落ちる。

「体調、よくないって……」

 言いかけて、翔は言葉を止めた。

 聞くと決めたのは、まだ先のはずだった。

 踏み込まないと、決めたはずだった。

 でも、目の前の彼女は、

 今にも崩れてしまいそうだった。

「……無理、してない?」

 それだけ。

 責めるでもなく、問い詰めるでもなく。

 ただ、確認するような声。

 梨々香は、少しだけ視線を逸らす。

「してないよ」

 即答だった。

 あまりにも早すぎる答え。

 翔は、何も言えなくなる。

 否定する根拠はない。

 信じるしかない。

 でも、信じることが、

 彼女を遠ざける行為になっている気がしてならなかった。

「……そっか」

 それ以上、踏み込めなかった。

 梨々香は、立ち上がる。

 その動きは、やはりどこか重たい。

「ごめんね。今日は、あんまり長く話せなくて」

「……うん」

 引き止めたい言葉が、喉まで来ていた。

 でも、出てこなかった。

 彼女を守りたい気持ちと、

 失うことへの恐怖が、同時に存在していたから。

「じゃあ、また」

 梨々香は、そう言って微笑んだ。

 いつもの、完璧な笑顔。

 だからこそ、翔の胸は痛んだ。

「……また」

 背中を見送る。

 彼女の姿が、人混みに紛れていく。

 その瞬間、翔は思った。

(このままじゃ、だめだ)

 待つことと、見ないふりをすることは、違う。

 踏み込まない優しさが、

 いつか取り返しのつかない距離を作ってしまう。

 彼女の秘密が何であれ、

 それを知る覚悟を、持たなければならない。

 空を見上げると、

 灰色の雲の隙間から、かすかな光が差していた。

 それは、暖かくもなく、

 救いとも言えない、頼りない光。

 それでも。

 翔は、前に進くと決めた。

 触れられない距離を、

 そのままにしておかないために。

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