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灰と桜  作者: しろ
14/15

静かな亀裂

 空は薄く曇っていた。

 雨が降るほどではない。ただ、光が弱く、世界全体が少しだけ色を失っているように見える。

 昼休みの教室で、灰原翔は窓の外を眺めていた。校庭では、数人の生徒がボールを追いかけている。笑い声が、ガラス越しにぼんやりと届く。

 その音を、どこか遠いもののように感じながら、翔は視線を教室の中へ戻した。

 ——桜井梨々香の席は、今日も空いている。

 昨日も、その前の日も、同じだった。

 担任は「体調不良」とだけ告げ、深くは触れなかった。クラスメイトたちも、最初こそ心配していたが、数日も経てば日常に戻っていく。

 それが普通だ。

 学校という場所は、欠けた一つをすぐに“いなかったもの”として処理してしまう。

(……でも)

 翔は、無意識のうちに指先を握りしめていた。

 梨々香は、連絡をくれなくなったわけじゃない。

 メッセージを送れば、既読はつく。

 けれど、返ってくる言葉は短く、どこか距離があった。

『大丈夫だよ』

『心配しないで』

 それだけ。

 以前なら、そんな言葉の裏にある感情を、翔は疑わなかった。

 梨々香はそういう人だ。誰かに心配をかけることを、極端に避ける。

 だからこそ——。

(本当に、大丈夫なのか)

 考え始めると、止まらなくなる。

 自分は、彼女の何を知っているのだろう。

 恋人だと、言葉にできる関係になったはずなのに。

 チャイムが鳴り、午後の授業が始まる。

 教師の声が黒板に反響し、ノートを取る音が教室に広がる。

 翔はペンを動かしながらも、内容はほとんど頭に入ってこなかった。

 梨々香のいない空間が、静かに、しかし確実に、彼の中で重さを増していく。

 ——このまま、何も聞かずにいていいのか。

 その問いだけが、胸の奥で消えずに残っていた。

 放課後の校舎は、昼間よりもずっと広く感じられた。

 人の気配が薄れ、廊下に残るのは足音と、どこかで鳴る部活の掛け声だけ。

 翔は昇降口で立ち止まり、スマートフォンを取り出した。

 画面には、昨日送ったままのメッセージが表示されている。

『今日は少しでも話せる?』

 既読はついている。

 返事は、ない。

(……しつこい、かな)

 そう思って、画面を消そうとして——指が止まった。

 聞かないでいることは、優しさなのか。

 それとも、ただの逃げなのか。

 梨々香は、強い。

 少なくとも、翔の目にはそう映っていた。

 笑うときは誰よりも明るくて、誰かが困っていれば自然と手を差し伸べる。

 自分の弱さを語ることだけは、ほとんどなかった。

(俺は……)

 恋人、なんだよな。

 そう名乗る資格があるなら、踏み込むべき場所もあるはずだ。

 昇降口を出ると、空は夕暮れに差しかかっていた。

 雲の隙間から射す光が、校舎の壁を淡く染めている。

 翔は、家とは逆方向へ足を向けた。

 ——あの丘。

 満月と蛍の話をした、あの場所。

 梨々香が、最後に笑っていた場所。

 坂を登るにつれ、風が冷たくなる。

 草の匂いと、土の湿り気が混ざった空気が肺に入る。

 丘の上には、誰もいなかった。

 ベンチに腰を下ろし、翔は空を見上げる。

 月はまだ姿を見せていない。代わりに、雲がゆっくりと流れていく。

(ここに来れば、何か分かると思ったわけじゃない)

 ただ、じっとしていられなかっただけだ。

 ポケットの中で、スマートフォンが震えた。

 心臓が跳ねる。

 画面を開くと、そこには梨々香の名前があった。

『ごめんね。今、少しだけなら』

 短い文章。

 それでも、胸の奥がわずかに緩む。

『無理しなくていい』

 そう打ちかけて、翔は消した。

 代わりに、ゆっくりと文字を打つ。

『少しでいい。声、聞きたい』

 送信。

 数秒後、着信音が鳴った。

「……もしもし」

 梨々香の声は、いつもより少し低く、静かだった。

「ごめん。遅くなって」

「ううん。大丈夫」

 沈黙が落ちる。

 言葉を探しているのが、互いに分かった。

「学校……どう?」

 翔が、あえて軽く聞く。

「うん。みんな元気そうでしょ」

「……見てないくせに」

「ふふ」

 短い笑い声。

 それが、どこか無理をしているように聞こえて、胸が痛む。

「梨々香」

「なに?」

 名前を呼ぶだけで、少し勇気が要った。

「俺さ……心配してる」

 一拍、間があった。

「……うん」

「理由も分からずに心配するの、嫌なら言わなくていい。でも」

「……」

 翔は息を吸う。

「一人で抱えなくていいってことだけは、覚えててほしい」

 電話の向こうで、風の音がした。

「……翔って、ずるいよね」

「え?」

「そんな言い方されたらさ」

 梨々香の声が、ほんの少しだけ震ぐ。

「……逃げられなくなる」

 その言葉が、胸に刺さった。

 静かな亀裂は、もう確かに入っている。

 壊れるか、繋ぎ止めるかは——これからだ。

 通話は切れないまま、二人とも言葉を失っていた。

 翔はベンチに座ったまま、空を見上げる。

 雲の切れ間から、ようやく月の輪郭が滲むように現れ始めていた。

「……梨々香」

「うん」

 返事はある。

 でも、その距離は、普段よりずっと遠く感じた。

「俺、踏み込みすぎたかな」

「……ううん」

 即答だった。

 それが、かえって不安を煽る。

「じゃあ、なんでそんな言い方したんだよ」

「……」

 沈黙。

 けれど今度は、逃げるような間じゃなかった。

「ね、翔」

「なに」

「もしさ」

 梨々香は、一度言葉を切った。

 息を整える音が、微かに聞こえる。

「もし、どうしても言えないことがあったら」

「……」

「それでも、隣にいてくれる?」

 問いかけは、柔らかいのに、重かった。

 翔は、すぐには答えられなかった。

 言葉にしてしまえば、引き返せなくなる気がしたからだ。

 それは、彼女を縛ることになるかもしれないし、

 同時に、自分自身も縛ることになる。

 でも——。

「……いるよ」

 翔は、はっきりと言った。

「理由が分からなくても」

「……」

「全部知らなくても、隣にはいる」

 月が、雲から完全に姿を現す。

 淡い光が、丘を静かに照らした。

「それってさ」

「うん」

「……ずるいよ」

 梨々香は、そう言って小さく笑った。

「そんなふうに言われたら」

「……」

「信じちゃうじゃん」

 胸の奥が、きゅっと締め付けられる。

「信じてほしい」

「……」

 また、少しの沈黙。

「……ありがとう」

 その一言は、今まで聞いたどの「ありがとう」よりも、か細かった。

「でもね、翔」

「なに?」

「今は……まだ、言えない」

 はっきりとした拒絶ではない。

 でも、確かな線引きだった。

「うん」

「……ごめん」

「謝らないで」

 翔は即座に言った。

「待つ」

 翔は、迷いなくそう言った。

「無理に聞かない」

「……」

「でも、逃げもしない」

 言葉にして初めて、自分が覚悟を決めていることに気づく。

 それは勇気というより、もう戻れない場所に足を踏み入れた感覚に近かった。

「……翔ってさ」

「うん」

「ほんとに、変な人」

 梨々香の声には、微かな笑いと、涙の気配が混じっていた。

「前は、もっと自分のことでいっぱいいっぱいだったのに」

「そうだった?」

「うん。自分がどう感じてるか、分からない顔してた」

 図星だった。

 生きている実感を掴めずに、

 ただ彼女の存在にしがみつくように呼吸していた、あの頃の自分。

「……今も、完璧じゃない」

「知ってる」

「でも」

 翔は、ゆっくりと言葉を選ぶ。

「君が何かを隠してるって思うたびに」

「……」

「それでも一緒にいたいって思う自分がいる」

 電話の向こうで、風の音が一瞬強くなる。

「……怖くないの?」

「怖いよ」

 即答だった。

「怖いけど」

「……」

「それ以上に、失いたくない」

 梨々香は、しばらく何も言わなかった。

 その沈黙は、拒絶ではなく、必死に何かを抑えている間だった。

「……ねえ、翔」

「なに」

「私ね」

 言いかけて、止まる。

 それだけで、十分だった。

 彼女の中に、確かに“言葉にできない何か”がある。

 それを、翔はもう疑っていない。

「……やっぱり、今は言えない」

「うん」

「でも」

 声が、ほんの少しだけ強くなる。

「嘘はついてない」

「……」

「翔のこと、大切に思ってる気持ちだけは、本当」

 その言葉が、胸に静かに落ちる。

「それで十分だよ」

「……ほんと?」

「ほんと」

 月明かりの下、翔は一人で頷いた。

 名前のない不安。

 見えない未来。

 それでも、確かに繋がっている今。

「……帰るね」

「うん。気をつけて」

「翔も」

 通話が切れる。

 丘には、再び静けさだけが残った。

 翔はしばらく立ち上がれず、月を見上げたまま息を整える。

(聞く覚悟はできた)

(でも——聞く“時”じゃない)

 それを理解できたことが、

 少しだけ大人になった証のように思えた。

 風に揺れる草の音が、ささやく。

 この恋は、まだ壊れていない。

 けれど、確かに試され始めている。

 灰のように脆い心と、

 桜のように優しすぎる彼女。

 静かな亀裂は、今もそこにある。

 それでも翔は、目を逸らさなかった。

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