時には立ち、時には待つ
朝は、何事もなかったみたいにやってきた。
カーテンの隙間から差し込む光。
アラームの音。
机の上に置いたままの教科書。
昨日、病院にいたことが
嘘みたいだった。
でも、体のどこかが確実に違う。
呼吸の深さ。
瞬きの回数。
考え事をする時間。
全部、少しずつ変わっている。
スマートフォンを手に取る。
通知は、まだ来ていない。
——既読も、ない。
それでいいと、
自分に言い聞かせる。
彼女は、いつも通りの時間を生きているはずだ。
それを、壊す権利は俺にはない。
学校へ向かう道。
見慣れた風景が、やけに鮮明に見える。
自販機の前で立ち止まる人。
信号待ちで足踏みする学生。
朝のニュースを流す店先のテレビ。
——みんな、生きている。
そんな当たり前のことが、急に重く感じられる。
「おはよ」
背後から、聞き慣れた声。
振り向くと、彼女がいた。
桜井梨々香。
変わらない笑顔。
変わらない距離。
……変わらない、
はずだった。
「おはよう」
声が、ちゃんと出た。
それだけで、少し安心する。
「昨日さ、ちゃんと眠れた?」
何気ない問い。
でも、俺は一瞬だけ
言葉に詰まった。
「……まあ、それなりに」
「そっか」
彼女は、それ以上踏み込まない。
その優しさが、胸に引っかかる。
「翔は?」
「俺?」
問い返すと、彼女は少しだけ考えてから言った。
「最近、考え事多そうだから」
見抜かれている。
でも、全部は見せていない。
その距離感が、今はありがたかった。
「……考え事ってほどでもない」
「ほんと?」
「ほんと」
そう答えると、彼女は小さく笑った。
「ならいいや」
歩き出す。
並んで歩くこの時間が、どれだけ貴重かを
俺はもう知ってしまっている。
校門が見えてきたころ彼女がふと立ち止まった。
「ね、翔」
「ん?」
「今日、放課後ちょっと時間ある?」
心臓が、一拍遅れて鳴る。
「あるけど……」
「よかった」
それだけ言って、また歩き出す。
理由は、言わない。
でも、その背中から伝わってくるものがある。
——彼女は、もう動き始めている。
俺は、その一歩遅れた位置で、
ただ隣を歩いている。
変わらない朝。
変わらない会話。
その裏側で、取り返しのつかない何かが静かに
進んでいることを、俺たちはまだ口にしない。
放課後の校舎は、昼間よりも音が少ない。
廊下に響く足音。
遠くの部活の声。
窓の外で揺れる木々。
全部が、少しずつ遠い。
「……こっち」
桜井梨々香は、そう言って歩き出した。
向かったのは、校舎の裏手。
人通りの少ない、古い渡り廊下の端。
夕方の光が、床に斜めの影を落としている。
「ここ、前に来たことあったよね」
「文化祭の準備のとき」
「そうそう」
懐かしそうに笑う。
その表情が、あまりにも自然で一瞬だけ、
何も知らなかった頃に戻れそうになる。
でも、戻れない。
俺だけが、戻れない。
「……何の話?」
聞くと、彼女は立ち止まり、
手すりに軽く寄りかかった。
「大した話じゃないよ」
そう言いながら、空を見上げる。
「ただ、少しだけ翔と話したくて」
それだけで、胸が締めつけられる。
「最近さ」
彼女は、独り言みたいに続ける。
「毎日が、ちゃんと進んでる感じがして」
「進んでる?」
「うん」
彼女は、ゆっくり頷く。
「前は、ただ流れてただけなのに」
その言葉に、違和感を覚える。
進んでいる、という言い方。
それは、未来に向かっている人の言葉だ。
でも——
彼女の未来は、
今、切り取られようとしている。
◇
(梨々香)
翔は、何も聞かない。
聞かないけど、見ている。
分かっている。
それが、痛いほど伝わってくる。
それでも、何も言わないで
隣にいてくれる。
——ずるいな、って思う。
優しすぎる。
だからこそ、決めたことを揺らがせたくなる。
でも、揺らいじゃいけない。
「翔さ」
名前を呼ぶ。
「もし、私がさ」
一瞬、言葉が詰まる。
でも、続ける。
「すごく遠くに行くって言ったら、どうする?」
比喩。
でも、本当の質問。
翔はすぐには答えなかった。
その沈黙が、答えみたいだった。
「……待つ」
ようやく、そう言った。
「どれくらい遠く?」
「分かんない」
「分かんないなら、なおさら待つ」
迷いのない声。
胸が、ぎゅっと縮む。
「……待たせるの、嫌だな」
「嫌でも、勝手に待つと思う」
苦笑まじりに言われて、少しだけ笑ってしまう。
笑ってしまった自分が、嫌になる。
◇
沈黙が落ちる。
夕焼けが空を赤く染めていく。
「ね、翔」
「ん?」
「私、今の時間好きだよ」
「……俺も」
それは、本心だった。
だからこそ怖い。
この時間が、終わることを俺は知っている。
彼女は、手すりから離れて、
一歩こちらに近づいた。
「だから」
言葉を切る。
「……ちゃんと、覚えておいて」
その言い方が、まるで置き土産みたいで。
「何言ってんだよ」
軽く返そうとして、失敗した。
声が、少しだけ震える。
「覚えなくても、忘れないだろ」
彼女は、それを聞いて少し困ったように笑った。
「そっか」
それ以上、何も言わない。
言えない。
彼女はもう、決めている。
俺は、まだ待っている。
同じ時間を過ごしながら、違う場所に立っている ことが、この距離の正体だった。
帰り道、二人の間に会話はほとんどなかった。
気まずいわけじゃない。
むしろ、心地よい沈黙に近い。
それが、余計に怖かった。
駅前で別れるとき、彼女は立ち止まった。
「じゃあ、また明日」
「うん」
いつもと同じ。
手を振って、背を向ける。
——それだけ。
なのに、足が前に出ない。
彼女の背中を、見送ることしかできない自分が、
ひどく無力に感じられた。
◇
夜。
部屋の電気をつけても、落ち着かない。
ベッドに腰を下ろして、天井を見つめる。
今日の言葉が、頭の中で何度も再生される。
「すごく遠くに行くって言ったら、どうする?」
待つ、と答えた。
即答だった。
迷いも、条件もなかった。
それが正しいと、本気で思っていた。
でも。
待つって、どういうことだ。
何も言われないまま、期限も分からないまま、
ただそこに立ち続けることか。
彼女が戻ってくると、信じ続けることか。
それとも——
戻らない可能性ごと、受け入れることか。
胸が、じわじわと痛くなる。
待つという選択は、優しさでも、覚悟でもある。
同時に、残酷でもある。
相手に決断を委ね、自分は何もしない。
それを、美しいと思っていた。
でも今は、逃げにも見える。
——俺は、彼女の覚悟に甘えているだけ
じゃないのか。
スマートフォンを手に取る。
彼女とのトーク画面。
最後のやり取りは、短い言葉だけ。
「また、会えたら嬉しい」
それに、返事はない。
既読も、ついていない。
分かっている。
今、彼女は別の場所で別の現実と向き合っている。
俺の知らないところで。
それを尊重すると、決めたはずだ。
それでも、胸の奥で小さな声がする。
——このままで、いいのか。
待つだけで、本当に隣に立っていると言えるのか。
目を閉じる。
彼女の笑顔が浮かぶ。
優しくて、強くて、
全部を一人で抱え込もうとする顔。
その隣に、立ちたい。
ただ、待つためじゃなく。
スマートフォンを握りしめる。
まだ、何をするかは分からない。
でも、一つだけはっきりした。
——待つと決めたなら、待つことの重さから
逃げてはいけない。
彼女が進むなら、俺も進まなきゃいけない。
同じ速さじゃなくてもいい。
同じ道じゃなくてもいい。
それでも立ち止まったままでは隣にはいられない。
窓の外を見る。
夜は、静かに深まっていく。
彼女が選ぼうとしている未来がどんな形であれ。
俺はもう、目を逸らさない。
それが、待つと決めた人間の
最低限の覚悟だと思った。




