それでも隣に立つ
指定された場所は、病院だった。
それだけで、胸の奥が重くなる。
白い外壁。
自動ドアの規則的な開閉音。
消毒液の匂い。
どれも、
特別じゃない。
なのに、ここに足を踏み入れた瞬間、
日常から切り離された感覚がした。
受付で名前を告げると、静かな声で案内される。
エレベーターに乗り、数字が一つずつ上がってく。
そのたびに、心臓が少しずつ速くなる。
——まだ、何も聞いてない。
それなのに、もう引き返せない気がしていた。
案内された部屋は、
会議室のような小さな個室だった。
窓はあるが、カーテンは半分閉じられている。
外の光は、柔らかくでも逃げ場がない。
「どうぞ、座ってください」
声をかけたのは昨日電話をしてきた女性だった。
白衣は着ていない。
医師なのか、それとも別の立場なのか分からない。
それが、かえって不安を煽る。
椅子に座ると、
テーブル越しに向かい合う形になる。
距離は近い。
でも、心の距離は測れなかった。
「今日は、突然お時間を取っていただいて
ありがとうございます」
「……いえ」
それだけ答える。
喉が、やけに乾いていた。
「本来であれば、
ご本人からお話しするべき内容です」
前置き。
それだけで、背筋が強張る。
「ですが、状況を考えて、先に知っておいて
いただいた方がいいと判断しました」
——先に。
その言葉が、胸に引っかかる。
「桜井さんのご家族について、すでに少しは
お聞きになっていますか?」
「……病気で、時間があまりないとだけ」
彼女は、静かに頷いた。
「それ以上は?」
「聞いてません」
正確には、聞けなかった。
でも、それを言い訳にはしたくなかった。
彼女は、一瞬だけ視線を落としてから、
口を開く。
「では、ここからは少し、重い話になります」
部屋の空気が、目に見えて沈む。
俺は、膝の上で拳を握った。
逃げないと、決めたから。
「桜井さんのご家族は、長期的な治療を必要とする
状態にあります」
専門用語は、使われなかった。
それが、逆に現実味を帯びさせる。
「現在の治療だけでは、回復は見込めません」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中で何かが崩れた。
でも、まだだ。
これは、序章だ。
そう、本能が理解している。
「選択肢は、限られています」
彼女は、淡々と続ける。
「そしてその中には、ご家族だけでは
完結しないものも含まれています」
——完結しない。
その意味を、俺はまだ知らない。
でも、胸の奥が嫌な予感で満たされていく。
この部屋に来た理由が、少しずつ輪郭を
持ち始めていた。
「……完結しない、というのは」
自分の声が、思っていたより低かった。
彼女は、一度だけ深く息を吸ってから、
言葉を選ぶように続けた。
「桜井さんのご家族には、現在臓器の機能が
著しく低下する症状が見られます」
臓器。
その単語が、空気の温度を変えた。
ニュースで聞いたことはある。
ドラマでも、物語の中でも。
でも、自分の人生とは
無関係だと思っていた言葉。
「薬や処置では、これ以上の改善は見込めません」
「……じゃあ」
喉が鳴る。
「移植、ですか」
彼女は、小さく頷いた。
「はい」
それだけで、胸の奥がずしりと沈む。
「適合者の条件は、非常に厳しいものです」
「年齢、血液型、体質……」
淡々と、説明が続く。
まるで、授業を受けているみたいだった。
理解はできる。
でも、実感がない。
「現在、登録されている中で適合する方は……」
そこで、彼女は一瞬だけ言葉を切った。
その間が、すべてを物語っていた。
「……お一人だけ、いらっしゃいます」
胸の奥で、何かが軋む。
答えは、聞く前から分かっている。
「それが、桜井さん、ということですか」
声が、震えなかったのが
不思議だった。
彼女は、否定しない。
「はい」
静かな肯定。
世界が、一段階下に落ちた気がした。
「ご本人には、すでに説明しています」
「……」
「選択は、ご本人に委ねられています」
選択。
その言葉が、妙に軽く聞こえた。
命がかかっているのに。
人生が、丸ごと乗っているのに。
「まだ、決まってはいません」
彼女は、そう付け加えた。
「ただ、時間が限られているのは事実です」
時間。
彼女が言っていた言葉が、頭の中で反響する。
「時間も、あんまりない」
あれは、比喩なんかじゃなかった。
現実だった。
「……俺がここに呼ばれたのは」
ゆっくり、言葉を探す。
「どういう立場として、ですか」
彼女は、少しだけ困ったように眉を寄せた。
「ご家族ではありません」
「ですよね」
「ですが、桜井さんにとって、非常に大切な
存在だと聞いています」
胸が、強く締めつけられる。
それは、嬉しいはずの言葉なのに。
「支えになる可能性がある、と」
支え。
その役割を、俺は引き受けられるのか。
彼女は、こちらの様子を確かめるように
視線を向けた。
「今すぐ何かを決めていただく必要はありません」
「……でも」
「知ってしまった以上、何も感じずにいるのは
難しいでしょう」
それは、忠告でもあり事実でもあった。
俺は、背もたれに身体を預ける。
天井が、やけに高く見える。
彼女は、ここまでをずっと一人で抱えていた。
笑いながら。
冗談を言いながら。
何でもない顔をして。
その事実が、何よりも重かった。
「……彼女には」
言葉が、喉に引っかかる。
「俺が来たこと、知ってるんですか」
彼女は、少しだけ間を置いて答えた。
「いいえ」
即答だった。
「ご本人の希望で、お伝えしていません」
——そうか。
やっぱり。
彼女は、最後まで俺を守ろうとしている。
それが、たまらなく苦しい。
この話は、まだ終わっていない。
でも、引き返す場所はもう存在しなかった。
病院を出たとき、空は思ったより明るかった。
夕方にはまだ早い。
でも、昼とも言えない色。
どこにも属さない時間帯。
俺は、その曖昧な空を見上げて、
しばらく動けずにいた。
——適合者は、一人。
——それが、彼女。
言葉にすれば、たったそれだけだ。
でも、その一文の中に、
どれだけのものが詰まっているのか。
歩き出すと、足が重い。
靴底が地面に吸いつくみたいに、一歩ごとに、
現実が追いついてくる。
彼女は、知っていた。
最初から。
それでも、俺の前ではいつも通りでいようとした。
楽しそうに笑って、冗談を言って、少し照れた顔で
俺を見ていた。
——残酷だ。
優しさが、こんなにも残酷になることが
あるなんて。
ポケットの中で、スマートフォンが重く感じる。
連絡しようと思えば、今すぐできる。
でも、何を言えばいい。
「全部知ってる」なんて、言えるはずがない。
それは、彼女の選んだやり方を壊すことになる。
立ち止まって、深く息を吸う。
肺の奥まで、冷たい空気が入ってくる。
少しだけ、頭が冴えた。
——俺は、何をしたい。
助けたい。
守りたい。
一緒にいたい。
全部、本音だ。
でも、彼女が一番望んでいないのは、
「可哀想だと思われること」
なんじゃないか。
それなら。
答えは、意外と単純だった。
知ってしまったことは、消せない。
でも、知る前と同じ顔で隣に立つことはできる。
彼女が線を引いたなら、俺はその線のこちら側で、
できることをする。
踏み越えるかどうかは、彼女が決める。
それまでは——
逃げない。
スマートフォンを取り出す。
画面を開いて、彼女の名前を見る。
一度、指が止まる。
それから、短いメッセージを打った。
「今日、ちゃんと話してくれてありがとう。
また、会えたら嬉しい」
送信。
既読は、すぐにはつかない。
それでいい。
今は、それ以上を望むべきじゃない。
空を見上げると、雲の隙間から光が差していた。
弱くて、頼りない光。
でも、完全な闇じゃない。
俺は歩き出す。
まだ答えはない。
正解も分からない。
それでも、彼女の隣に立つ道を、俺は選んだ。
たとえその先で、何を失うことになったとしても。




