境界線の向こう側へ
待ち合わせの場所は、特別なところじゃなかった。
駅から少し離れた、人通りの少ない小さな公園。
遊具は古く、ベンチの塗装も剥げている。
それでも、ここを選んだ理由は分かる気がした。
——誰にも聞かれたくない。
そんな無言の主張。
俺はベンチの前で立ち止まり、
スマートフォンを確認する。
約束の時間、ちょうど。
周囲を見渡すと、少し遅れて
彼女が歩いてくるのが見えた。
桜井梨々香は、いつもと変わらない服装だった。
派手じゃない。
目立たない。
でも、
なぜか目を引く。
近づくにつれて、その表情がはっきり見えてくる。
笑っている。
でも、どこか固い。
「お待たせ」
「いや、今来たとこ」
定型文みたいなやり取り。
「……聞くって言ってくれたの、正直、少し怖かった」
桜井梨々香は、そう前置きしてから、
ゆっくり息を吐いた。
まるで、肺の奥に溜め込んでいたものを
一つずつ外に出すみたいに。
「聞かれたら、答えなきゃいけなくなるでしょ」
その言い方が、すでに答えの一部だった。
「答えるってことは、今まで通りじゃいられなくなる」
彼女は顔を上げて、俺を見る。
視線は真っ直ぐだった。
逃げていない。
それが、余計に胸に刺さる。
「……今まで通り、でいられない理由があるんだろ」
言葉を選びながら、それでも曖昧にはしなかった。
彼女は、一瞬だけ目を伏せてから、小さく頷く。
「うん」
それだけ。
たった一音なのに、
空気が変わる。
「ね、翔」
彼女は、少しだけ声を柔らかくした。
「もしさ、誰かのために何かを選ばなきゃいけないときって、どうする?」
唐突な質問。
でも、無関係じゃないことは
すぐに分かった。
「……状況による」
「だよね」
「でも」
俺は続ける。
「自分が選ばないと、誰かが苦しむなら……
多分、選ぶと思う」
彼女は、それを聞いてほんの少しだけ笑った。
安心したみたいな、でも、どこか寂しそうな笑い方。
「翔らしい」
「それ、褒めてる?」
「うん。褒めてる」
沈黙。
彼女は、ベンチの端をぎゅっと掴んだ。
「……私ね」
言いかけて、止まる。
もう一度、息を吸う。
「家のことで、ちょっと問題があって」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中で点が線になりかける。
「病気、とか?」
聞いてしまった。
彼女は、すぐには答えなかった。
でも、否定もしなかった。
「詳しくは、まだ言えない」
「……重いやつ?」
少し間があって、彼女は頷く。
「時間も、あんまりない」
胸が、ぎゅっと縮む。
「それで最近、家にいること多かったのか」
「うん」
「急に帰る日も?」
「うん」
一つずつ、答えが積み上がっていく。
それなのに、一番大事なところだけが、空白のままだ。
「……俺に言わなかったのは」
責めるつもりはなかった。
ただ、理由が知りたかった。
彼女は、少しだけ困ったように笑う。
「言ったら、翔が背負おうとするから」
「当たり前だろ」
思わず、声が強くなる。
「一人で抱えることじゃない」
「分かってる」
彼女は、すぐにそう言った。
でも、そのあとに続いた言葉が、決定的だった。
「でもね、それでも私の問題なの」
線を引くような口調。
優しいけど、
はっきりとした拒絶。
俺は、何も言えなくなる。
助けたい。
知りたい。
そばにいたい。
全部、本音だ。
でも同時に、彼女が守ろうとしているものを
壊したくない気持ちもある。
「……今日は、ここまでにしよ」
彼女は、そう言って立ち上がった。
「少しだけ、言えたから」
振り返って、微笑む。
「ありがとう。ちゃんと聞いてくれて」
それは、感謝の言葉なのに、
どこか別れの匂いがした。
俺は、立ち上がれなかった。
背中を見送るしか、できなかった。
——触れてはいけない場所が、確かに存在する。
でも、そこに触れなければ、失うものもある。
その境界線の上に、俺は立たされていた。
それだけで、胸の奥が少し痛む。
二人で並んでベンチに座る。
距離は近い。
触れようと思えば触れられる。
それなのに、間に見えない線が引かれているみたいだった。
「……寒くない?」
「うん、大丈夫」
即答。
その速さが、逆に気になった。
沈黙が落ちる。
気まずいわけじゃない。
でも、安心もできない。
俺は、昨日から何度も考えてきた言葉を、
頭の中で並べ直す。
重すぎないか。
踏み込みすぎていないか。
逃げ道を奪っていないか。
考えれば考えるほど、何も言えなくなる。
彼女のほうが、先に口を開いた。
「翔、さ」
名前を呼ばれる。
それだけで、背筋が少し伸びる。
「最近、私のこと、変だなって思ってるでしょ」
直球だった。
誤魔化しも、前置きもない。
俺は一瞬だけ言葉に詰まり、それから正直に答える。
「……思ってる」
「だよね」
彼女は、小さく笑った。
でも、その笑顔はどこか自分に言い聞かせるみたいだった。
「ごめんね」
「謝られるようなことじゃない」
「でも、心配させてる」
彼女は、膝の上で指を絡める。
その仕草が、ひどく落ち着きがなく見えた。
「今日は、ちゃんと話そうと思って」
その言葉に、胸が強く鳴る。
——ついに来た。
でも、続く言葉は、すぐには落ちてこなかった。
風が吹いて、木の葉が擦れる音がする。
遠くで、電車の通過音。
世界は普通に動いている。
それが、やけに残酷に感じられた。
「全部は話せないかもしれない」
彼女は、視線を地面に落としたまま言った。
「それでも、聞いてくれる?」
俺は、一拍だけ置いてから、
頷いた。
「聞くよ」
逃げなかった。
視線も逸らさなかった。
この瞬間、確かに一歩進んだ。
でも同時に、もう戻れない場所に
足を踏み入れた気もしていた。
彼女が去ったあとの公園は、
急に音を取り戻した。
子どもの笑い声。
自転車のブレーキ音。
遠くを走る車のエンジン。
さっきまで、世界が息を潜めていたみたいに
感じていたのが嘘みたいだった。
俺はベンチに座ったまま、しばらく動けなかった。
——ここまで、か。
知れたことは、ほんの一部だ。
家族。
病気。
時間がない。
それだけ。
なのに、胸の奥はひどく重い。
彼女の言葉が、何度も反芻される。
「それでも私の問題なの」
その一言が、境界線だった。
越えるな、と。
ここから先は来るな、と。
でも。
俺は、最初からその線を
踏み越えるつもりで彼女の隣に立ったはずだ。
スマートフォンが震える。
彼女からかと思って、反射的に画面を見る。
違った。
知らない番号。
一瞬、出るか迷う。
でも、なぜか無視できなかった。
「……もしもし」
『灰原翔くん、で合ってる?』
女性の声。
落ち着いているけれど、
どこか事務的だ。
「はい」
『私、桜井さんのご家族と
関わりのある者で——』
その一言で、心臓が跳ねた。
呼吸が浅くなる。
『少し、お話できる時間あるかしら』
頭が、うまく働かない。
「……今は」
そう答えながら、立ち上がっていた。
「今なら、あります」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
通話は短かった。
場所と、時間。
それだけを伝えられて、切れる。
画面が暗くなる。
その瞬間、足元がぐらついた。
——やっぱり。
胸の奥で、ずっと否定していた感覚が、
はっきりと形になる。
俺は、彼女に聞く前に、知ってしまうかもしれない。
それは、彼女が一番避けたかった形だ。
でも、もう止まれなかった。
彼女が引いた線は、彼女を守るためのものだ。
それは分かる。
でも、その線のこちら側で何もせずに立っていることが、正しいとは思えなかった。
空を見上げる。
雲の切れ間から、わずかに光が差している。
見えるか、見えないか。
そんな程度の光。
それでも、目を逸らす理由にはならない。
俺は歩き出す。
行き先は、まだはっきりしていない。
ただ一つ、確かなことがある。
——もう、彼女の隣に立つ覚悟は
できている。
たとえ、知ることが別れに近づく行為だったとしても。
スマートフォンを握りしめながら、俺は前を向いた。
境界線の向こう側へ。




