重さの行き先
朝の教室は、
いつもより少しだけ静かだった。
理由があるわけじゃない。
誰かが欠けているわけでも、
大きな出来事があったわけでもない。
それでも、空気がどこか薄い。
俺は席に座って、鞄から教科書を取り出した。
隣の席は空いている。
「……まだ来てないのか」
小さく呟いた声は、
自分にしか聞こえない。
時計を見る。
まだチャイムまでは時間がある。
——たまたまだ。
そう思おうとして、
その「たまたま」が
何回目か分からなくなっていることに気づく。
チャイム直前、
彼女は教室に入ってきた。
少しだけ息を切らして、
それでも、いつもの顔で。
「おはよう」
席に着くなり、
こちらを見てそう言う。
「おはよう」
それだけ。
それだけなのに、
昨日までと何かが違う。
授業が始まる。
彼女はノートを取る。
先生の話を聞く。
何もおかしくない。
けれど、時々、ペンが止まる。
ほんの一瞬。
見逃してしまいそうなほど短く。
昼休み。
俺は弁当を持って、
いつもの場所へ向かった。
「今日もここでいい?」
「うん」
彼女は笑う。
「最近さ、ここ静かでいいよね」
「前から静かだっただろ」
「そうだっけ。
でも、前より落ち着く気がする」
それは、理由のない言葉みたいで、
理由がありそうでもあった。
俺は箸を止めて、
一瞬だけ迷う。
「……体調、大丈夫?」
踏み込みすぎない、
でも無関係でもない、
そんな位置の言葉。
「うん。平気だよ」
即答。
迷いのない声。
「心配性だね、翔」
「最近、色々あるだろ」
「あるけど、
全部が悪いことじゃないよ」
そう言って、
彼女は弁当を口に運ぶ。
会話は続く。
天気の話。
テストの話。
くだらない冗談。
どれもちゃんと楽しい。
ちゃんと笑える。
だからこそ、
俺は気づいてしまう。
——大事な話だけが、
きれいに避けられている。
放課後。
彼女は鞄を持って立ち上がった。
「今日は先に帰るね」
「用事?」
「ちょっとだけ」
「そっか」
昨日までなら、そこで終わっていた。
でも今日は、もう一言が喉に引っかかる。
「……無理はするなよ」
彼女は一瞬、驚いた顔をしてから、
すぐに笑った。
「ありがとう。翔もね」
それは、優しさの交換みたいで、
どこか空虚だった。
彼女が教室を出ていく。
その背中を見ながら、
俺は思う。
聞くと決めた。
それは、確かだ。
でも、聞く前に、世界のほうが
先に動き出している気がした。
机の上に残された、
彼女の消しゴム。
俺はそれを手に取って、
そっと引き出しにしまった。
——このままじゃ、
本当に間に合わなくなる。
そんな予感だけが、
静かに胸に残っていた。
彼女が先に帰ったあとの教室は、
思った以上に広かった。
机と椅子の並びは変わらない。
窓の外の景色も、
いつもと同じはずなのに、
一つ何かが抜け落ちたような感覚が残る。
引き出しにしまった消しゴムを、
もう一度取り出してみる。
小さな傷。
角の丸まり方。
使い込まれた跡。
——どうして、
こんなものが重く感じるんだろう。
消しゴムを握ったまま、
俺はしばらく動けなかった。
放課後の校舎は、
時間が止まったみたいに静かだ。
廊下を歩くたび、自分の足音だけが響く。
誰かが笑う声も、部活の掛け声も、今日は遠い。
校門を出ると、空は低く曇っていた。
雨は降っていない。
でも、
いつ降り出してもおかしくない色をしている。
——似ている。
そう思った。
何かが起きる直前の空と。
帰り道、無意識にスマートフォンを取り出して、
画面をつける。
連絡は、来ていない。
当たり前だ。
まだ数時間も経っていない。
それなのに、胸の奥がじわじわと焦れていく。
俺は、何に焦っているんだろう。
答えは分かっている。
時間だ。
彼女の時間。
俺の時間。
そして、
二人の時間。
それが、
同じ速さで進んでいない気がしてならない。
家に着いて、
靴を脱ぐ。
電気をつけても、部屋は明るくなりすぎない。
机に鞄を置いて、椅子に座る。
何かをしようとして、何もできない。
ノートを開いても、文字は頭に入ってこない。
代わりに浮かぶのは、彼女の横顔だ。
笑っている顔。
気丈に話す声。
「大丈夫」と言い切る強さ。
——本当に?
その疑問が、前よりもずっと重く胸に落ちる。
聞くと決めた。
でも、聞くという行為は、
想像以上に残酷だ。
知らなければ、守れない。
でも、知ってしまえば、
元には戻れない。
それでも、戻らないと決めたのは、
俺自身だ。
窓の外を見る。
街灯が一つ、また一つと灯っていく。
その光は、暗闇を消すほど強くない。
ただ、そこにあることを示すだけだ。
——それでいい。
今の俺にできるのも、たぶんそれだけだ。
全部を照らすことはできない。
でも、見えないふりをすることも、
もうできない。
彼女の隣に立つなら、
知らないまま立つわけにはいかない。
たとえ、答えがどんな形でも。
スマートフォンが、
静かに震えた。
通知ではない。
ただの時刻変更の振動。
それなのに、
心臓が跳ねる。
俺は深く息を吸って、
ゆっくり吐いた。
——大丈夫だ。
そう言い聞かせる。
誰に向けた言葉かは、
分からない。
ただ、時間は止まらない。
選択は、もう始まっている。
静かに、確実に。
夜になっても、
空は晴れなかった。
雲の向こうに月があるのは分かる。
でも、姿は見えない。
見えないものほど、
意識してしまう。
机の上で、
スマートフォンが静かに横たわっている。
連絡をしようとして、
何度も画面をつけては消した。
「大丈夫?」
「今、何してる?」
「少し話せない?」
どれも、間違ってはいない。
でも、正しくもない気がした。
——聞くと決めた。
それは、勇気の話じゃない。
ただ、逃げないと決めただけだ。
それなのに、指が動かない。
動かしてしまえば、何かが変わる。
変わってしまえば、もう元には戻れない。
時計を見る。
もう遅い時間だ。
それでも、今日を越えてしまうのが、
怖かった。
俺は、覚悟を固めるように、短く息を吸った。
「……」
何も言わずに、
通話ボタンを押す。
呼び出し音が鳴る。
一回。
二回。
——出てくれ。
祈るような気持ちで、耳を澄ます。
三回目の音が鳴る前に、
通話は切れた。
留守番電話に、切り替わる。
それだけで、胸の奥が冷える。
拒否されたわけじゃない。
出られなかっただけかもしれない。
でも、“届かなかった”という事実は、
確かに残る。
メッセージを送ろうとして、
やめた。
今は、言葉を残すべきじゃない気がした。
窓の外を見る。
街灯の光が、濡れた道路に滲んでいる。
いつの間にか、雨が降り始めていた。
音もなく、ただ世界を濡らしていく。
——間に合わない。
その言葉が、はっきりと形を持って、
胸に落ちた。
何に、とは言えない。
何が、とは分からない。
それでも、確信だけがあった。
このまま待っているだけじゃ、何かを失う。
俺は、立ち上がった。
行き先は決めていない。
ただ、動かなければならなかった。
玄関で靴を履きながら、
スマートフォンが震える。
彼女からだった。
「ごめんね。今、出られなかった」
続けて、もう一通。
「明日、話そう。ちゃんと」
——ちゃんと。
その言葉が、今までで一番、重く感じた。
俺は、ゆっくりと返事を打つ。
「うん。明日、会おう」
送信して、 立ち止まる。
雨の音が、はっきりと聞こえる。
もう、戻れないところまで来ている。
それでも、まだ終わりじゃない。
聞くと決めた。
向き合うと決めた。
——明日。
その一日が、何かを変える。
良くても、悪くても。
俺は、傘を手に取った。




