満月の丘で
真夜中の丘は、音がなかった。
街灯の届かないこの場所では、風が草を揺らす気配さえ、遠慮がちに感じられる。
満月が空の中央に浮かび、淡い光を地面へ落としていた。影は輪郭を失い、すべてが白と黒の境目に溶けている。
その光の中で、蛍がいくつも瞬いていた。数は多くない。けれど、暗闇を否定するには十分なほど、確かに光っている。
季節外れだ。
そんなことは分かっている。それでも、この丘で蛍を見るのは、これが初めてじゃなかった。
――あの人と、最後に話した場所。
そう意識した瞬間、胸の奥がわずかに軋んだ。痛みと呼ぶほど強くはない。ただ、無視できない違和感が、そこに残っている。
丘の頂上に立ち、俺は月を見上げた。
視線を逸らせば楽になるはずなのに、どうしても目が離れない。あの夜も、同じ月がそこにあったからだ。
あの人は、隣に立っていた。
何か特別なことを話したわけじゃない。いつも通りの声で、いつも通りの調子で、他愛のない話をしていた。それなのに、なぜかこの場所だけが、記憶の中で色濃く残っている。
思い出が詰まっている、なんて言葉は嫌いだ。
そんな綺麗なものじゃない。
ここにあるのは、未練だ。
整理できない感情と、言えなかった言葉と、終わったはずの時間。
俺はこの丘に縛り付けられている。
そう自覚するたびに、苦笑いしか浮かばなかった。
前に進めない理由なんて、もう分かりきっている。
分かっていて、それでも動けない。それだけのことだ。
蛍が、ふっと光を強めた。
まるで、まだここにいるだろう、と言われたみたいで、俺は一瞬だけ目を伏せた。
丘を下り始めると、月明かりは少しずつ背中に回った。
振り返らなければ、あの場所は視界から消えてしまう。それが怖くて、何度も足を止めそうになる。
結局、振り返ることはしなかった。
見なくても、そこにあることは分かっている。
舗装されていない道を踏みしめながら、ゆっくりと歩く。足音がやけに大きく感じられた。
昔は、あの人と並んでこの道を歩いた。会話が途切れても、沈黙は苦じゃなかった。ただ一緒にいるだけで、落ち着けた。
——いや。
正確には、落ち着いていたのは俺だけだったのかもしれない。
そんな考えが浮かんで、胸の奥がわずかにざわついた。
あの人はいつも、周りを見ていた。誰かの表情の変化や、声の調子に、さりげなく気づいていた。俺が気にも留めなかった小さな違和感を、当然のように拾い上げる人だった。
どうして、あんなふうに生きられたんだろう。
自分の生を実感しきれていない、という言葉が浮かぶ。
しっくりきすぎて、少しだけ笑いそうになった。
生きている。
息をして、歩いて、明日もきっと目を覚ます。
それなのに、「生きている」と胸を張って言える瞬間は、驚くほど少ない。
代わりに、俺は他人の生にばかり敏感だった。
悲しそうな背中や、無理に作った笑顔を、見逃せない。見つけてしまったら、目を逸らすことができない。
まるで、それが自分の役割みたいに。
あの人は、そんな俺を笑わなかった。
「優しいね」とも、「不器用だね」とも言わなかった。
ただ、当たり前みたいに隣にいた。
それが、どれほど救いだったのか。
失ってからでないと、分からなかった。
坂道を下りきると、遠くにコンビニの明かりが見えた。
真夜中だというのに、白い光は妙に現実的で、胸の奥に溜まっていたものを一気に引き戻される。
世界は続いている。
俺の感情なんて関係なく、人は眠り、働き、笑っている。
コンビニの前で、誰かがしゃがみ込んでいた。
制服姿の女の子だ。スマートフォンを握りしめたまま、肩を小さく震わせている。
足が、止まった。
声をかける理由なんてない。
通り過ぎればいい。
そう思っているのに、体が言うことを聞かない。
——泣いている。
そう気づいた瞬間、胸の奥がざわりと波立った。
理由も事情も分からない。ただ、その感情だけが、はっきりと伝わってくる。
あの人なら、どうしただろう。
そんなことを考えてしまった時点で、もう逃げられなかった。
俺は一歩、彼女に近づいた。
コンビニの灯りの下で、女の子は顔を伏せたまま動かなかった。
近づくにつれて、嗚咽を堪えているのが分かる。泣き声を出さないように、必死に息を殺している。
声をかけるべきかどうか、少しだけ迷った。
迷った、というより――考える時間があったこと自体が、珍しかった。
「……大丈夫?」
自分でも驚くほど、落ち着いた声が出た。
女の子はびくりと肩を震わせ、ゆっくり顔を上げる
目元が赤く腫れていて、まつ毛が濡れていた。
「すみません……」
謝る理由なんて、どこにもないのに。
それでも彼女は、誰かに見られたこと自体が申し訳ないみたいに、小さく頭を下げた。
「何か、あった?」
問いかけはそれだけだった。
踏み込みすぎない。突き放しもしない。
あの人が、よくやっていたやり方。
女の子はしばらく黙っていたが、やがてスマートフォンを握りしめた手に力を込めた。
「……友達と、喧嘩して」
それ以上は続かなかった。
言葉にできない感情が、喉の奥で引っかかっているのが分かる。
俺は頷いただけだった。
慰めの言葉も、正解も持っていない。ただ、ここに立って、話を聞くことしかできない。
「連絡、返ってこなくて……」
ぽつりと零れた声は、思っていたよりも弱かった。
その一言で、十分だった。
不安も、後悔も、取り残された感覚も、全部そこに詰まっている。
「……それは、つらいな」
それだけ言うと、女の子はまた泣きそうな顔になった。
でも今度は、声を上げなかった。ただ、深く息を吸って、ゆっくり吐く。
「ありがとうございます」
今度は、ちゃんと前を向いて言った。
少しだけ、表情が落ち着いている。
「もう、帰ります」
女の子は立ち上がり、会釈をしてから夜道へ消えていった。
背中が見えなくなるまで、俺はその場を動けなかった。
助けた、なんて言えるほどのことは何もしていない。
ただ立ち止まって、話を聞いただけだ。
それでも。
胸の奥に、微かな違和感が残っていた。
悪い意味じゃない。
どこか、懐かしい感覚。
——あの人も、きっとこうしていた。
誰かの感情に気づいて、立ち止まって。
それを特別なことだとも思わずに。
コンビニの自動ドアが閉まり、機械音が夜に溶けた。
月を見上げると、まだ高い位置に浮かんでいる。
丘のことを、思い出す。
満月と、蛍と、最後に話した場所。
縛り付けられている、と思っていた。
前に進めない理由が、そこにあるのだと。
でも、少しだけ分かった気がする。
俺は、完全に止まっていたわけじゃない。
灰の中で、何かを見逃さないように、目を凝らしていただけなのかもしれない。
それが、生きていると言えるのかどうかは、分からない。
答えは、まだない。
それでも。
誰かの感情に、足を止めた自分がいた。
その事実だけが、静かに残っていた。
俺はもう一度、夜空を見上げてから、家路についた。
世界は相変わらず続いていて、その中を、俺も歩いていた。




