第一話 二・二六事件
本作は架空の歴史改変を扱うフィクションです。
史実の人物・組織名が登場しますが、描写・行動・関係性は物語上の再構成・仮想設定です。
政治・治安・軍事に関する専門用語や制度は、
読者向けの読みやすさを優先して簡略化・再解釈しています。
軍は国を守る。
だが国の進む道を決めるのは、軍ではない。
戦争をするか。
しないか。
誰と組み、誰と距離を取るか。
それを決めるのは、
国民により、公正に選ばれた、政治だ。
軍は、その決定に従って最善を尽くす。
この順序を守る仕組みを、文民統制という。
順序が崩れた国家は、
強くなる前に壊れる。
* * *
一九三六年二月二十六日、午前四時〇二分。
東京市麹町区霞ヶ関一丁目、中央情報局地下指揮室。
雪が、音を奪っていた。
厚いコンクリートの上に、さらに土と石を重ねた地下室でも、
外の雪の気配はわかる。
空気の温度と、換気口から入ってくる湿り気で、なんとなく。
蛍光灯の白い光に照らされて、壁の時計の針だけが律儀に進んでいる。
電話交換台の前に座る交換手の前では、
ランプがまだまばらに点ったり消えたりしていた。
博麗霊夢 内務大臣補佐官は、机の端に置かれた灰皿を見ていた。
吸いかけの煙草が一本、火の点いたまま横たわっている。
自分のではない。誰かがさっき、呼び出されて席を立った。
霊夢はそれを見ているだけで、自分では一本も吸わない。
代わりに、机の上に並んだ紙束を、順に指先で揃えた。
青年将校の動静。
弾薬庫の残量。
右翼結社の集会日程。
各地の在郷軍人会の会合記録。
赤鉛筆で囲まれた数字だけ見れば、ただの統計にしか見えない。
だが、ここまで揃えば、もう「もし」ではない。
あとは「いつ」と「どこで」だけの問題になる。
霊夢は、最後の一枚を重ね、紙束を横に寄せた。
壁の時計が四時二十分を指す。
秒針の位置を覚えてから、霊夢は交換台に目で合図を送った。
「警保局特務課。霧雨特務課長」
交換手が素早く線をつなぐ。霊夢は黒電話の受話器を取った。
呼び出し音が二度鳴る。
『……霧雨だ』
眠気を押し殺した声。
それでも、線の向こうの空気ごとこちらに届くような通り方をしている。
「私です、博麗」
『知ってる。こんな時間に叩き起こすのは、だいたいお前だ』
霊夢は、短く息を吐いた。
笑いなのか、ため息なのか、自分でも判然としない。
「今日です」
電話線の向こうで、沈黙が一拍ぶん伸びた。
『確かか』
「“たぶん”じゃない。今日です。
匂いは五・一五と同じ。でも、量が違います。」
『場所は』
「陸軍省と近衛第三連隊。
首相官邸と警視庁、それから宮城の外縁。
全部、範囲に入る」
霊夢は紙を見ずに言った。
頭の中で、東京の地図の上に赤い丸を落としていく。
「警視庁を押さえてください。最優先。
戒厳令が出る前に、警察の指揮系統を中央情報局のラインに固定する」
『了解』
それきり、少し間が空いた。
『……死ぬなよ』
魔理沙らしからぬ言葉だった。
霊夢は、受話器の向こうで誰かが煙草を探している気配を想像する。
「そちらこそ。」
霊夢は、受話器を持ち替える。
「撃たなくて済むなら、それに越したことはありません。
ただ、迷っている時間だけは、もうない」
『ああ』
短い返事のあと、通話が切れた。
交換手が、次の回線を伺うようにこちらを見る。
霊夢は首を縦に振った。
「宮中を。起こします」
壁際の机の上に、別の黒電話がある。
宮城へ直接伸びる回線。
番号は、霊夢の頭から一度も抜け落ちたことがない。
ベルの音が、雪に包まれた宮城のどこかへ消えていくあいだ、
霊夢は天井の蛍光灯を見上げていた。
白い光は、外の雪と同じ色をしている。
* * *
東京市麹町区有楽町一丁目、警視庁本部・宿直室前の廊下。
ドアが、静かな音を立てて閉まった。
魔理沙は、しばらくノブから手を離さなかった。
さっきまで鳴っていた電話のベルの余韻だけが、まだ耳の奥に残っている。
受話器の向こうの声――内務省、中央情報局、博麗。
言うことはいつも簡潔で、ろくな時にかかってこない。
廊下の空気は、宿直室よりも冷たかった。
石炭ストーブの熱が扉一枚のところで切れていて、
そこから先は夜の温度がそのまま残っている。
魔理沙は、コートの襟を立てながら、ひとつ息を吐いた。
白くはならない。屋内だからだ。
それでも肺の中の空気が、外と入れ替わる感覚だけは、
やけにはっきりしていた。
制服の襟を立て、拳銃ホルスターの留め具を確かめる。
留め具、重量、位置
大陸で何百回も確認した手順を、東京でも同じようになぞる。
廊下の端で待っていた部下たちが姿勢を正す。
「起きてるな」
「はい」
部下の警部補が答える。
その背後には、十数人の隊員。霧雨班。特務課の現場担当だ。
「今日、軍が動く」
魔理沙は、窓の外を一度だけ見た。
まだ暗い。日比谷公園の街灯が、斜めに降る雪を浮かび上がらせている。
「ここから先、軍服を着ている奴が全員“味方”とは限らない。
それだけ頭に入れておけ」
誰も、軽口を返さない。
それでよかった。こういう朝は、その方がやりやすい。
「まず警視庁本部を固める。
総監も、通信も、全部、内務省――中央情報局のラインに乗せる。
そのあと国会で宮城だ。順番は変えない」
警部補が、わずかに眉を動かした。
「……撃ちますか」
「撃たずに済めば、それが一番だ」
魔理沙は、ストーブの上に置きっぱなしになっていた薬缶を横目で見た。
中身は冷めている。
「ただ、向こうが先に撃ったら、撃て。
生きて帰ること。以上。」
それだけ言うと、魔理沙は階段を降りていった。
上から降りてくる雪明かりが、踊り場で二人の影を二重にした。
* * *
一九三六年二月二十六日 午前四時五十五分。
霞ヶ関一丁目、中央情報局地下指揮室。
電話が、一斉に鳴り始めた。
交換台のランプが、雪のように次々と灯る。
「陸軍省前からです!」
若い事務官が、受話器を押さえたまま声を上げた。
霊夢は手を伸ばし、そのまま取る。
「博麗です」
『こちら銀座署派遣巡査、佐藤!』
背後の音が混じっている。怒鳴り声、足音、金属の擦れる音。
「簡単に」
霊夢は、短く制した。
『陸軍省前に軍服の集団、武装。
我々に接触を試み、“同志”と称し、署への連絡を妨害――』
霊夢は時計を見た。
秒針の位置を記憶する。
「場所は」
『正門から二十メートルほど離れた路地です。塀と倉庫に挟まれて――』
「そこで待機。
拳銃は」
『六発、支給品が一丁』
「不用意に抜かないこと。
ただし、命の危険を感じたら、迷わないでください。」
返事を待たず、霊夢は通話を切る。
別の回線が鳴る。陸軍省内部からの断片的な報。
一部部隊が「行動中」、上層部は把握できず。
壁の地図に、赤いピンが刺さっていく。
霊夢はその間を見ながら、警視庁への直通回線を取った。
「博麗です。」
『こっちは玄関を締めてるところだ』
「始まりました。陸軍省前に集結。
こちらにも、“客”がそちらに向かっているはずです」
『こっちの客も、そろそろ着く頃だな』
魔理沙の声が、かすかに笑う。
『玄関までは好きに騒がせる。中には入れない』
「警視総監を押さえてください。
軍に連れて行かれたら、後が面倒です」
『了解。
――お前の方は』
「宮中を動かします。
“暴力では政治を動かさない”という一行を、紙の上に出してもらいます。」
『それがあれば、こっちも撃たずに済むかもしれん』
「済ませてください。」
通話が終わるころ、宮城からの折り返しが鳴り始めた。
霊夢は、襟を一度だけ整え、それからその受話器を取った。
* * *
一九三六年二月二十六日 午前五時二十五分。
麹町区霞ヶ関一丁目、桜田門前・警視庁本部。
桜田門の石垣と外堀を背に、石造りの庁舎がどっしりと座っていた。
正面は左右対称で、中央の玄関がわずかに前へ張り出している。
数段の石段の上に両開きの扉。
その上には縦に並ぶ窓が、寒さのせいか妙に無表情に見えた。
庁舎の前は広い車道と歩道が通り、
官庁街らしい空間の余白がそのまま緩衝地帯になっている。
前庭と呼べるほどの広さはない。
あるのは、玄関前の舗装と、車が一時的に寄せられるだけの浅いスペースだ。
日比谷通りの方から、トラックの列がゆっくりと近づいてくる。
雪を巻き上げる音と、エンジンの唸りだけが、
まだ眠っている街の空気を震わせた。
玄関の石段を背に、重武装した警官の列が一本できた。
庁舎の壁を味方につけるしかない配置だ。
彼らの視線の先で、軍服の男がトラックから飛び降りた。
「警視総監はどこだ!」
先頭の軍人が怒鳴った。
声に似合わず、顔はまだ若い。軍刀の柄に手を置いたまま、見上げる。
返事の代わりに、階段上から声が落ちた。
「ここだ」
石段の途中、霧雨魔理沙が立っていた。
帽子もかぶらず、コートの前も半分しか留めていない。
兵士たちが一瞬戸惑う。
総監にしては若すぎる。態度も崩れすぎている。
「お前が総監か」
「違う」
魔理沙は、肩をわずかにすくめた。
「だが今朝、この建物で一番“命令を出しやすい”のは、私だ」
男の目が細くなる。
「我々は、昭和維新を断行する。
警視庁は、これより我々の指揮下に――」
「話は後だ」
魔理沙は、ゆっくりと階段を降り始めた。
その動きに合わせるように、玄関脇の廊下から警官たちが散る。
霧雨班の隊員たちが展開する。
「ここは官庁だ。
銃を下ろせ」
「我々は陛下のために――」
「銃を下ろせ」
同じ言葉を、もう一度。
今度はわずかに低く。
魔理沙の指先は、まだホルスターには触れていない。
それでも、その手の位置を、兵士たちの目は追っていた。
先頭の軍人の横で、部下が一歩前に出る。
軍刀の柄に手をかけ、鞘が小さく鳴る。
廊下の奥で、霧雨班の隊員の一人が反射的に拳銃を抜きかけた。
その動きを、魔理沙の声が止める。
「抜くな」
短い命令だった。
隊員の肩が、ぴたりと止まる。
魔理沙は階段を下り切り、指揮を執っている男と同じ高さに立った。
肩に縫い付けられた星の数を、一度だけ確かめる。
――金糸に、赤線が二本、星三つ。
魔理沙は男の目の前に立つ
「大尉。」
名を呼ばれ、男の視線がこちらに固定される。
「ここで撃てば、あんたらはもう“軍人”じゃない。
法の外に出た、ただの武装集団だ。
それでいいなら、好きにしろ」
声は静かだった。
脅しではなく、説明だけがある。
「我々は、腐敗した政治を――」
「政治の話なら、上で聞く」
魔理沙は、総監室のある階の方を顎で示した。
「総監室を使わせる。陳情なら聞けばいい。
クーデターは却下だ」
大尉は、しばらく魔理沙を見据えていた。
背後で兵士たちが、落ち着かない足取りで体重を移す。
やがて、大尉は軍刀から手を離した。
「……陳情は、受けるのだな」
「陳情なら」
魔理沙は小さく頷いた。
短い沈黙のあと、大尉は兵士に合図を送る。
銃が少しだけ下がる。
霧雨班の拳銃も、同じように下がる。
緊張がまだ解けきらないうちに、玄関脇の小さな机の上で電話が鳴った。
内線。霧雨班の隊員が素早く受話器を取り、魔理沙に手渡す。
「霧雨だ」
『霊夢です』
霊夢の声は、紙の上を歩くように冷静だった。
『戒厳令が出ます。内閣と陸相の名で。
ただし、“反乱部隊は一部”という前提で。』
「分かった。宮中は?」
『陛下のご意思をそのまま伝えます。』
『 ――“暴力による政治の変更は、朕の望むところにあらず”』
魔理沙は、天井の照明を一度だけ見上げた。
「“暴力による政治の変更は、朕の望むところにあらず”」
「それで十分だ。」
『警視庁の指揮権は、あなたに一任します。
国会と宮城を守って。そこが抜かれたら、全部終わりです。』
「了解。
こっちは玄関を守った。
これから国会と宮城に移る」
『移動中も無線でつなぎます。
――死なないでください。』
「そっちもな。」
受話器を置き、魔理沙は大尉に向き直る。
「総監室はこちらだ。
武器は置いていけ。」
大尉は、短く「承知した」とだけ言い、後ろの兵士たちに合図を送った。
銃が、一斉に肩から下りる。
霧雨班の拳銃も、それに合わせて下りる。
その瞬間だけ、玄関ホールの空気が、ほんの少しだけ軽くなった。
* * *
一九三六年二月二十六日 午前六時四十分。
東京市千代田区永田町一丁目、国会議事堂前庭。
雪は、地面の泥と混じり合って、薄汚れた白の層を作っている。
警察のトラックが、議事堂の正面階段を扇形に囲むように停車していた。
鉄パイプと砂嚢で作った簡易バリケードが、その前にいくつも重ねられている。
霧雨魔理沙特務課長は、階段の途中で双眼鏡を構えていた。
霞ヶ関の方角、陸軍省の辺りから、白い煙が細く立ち上っている。
雪の向こうで、何台かの軍用トラックの影が動いた。
「反乱部隊、移動開始。永田町方面へ」
横で地図を広げていた古賀が、息を少し切らしながら伝える。
「数は」
「百五十前後と推定。
歩兵中隊規模です」
「こっちは」
「ここに三百。周辺の警邏も入れれば五百は超えるかと」
「数の問題じゃない。」
魔理沙は双眼鏡を降ろし、階段を降りていった。
――数で勝ってても、撃ち方を間違えれば負けだ。
満州でも上海でも、何度も見た。
最前線のバリケードの向こう、白の中から、トラックの列が姿を現した。
前面に「尊皇討奸」の旗。荷台には、まだ少年の顔をした兵士たち。
トラックが止まり、先頭の軍人が飛び降りる。
雪を蹴って、一歩前へ出る。
「我々は、陛下の真意を奉じ――」
「その話は、さっきも聞いた」
魔理沙は遮った。声は大きくないが、よく通った。
「陛下のご意思は、宮城からさっき伝えられている」
先頭の軍人の動きが止まる。
「……何だと」
「“暴力による政治の変更は、朕の望むところにあらず”」
魔理沙は、霊夢から聞いた文言を、ただの事実として口にした。
兵士たちの表情が、ざわりと揺れる。
旗の布が、風もないのに震えたように見えた。
「我々は、腐敗した――」
「それが腐敗しているかどうかを決めるのは、銃じゃない」
魔理沙は、バリケードの鉄パイプに片手を置いた。
「選挙と、法と、手続きだ。
それを壊した瞬間、お前たちは陛下の軍隊じゃなくなる」
先頭の軍人は、しばらく口を閉ざした。
視線が、一瞬だけ旗へ逸れた。
さっきまで、あれは確かに“正義の印”だった。
荷台の兵たちにとっても、
自分にとっても。
だが今は、
雪の中で湿り気を帯びた
ただの布にしか見えない。
荷台の上から、若い兵士の声が一つ飛んだ。
「中隊長……」
不安とも期待ともつかない声。
魔理沙は、その方向を一瞬だけ見てから、腰のホルスターに手を伸ばした。
拳銃を抜く。
兵士たちの筋肉が、緊張で固まる。
魔理沙は、その拳銃を先頭の軍人に向けて放り投げた。
短い弧を描いて、雪の上を滑る。
彼は、反射的に手を伸ばし、それを受けとめた。
冷たい金属の重さに、わずかに顔が歪む。
「それを持って、宮城に行け」
魔理沙は言った。
「内務省が嘘をついていると思うなら、陛下に直接聞いてこい。
陛下が“内務省は嘘だ”と言うなら、その場で私の名前を出せ。
博麗霊夢でも、霧雨魔理沙でもいい」
彼の眼が、拳銃と魔理沙の間を往復する。
「そのあとどうするかは、お前が決めろ」
誰も、軽口を挟まない。
冗談ではないと分かっているからだ。
長い沈黙のあと、彼は拳銃を見下ろした。
それもまた、
ただの金属だった。
やがて、拳銃は彼の手を離れ、
雪の上に落ちた。
音は小さく、しかし決定的だった。
先頭の軍人は、低い声で命じる。
「転回。ここは通らない」
兵士たちが、ざわりとどよめく。
「中隊、反転だ。
ここは……ここには用はない」
兵士たちが動く。
動ける者から動く、という種類の動きだった。
トラックがゆっくりと方向を変え、霞ヶ関の方角とは違う白の中へ消えていく。
旗も、言葉も、足音も、
距離と雪に削られて、ただのざわめきに溶けていった。
警部補が、肩で息をしながら魔理沙の隣に来る。
「課長……今のは」
「撤退だ」
魔理沙は短く答える。
「勝利じゃない。
ただ、最悪じゃなくなっただけだ。」
雪はまだ、
まばらに降っていた。
* * *
その日の夕方には、反乱部隊の大勢は決していた。
いくつかの官庁は一時的に占拠され、数人の犠牲者が出た。
けれど、首相官邸と宮城は一度も取られなかった。
初動から警察と中央情報局が一本で動いたことが、
軍内部の穏健派に「そちら側につく理由」を与えた。
鎮圧の詳細は、後に報告書の束になって棚に並ぶ。
それを最初に丁寧に読むのは、たぶん歴史家たちだ。
夜。
霞ヶ関一丁目、中央情報局地下指揮室。
紙の山は少しだけ低くなり、灰皿の吸い殻は増えていた。
電話のベルは、ようやく間隔を空けて鳴るようになっている。
「……終わりました」
誰ともなく、事務官の一人が言った。
自分の耳に聞かせるような声だった。
「事件としては」
霊夢は、机の上の報告書を一枚ずつ揃えながら答えた。
「仕事としては、これからです」
宮城からの電文を手に取る。
薄い紙に打たれた活字。
――暴力による政治の変更は、朕の望むところにあらず。
指先で、その一行だけをなぞる。
この一文を引き出すために、どれだけの根回しと準備を重ねてきたか。
震災、五・一五、その後の宮中とのやり取り。
それらをまとめて思い出す余裕は、まだなかった。
「軍が政治に失敗した前例が、ひとつ出来ました」
自分に聞かせるような声で、霊夢は言った。
「ここから先は、この前例を法と制度で固める仕事です。
二度と“例外”だと言わせないように」
扉が控えめにノックされる。
返事を待たずに入ってきたのは、霧雨魔理沙特務課長だった。
帽子もコートも脱がず、肩に雪を乗せたまま。
「忙しいか」
「いつもどおりです」
霊夢は椅子から少し身を引き、向かいの椅子を足で引き寄せた。
「そちらは」
「国会と宮城は無傷。
警視庁も、怒鳴り声で済んだ。
血が出たのは、よそだ」
魔理沙は椅子に腰を下ろし、背もたれに体重を預ける。
目を閉じると、満州の雪と上海の埃が一瞬だけ混ざった。
「死んだのは」
「何人か」
霊夢は即答しなかった。
机の端のメモに、一度だけ目を落とす。
「警官三名。憲兵二名。将校が数名。
それから、名前の出ない誰かたち」
「軽いほうか」
「重いほうです」
短いやりとりが途切れる。
時計が九時を過ぎたことを告げる。
魔理沙が、天井を見たまま口を開いた。
「お前が引き出した文句、使わせてもらった」
「どれでしょう」
「“暴力による政治の変更は、朕の望むところにあらず”ってやつだ」
霊夢は、ほんの少しだけ目を細めた。
「便利な言葉ですから」
「便利だな。
ああいうのを一つ持ってると、現場が助かる」
魔理沙は、ゆっくり息を吐いた。
「こっちは銃を持ってるけど、撃たない理由が要る。
あんたらが紙の上で作った理由がな」
「こちらはこちらで、銃が動く前に動かないと、紙が間に合いません」
それで、また沈黙が落ちた。
しばらくして、霊夢が立ち上がる。
「仮眠を取ってください。
明日から、軍法会議と、法改正と、説明が一斉に始まります」
「そっちこそ寝ろ」
「そのうち」
魔理沙は、椅子から腰を上げ、扉のところで一度だけ振り返った。
「博麗」
「ええ」
「今日で、一つの道は潰したんだよな」
「そうですね」
霊夢は、机の上の電文を見た。
「軍が前に出て、政治を殴って決める道。
それは、今日で“失敗した歴史”になりました」
「もう一つの道は」
「これから書きます。
紙と、判子と、多少の悪口で」
魔理沙は、わずかに笑った。
「なら、しばらくは死ねないな」
「どちらも」
霊夢も、ようやく小さく笑い返した。
「あなたも、私も」
指揮室の扉が閉まる。
外ではまだ、雪が降っていた。
街の音はほとんど聞こえない。
どこか遠くで犬が一度だけ吠えたような気がした。
一九三六年二月二十六日。
この日を、後の歴史書は簡潔に記すだろう。
――陸軍の一部将校による未遂のクーデター。
――内務省および中央情報局による迅速な鎮圧。
その余白には、名前の書かれない決断と躊躇いがいくつも挟まっている。
雪と同じで、朝が来ればほとんど溶けてしまう類いのものだ。
溶け残ったわずかな部分だけが、
霊夢たちの中に、薄い傷跡のように残った。
本作は史実を参照しつつ、ゲーム的ルートと作者独自の仮説を組み合わせたフィクションです。
実在の人物・組織に関する描写は史実の評価を目的としたものではなく、
物語上のテーマ(文民統制・国家の手順・正統性の競合)を表現するための構成です。
史実の詳細や学説的な整理は複数の見解があるため、
興味を持たれた方は公的資料や研究書等もあわせて参照ください。




