第186話 閑話 領主と晩餐②
夢じゃなかった。
今も私のすぐ膝の横には、先ほどの黒い影――コハクと呼ばれるキダナケモが我が物顔で座っている。
娘の話では、少し顔を見に来たのだろうということだ。
なるほど、意味が分からない。
そうだな……、昔からこの娘はこういうところがあったな。
娘は混乱する私を気にした様子もなく、妙にウキウキとした様子で一緒に食事をと誘われたので、言われるがまま応接テーブルへと移動したわけだが……私のすぐ隣、ソファーの上ではキダナケモがゆったりと寝そべって毛づくろいをしている。
娘の話では手料理を用意してくれたようで、大変嬉しいことではあるのだが、このキダナケモが横にいる状態で、果たして食事は喉を通るのだろうか。
鬼がゆったり座れる程度には大きなソファーだが、今にも膝が触れそうな位置に、この黒いキダナケモは居座っているのだ。
なにより、食事の支度をするからと言って、この恐ろしいキダナケモが居座る部屋に私を一人残し、上機嫌に立ち去っていくラウラは、我が子ながらどうかと思う……。
「…………立派な尻尾だな」
「んなう~?」
見せつけるかのように目の前でゆらゆらと揺れる長く太い尻尾に、思わず言葉がこぼれた。
その声に答えたのだろうか。
キダナケモは琥珀色の瞳を丸くして、こちらを上目遣いに振り返る。
…………よく見ると愛らしい姿をしているな。
声も愛嬌があり、親しみが持てる気がする。
黒く艶やかな毛並みはいかにも柔らかく触り心地が良さそうで、つい触れて見たくなる。
いやいや……こいつはキダナケモだ。
その証拠に尻尾は燐光をまとい、わずかにくねらせるたび、場の魔力を暴力的にかき乱している。
「お前も……やはりラウラの言う通り、ボナス商会の仲間なのか」
「んにゃ~ぅ」
「そうか……私の言葉が分かるんだな。……ちょ、ちょっとだけ、触っても?」
「うなう~」
コハクというキダナケモは大きな尻尾を器用に動かし、私の膝をポンポンポンと叩く。
それが了承を意味するのか定かでは無かったが、手は吸い寄せられるようにその背に触れてしまう。
緊張しつつも軽く手は乗せたまま、その反応を観察してみるが、この恐ろしくも美しい獣は、ただ部屋を観察しながら、のんびりとした様子で尻尾を揺らしているだけだ。
どうやら間違ってはいなかったようだ。
他国の王や大臣と駆け引きする以上に緊張したが……、やはり見た目通りの素晴らしい手触りだ。
毛並みを確かめるようにゆっくりと手を滑らせていくと、しなやかな筋肉や体温、息づかいを感じとれる。
この美しい生き物の体と触れ合っているという実感が何とも心地よく、心躍る。
不思議なことに、先ほどまではただ恐ろしく暴力的に感じた魔力の揺らぎまでもが、どこか愛嬌のあるものに感じられる。
これはそういった人を魅了する魔性の類なのだろうか。
いや……、そもそもキダナケモというだけで我々魔法使いにとってはある種の憧れであり、魅了される存在だ。
仕方がないことなのだ。
なにより単純に撫で心地がすばらしく、大きな琥珀色の瞳でこちらを見上げる姿も愛らしい。
「うっ、な、なんだ……飽きてきたのか? むっ、まぁ――もう間もなくラウラも来るだろう」
一方コハクはこの状況に飽きてきたのか、私の膝に頭を乗せ、ひっくり返るようにしてゴロゴロと寝転がる。
あまりにも無防備な姿に思わず腹を撫でようとすると、肉厚の大きな手の腹で鼻を軽く押し返される。
意外と柔らかいな……。
どうやら少し調子に乗りすぎたらしく、腹に触ってはいけないようだ……が、背中とはまた毛並みが違い、少しフワフワとしていて気持ちよさそうだな……。
「――あら? お父様、コハクちゃんとずいぶん仲良くなったようですね~」
「……どうだろうな」
ラウラが再び扉から顔を出す。
やや騒々しい音を立てながら、食事を部屋へ運び込む。
片手でトレーを持ち、バスケットを腕にかけ、バランスを取りながら扉を開け閉めする。
意外に器用だ。
昔はこんなことができるような子じゃなかった気がするが……そういう意味でも逞しくなったのか。
ほんの半年前であれば、いつトレーをひっくり返すかと、やきもきすることになっただろう。
だが目の前のラウラには動きのひとつひとつに安定感がある。
「さぁさぁ、お食事並べますよ! 簡単なものになっちゃいましたけど……」
「いや、これくらいで十分だ。それに、香りも良い」
「ミルさんに教えてもらったパンと、きのこのシチューです。見た目はまぁ……」
「お前が作ってくれたのだろう? それ以上何がある」
「あ、味は間違いないですよ! 特にきのことお肉は良いの分けてもらいましたからね~」
ラウラはバスケットから布に包まれたパンと飲み物、食器類などを取り出す。
布をとるだけで焼きたてのパン特有の香ばしい香りが広がる。
ナイフで切り分けるとわずかに湯気が立ち上がり、その断面からは果物やナッツ類などがふんだんに練り込まれているのが見てとれる。
子供たちが独り立ちしてからは、どうも食に関する興味も薄くなり、付き合いでもない限り、夕食は冷えた軽食で済ますことも多い。
それに比べればこのパンだけでもご馳走だ。
「自分でパンまで焼いたのか? ふふっ、ジェンマが見たらひっくり返るぞ」
「お、お母様にはまだ秘密ですよ!」
なによりあの不器用なラウラが私のためにパンを焼き、それを目の前で取り分けてくれているのだ。
これまで娘と食事をとることはいくらでもあったが、こういう雰囲気は初めてかもしれない。
食器が触れ合う音でさえ心地よく、温かい。
その横顔を見ていると、若い頃に妻のジェンマの思い付きで行った旅行を思い出す。
無計画な旅で散々な思いをしたが、あの時は彼女の心に最も近づけた気がした。
どちらかというと私に似ていると言われることの多い娘だが、こう見るとやはり妻と似た雰囲気も持っているな。
王都から下の娘達の領地をめぐり、もうすぐサヴォイアへと帰ってくるはずだ。
勝手に婚約を決めたことには怒るだろうが、今のラウラを見れば納得もするだろう。
「はい、コハクちゃんはこっち――んしょっとっと……。やっぱり重くなりましたね~……んふふふっ」
「うにゃうん」
私が恐る恐る触れていたコハクをむんずと掴むと、膝に乗せ、大胆に顔を埋めるようにして全身を撫でている。
コハクの方も慣れた様子で、すべてなされるがままだ。
腹に顔を埋められても気にした様子もない。
まったく……先ほどまで強大なキダナケモとしての存在感が嘘のようだ。
ラウラの肩越しに見える姿は妙に幼い。
「仲が良いのだな」
「それはもう、赤ちゃんの頃から一緒に居ましたからね! あの頃のコハクちゃんも可愛くって、もうほんとうにちっちゃくって、ね~!」
「しかしラウラ、貴族たちが街に来るようになったら、ある程度考えてもらわねばならんぞ。キダナケモが目に付くような場所を気軽にウロウロしている、なんて状況ははさすがにまずいことになる」
「やっぱりそうですよねぇ……。ですってコハクちゃん」
「にゃうにゃうにゃう」
「ただまぁ――私の執務室であれば、いつ来てくれてもかまわないぞ」
「そうですね……ボナスにも言っておきます。ですが、この子はとても頭が良いですから、私達が考える以上にうまくやるでしょうけどね」
どの道、このコハクというキダナケモは我々がどうにかできるような存在ではないだろう。
だが、たとえそれが自分の身を滅ぼすとわかっていても、目の前に強大な力があれば、つい手を出して見たくなるのが人の性だ。
ただ、先程その毛並みに触れたからだろうか、そんな愚か者がこの恐ろしくも美しい生き物に手を出すと思うと、無性に腹立たしくなる。
「それじゃ、食べましょうか!」
「ああ、素晴らしいじゃないか。この飲み物は?」
「お酒ではありませんよ? アジトで採れた果物を絞りました。ちょっと酸っぱいですけどさっぱりしていて美味しいですよ。あっ、冷やしますね――」
「ラウラ……それは、魔法……なのか? これはコハクより、お前を隠すべきかもしれないな。ボナスにそう伝えておいてくれ、コハク」
「んにゃ~ぅ!」
「お父様! コハクちゃんも何納得した顔してるんですか……もう!」
「このシチューは素晴らしいな。濃厚だがまったくくどくない……やるじゃないか」
「そうでしょう! これはエリザベスさんのチーズを使ってますからね。キノコもどうぞ、パンを付けても美味しいですよ」
「昼の料理も良かったが、これだって全然負けていないじゃないか、ラウラ」
「えへへへっ……まだ勉強中ですけど、他にもいろいろなものを作れるようになったんですよ?」
「お前はどちらかというと、こういうことよりも研究や学問などのほうが向いていると思っていたが……、私はよく考えているつもりで、結局なにもお前のことが見えていなかったのかもしれんな」
「いえ、そんなことはありませんよ。私だって自分が料理するなんて予想外ですから……ただタイミングが良かっただけかもしれませんしね。結局、向き不向きも、自分の趣味嗜好さえも、本当の所は知ろうと思って知れるものではありませんし、私達が思っている以上に移ろいやすいものかもしれません。だって、今日なんてマリーの給仕姿が見れたんですよ?」
「あのマリーが……給仕? くっくっくっくっ、それはぜひ見たかったな」
「お父様悪い顔になってますよ! ハジムラド様もエプロンが似合っていて~」
「あの不機嫌面でエプロンだと!? はっはっはっはっ」
どうやら私の与り知らぬところで、何やらいろいろと面白いことが起こっているようだ。
まったくボナス商会というのはどうなっているのだろうか。
ここまで次々と予想外のことを起こされるとは思わなかった。
ハジムラドやマリーなどは付き合いが長いが、ラウラが言うような姿は想像すらしたことが無かった。
ラウラの料理だってそうだ。
ボナスという男はいったいどんな魔法を使ったのだろうか。
まぁ――、キダナケモを膝の上にのせて食事をとるような連中なのだ。
常識では推し量れまい。
「パンも美味い。干した果物か……甘みと酸味、コクもある。ナッツとの相性も良い……ああ、シチューともよく合う」
「そのきのこも一緒に食べてくださいね、最高ですから!」
「ああ、わかっている。シチュー全体に広がるこの香りから美味いのは簡単に想像がつく。それに――、これは歯ごたえも小気味良いな」
「そうなんですよ――って、あら? コハクちゃんはそろそろアジトに? そう、もう日も沈んじゃうものね。それじゃ、みんなによろしくね!」
「にゃうん!」
「……また、遊びに来るといい」
コハクというキダナケモはラウラの膝から移動し、わざわざ私の膝を跨ぐように移動する。
最後に長い尻尾でゆらゆらと挨拶するようにして、闇へと吸い込まれるように姿を消した。
「素晴らしい手触りだったな……」
「ですよね! 顔を埋めると嫌なことをすべて忘れて、幸せになれるんです!」
「それは……ふふっ、いずれ試してみたいものだな」




