第163話 カミラ③
やっと船が動き出した。
ここに至るまでのすべてが遅すぎる。
「……苛立たしい」
この船自体もそうだ。
もう少し早く移動できないのだろうか。
まだ帆も張り終えていない。
船員たちは走り回っているようだが、一体何をしているのだろうか。
だがわかっている……なにもかも、仕方のないことだ。
シュトルム商会は陸路での輸送がメインであり、この船も手に入れたばかり。
乗組員たちも忠誠心や今後のことを考え、若手を中心に揃えた。
経験もまだ浅い。
帆船と港を往復する作業船の段取りも想定より悪かった。
積み荷も結局半分ほどは諦めることにした。
少々思い切りが良過ぎた気もするが、仕方がない。
タミル帝国での再出発は予定より厳しいものになるだろう。
ラウラ様の首を手に入れることも出来なかった。
しかし、それもすべて命あってのことだ。
敵勢に本気の鬼が加わったのでは、本店もそう長くは持たないだろう。
今は何よりもまず生き延び、逃げ切らねば。
まだほのかに木の香りの残るこの新造船は、そんな私の焦る気持ちをあざ笑うかのように、悠然と進み始める。
「サクの街、カノーザ領、レナス王国……もう、二度と足を踏み入れることはないでしょうね」
見慣れたはずの街は、海から見ると全く別の世界のもののように思えてくる。
あまりに多くのものを失ってしまった。
「ですが……、私はまだ、大丈夫」
帆を張り終えたのだろうか、船の進みが急に早くなった気がする。
ここから見えるサクの街もどんどん小さくなっていく。
大きな喪失感を感じる一方で、私を支配していた焦燥感が、少しづつ薄らいでいくのを感じる。
船が沖へと進むほどに、失ったものに対する執着は薄れ、これから手に入れるものへの野心が鎌首をもたげる。
新たな欲望が、恐怖を押しのけ再び私を駆り立てていく。
「そう――まだ、私は大丈夫。私が商売を始めた頃の絶望はこんなものでは無かったはず。あの当時に比べれば、この程度なんてことはない……何度でも、やり直せる」
海風が強くなってきた。
年を重ねはしたが、昔に比べ意欲が無くなったとはまったく思わない。
だが、さすがに私の身体はそうもいかないようだ。
健康ではあるものの、明らかに体力は衰えた。
かつては心地よく感じた海風や日差しも、最近では早々に疲労へ置き換わるようになってしまった。
慣れない海面からの照り返しも身体が受け止めきれていないように感じる。
なにより、私は今あまりに疲れている。
さすがに少し休むべきだろう。
そうして、海風から逃げるように、船尾から離れようとしたその時、はるか遠くサクの港から誰かに呼ばれた気がした。
もちろん、そんなことはありえない。
だが、なぜか港から目が離せない。
目を凝らしてはみるが、辛うじて船着き場に数名人影らしきものが見える程度だ。
「いや、なにか……光――」
一瞬船着き場になにか光るものが見えた。
そう思った瞬間、巨大な水の壁が立ち上がる。
船が大きく揺れる。
地鳴りのような轟音。
そして、大量の水蒸気に、肌を焼く熱。
船尾甲板にいなければ、危うく海水に洗い流されていただろう。
現に多くの乗組員がそうなった。
「――なに、が!?」
「光がっ……光がくるっ!」
水壁の向こうが青白く輝いている。
光が船へ、私へと迫る。
「逃げ……なくては、まだ、まだ私は……ああ、だめだ……もう……」
いやだ、あれは、あの光だけは、だめだ。
せめて、誰か――殺して欲しい。
誰か、私に恨みのある人間。
いくらでもいるはずだ。
憎しみとともに爪を剥ぎ、目をえぐり、呪詛を吐き、腹を刺し、そうして首を落とせばいい!
けれど……いやだ、あの、青い光は――。
ああ……私の船を、財産を、人生を、私自身を――全ての意味を無にしてしまう……あの光は!
「いや、だ……私は、まだ――」
そうして青白い光は、あっさりと私を飲み込んだ。




