第159話 カミラ②
カノーザ領サクの街へ到着してから数日。
サヴォイアからの連絡が完全に途絶えた。
あの街に配置していた密偵は二十名。
そのうち半数は現地人だ。
領主でさえその全ては把握していないはずだった。
だが……、その連中からもなにひとつ音沙汰がない。
急遽新たな人員を用意し、小まめに連絡を取るよう言いつけ、サヴォイアへ送り込んだのだが……今はその連中の消息さえも、わからなくなってしまった。
何かとてもまずいことが起きている……。
少なくとも、早々にカノーザ領へ逃げてきたのは正解だった。
もちろん、サヴォイア領主との面会日はとっくに過ぎている。
だが……、もうしばらくはサヴォイアへ近寄りたくはない。
情報さえ入ってこないなど、まったくの初めてのことだ。
何とも言えない不気味さ、息苦しさを感じる。
サヴォイアのあの埃っぽい空気が、まだ肺の奥に留まっているような気がしてくる。
「チョコレートとコーヒーか……」
窓を開け空気を入れ替える。
肺の空気を入れ替えるように深く息をつくと、わずか磯臭さを感じる。
サヴォイアのチョコレートとコーヒーの香りは素晴らしいものだった。
だが、今はただその苦味の記憶だけが、深く喉元を締め付けるような心地とともに思い出される。
サヴォイアの件は……おおよそボナス商会の件で、ラウラ・サヴォイアが動いているのだろう。
対応を急がなければ。
カノーザ領へ戻り、少し気が緩んでいたのかもしれない。
「貴族を抑えるには、貴族が必要ですね……」
カノーザ領主はじめ、王都や西方の領主にも莫大な貸しがある。
ボナス商会がどのようにしてラウラ・サヴォイアへ取り入ったのかはよく分からない。
それがどれほど深い関係かもわからないが、そう長い付き合いでは無いはずだ。
私はもう二十年以上にわたって、貴族との関係を深めてきたのだ。
関係性という意味ではそう劣るものでは無いはずだ。
それに証拠はすべて消してきたはずだ。
何が起きたか、明確な事実を知るのは今私一人のはず。
だが、それでも……仕方ない、今回はサヴォイアへの進出は一旦諦めよう。
まずは一度このカノーザ領で、商会の体制を建て直さなければ。
かなりの精鋭たちを無駄死にさせてしまった。
再度私兵を集めなおし、情報網を再構築、利害関係も整理しなくては……。
それから数日後。
昼食を取りながら各種報告書類を見ていると、妙なことに気が付く。
カノーザ領内、それもサクの街より東側の村や街にある支店から、直近の報告が一切来ていない。
東側は辺境地に隣接しており、往来に危険が伴うことも多い。
報告へ向かう途中で失踪することも珍しくはない。
だが、今連絡が途絶えているのは、カノーザ領東部全ての支店だ。
たとえごく一部で不慮の事故があったとしても、全支店から連絡が無いのはおかしい。
東門から来るはずの積み荷も同様だ。
もともと東部は取引量自体が少ないので、あまり注意していなかったが、数日前から荷物の搬入が途絶えている。
他にもおかしいことがある。
軍備の再構築がどうもうまくいっていない。
商会で直接集めている私兵の方はそれほど違和感は無い。
少しづつだが、着実に数は増えつつある。
問題は傭兵斡旋所の方だ。
まだ一人の傭兵も集まっていないらしい。
そんなことがありえるのだろうか……。
傭兵どもは独自の情報網を持っている場合が多く、美味しい仕事を嗅ぎつけては、その街へと殺到していくものだ。
まさに今のサヴォイアのように。
それゆえ、時期によっては少々集めにくい、あるいは値が張るということはある。
とはいえ、必ずどの町にも一定数暇な傭兵はいるものだ。
特に今回出した条件は、速さと人数を優先したもので、質は問うていない。
金額的にもかなりの譲歩をしている。
一人も集まらないなどあり得ないことだ。
思わず東の方角へ目を向ける。
もちろん、そこにはただ執務室の漆喰壁があるだけだ。
「キダナケモ……などと言うのでしたか」
だがそのはるか向こうには、サヴォイアがあり、さらにその向こうには荒れた未開の土地が広がっている。
そこには雄のラクダをひと飲みできるほど巨大な化物たちが暮らしているという。
なぜだか今、遥か彼方を闊歩しているであろう、その得体の知れない化け物と目が合っているかのような、そんな気がしてくる。
背中が泡立つような不快感と生理的嫌悪感、そして恐怖を感じる。
「なにを馬鹿な……ダメですね。切り替えなくては」
目を閉じ、目頭を強く抑える。
そのまま書類を視界の外へと押しのけ、ゆっくりと目を開く。
そうして、ただ目の前のスープへと意識を集中する。
そう、いつもの豆と野菜くずのスープ。
わずかな塩で煮込んだもの。
私の身体のほとんどは、このスープで出来ている。
この豊かなサクの街で、これほど味気ない食事をしている人間はそう多くないだろう。
いや、これでも二十年前に食べていたスープに比べれば、ずいぶんと贅沢なものになった。
豆、野菜くずと言っても、全てシュトルム商会で取り扱っている商品である。
そのなかでも最も優れたもの。
わずかな野菜の切れはしからでさえ、それぞれの野菜特有の歯ごたえや風味、苦み、コクなどがしっかりと感じられる。
このスプーン一杯を口に含み、思い起こされる物語は、そう悪いものではない。
畑の土は黒く、農家の家族やその食卓風景も明るいものだ。
気候を踏まえた輸送方法への工夫は、はっきりと鮮度に現れている。
市場ではこれらの野菜をめぐり、活発な駆け引きが見られることだろう。
このスープには余分な味が無い分、それらの物語はより鮮明に思い起こされるのだ。
そうして、私は静かに食事を終え――それら全てを綺麗に忘れるのだ。
私にとってこの食事は祈りであり、贖罪でもある。
なにより、日常を取り戻す儀式なのだ。
この薄い塩味のスープだけが、私の心を満たし冷静さを取り戻してくれる。
私はまだ……、まだ、大丈夫なのだと――。
これが私の出発点であり、価値を図る尺度なのだ。
それゆえ私はこの食事を続けてきたし、これからも続けていくだろう。
だというのに……今、私の手は止まったまま、いつまでたってもスプーンを口へと運べない。
「カミラ様、お食事中失礼します」
「……はい。どうしました?」
「タミル帝国の商会から、急ぎの小包が届いておりますが、どういたしましょうか?」
「……確認しましょう。スープを……下げなさい」
「承知しました」
想定外の問題が起きている今、通常であれば後回しにする要件だ。
だが、タミル帝国というのはどうにも気にかかる。
帝国は私にとって最後の最後、レナス王国で取り返しのつかない失敗をした際、唯一逃げ込むことのできる国だ。
あの国とのつながりは、今の私にとって、かつてないほど価値がある。
「こちらです」
「……美しい箱ですね。では、そのまま開封しなさい」
両掌の上に乗る程度の、小さな木箱だ。
簡素な意匠だが趣味が良い。
そこに白くぬめる様な光沢のあるリボンが巻かれている。
あまり見ない素材だ……。
「私が空けても?」
「構いません」
「それでは――、これは……何でしょうか?」
小さな木箱の中には、刷毛先のようなものが二十。
それに異様に白く均質な紙が一枚。
ただ、それだけが入っている。
そして紙には、貴族女性のような美しい字体で、以下のように書かれていた。
『 サヴォイアにて、貴商会のお忘れ物がございました。
お送りいたしますのでご査収ください。
なお残りはすべて破損しておりましたので、こちらにて処分いたしました。
メナス商会 メナス』
「……閉めてください」
「はい?」
「その箱を閉めなさい」
「は、はい……」
多種多様な刷毛先のようなものは、サヴォイアに潜伏させていた密偵の毛髪だ。
ちょうど二十、見覚えのある珍しい赤毛もあった。
ほぼ間違いない。
全員死んでいるだろう。
たしかに、このやり方はタミル帝国の商人連中のやり方だ。
要は私の商会への見せしめ、あるいは宣戦布告だ。
しかし、なぜ……。
そもそもメナス商会などという、タミル帝国の商人がなぜ私に敵対してくるのか。
いや、タミル帝国の有力商人は大体頭に入っている。
その中にメナスという名前は無かったはず……いや、そうだ。たしか、サヴォイアと帝国の危険地帯を往復し、細々とつまらない商売をしている連中だったはず。
その程度の商会がシュトルム商会をどうこうできるはずがない。
それとも……私に向けてタミル帝国へ逃げても無駄だとでも言いたいのか。
しかしそれにしてもなぜ……。
これもラウラ・サヴォイアの仕業なのか……。
いずれにしろ、私にこのようなやり方は通じない。
これまで敵対してきた商会などいくらでもあった。
だが、そのたびに私はそれらすべて叩き潰し、あるいは飲み込んできたのだ。
「今回も同じだ。ただ、それだけのこと……そのはずなのに……」
なぜ、私の手はずっと震えているのだろうか。
それからさらに数日後、領主のフルマリフから呼び出しを受けた。
「――ラウラ・サヴォイアから手紙が来た」
「……ラウラ様ですか? 数日前、サヴォイアでお会いしましたが……」
最近は感情的なことが多いフルマリフは、思いがけず落ち着いていた。
プライベートな私室で、私を立たせたまま、座りなれたソファーにゆったりと腰掛けている。
白髪交じりの硬い髭をしごきつつ、顎を突き出すように喋るのはいつものことだ。
それほど広くない部屋の四隅と私の背後には護衛が立っている。
これもいつも通り。
後は、教育のためか彼の年若い息子が、眠そうにフルマリフの横に腰掛けている。
珍しくはあるが、見ない姿では無い。
「内容は……そうだな、要約すると、ボナスという男を探して欲しいということだ」
「……ボナス、ですか。ボナス商会の会頭ですね」
「ああ、そうらしいな」
「……もちろん、何かお手伝いできることがありましたら何なりと」
「手紙にはさらにもう二つのことが書かれていた」
「……はい」
「先方が言うには、お前――シュトルム商会のカミラが、きっとボナスについて何か知っているはずだと。そして遠からずラウラ嬢本人が、カノーザ、このサクの街へ来るらしい。丁寧な言葉で綴られてはいるが……、とても外遊という雰囲気ではない。これはどちらかというと……殴り込みに近いような印象を受けるな」
フルマリフは一瞬私に視線を向けた後、体をズルリと少し前へ滑らせ、ひじ掛けへ頬杖を突くと、ゆっくり目を閉じ、ラウラとラウラの手紙を思い出すようにしてそう語る。
硬そうなこげ茶色の髪を何度もかきあげている。
最近急に増えてきた生え際の白髪へと目が行く。
息子のほうは辛うじて寝てはいないようだが、すでに頭が揺れはじめている。
フルマリフと違い線の細い気弱そうな子供だが、他者への関心の無さや、軽薄さはよく引き継がれているようだ。
「……ボナス商会の会頭について、私がなにか知っていると?」
「そう書いてある」
「……確かにサヴォイアへは行きました。ですが、ただ一泊のみ。睡眠時間を除けば、滞在したのは半日弱。わずかな予定の合間を縫って、いろいろな商人にも会いましたが……、記憶に残るようなやり取りは特にございませんでした。そもそも、あの辺境の地で、ただの一商人に過ぎない私に……いったいなにが出来るというのでしょうか?」
「あまり猶予はないぞ、カミラ。ラウラ嬢は、相当に気弱な女性だったはずだが……、今回送られてきた手紙の文体は、どこかあの苛烈な父親、サヴェリオ・サヴォイアを思い出させるものだった」
「……はい」
「カミラよ……お前がどういう女か、私はよくわかっているつもりだ。いまさらお前のやり方を咎めはしない。この領がこれほど豊かになったのも、少なからずお前のその気質、力があってのことだろう。なので、何も知らないとお前が言うのであれば、それはそれで良い。ただ――私は今後、お前とサヴォイアのゴタゴタには、一切関わることはできない」
「……承知、いたしました……。ご厚情に感謝いたします」
「以上だ――」
切り捨てられたか。
領主館から本店まで急ぎ足で歩く。
周囲の部下や護衛が全員青い顔をしている。
どうやら今の私は冷静さを取り繕えていないようだ。
頭ばかりが煮えたぎるように熱く、手足は氷のように冷たい。
一歩進むごとに足元が崩れ落ちていくような気がする。
フルマリフが私を分かっている以上に、私もあの男のことを理解している。
あの男にとっては、私は資金源でもあり、借金取りでもある。
大量の物資や資金を提供してはいるが、同時に少なくない額の銀貨を貸し付けてもいる。
私がこの領の経済に貢献していることを評価しつつも、死ねば借金もうやむやにできると思っているのだ。
その天秤の傾きを見つつ、都合が良い振る舞いをすればいいだけ。
そうフルマリフの考えはその程度だ。
だからあれほど落ち着いていられるのだ。
馬鹿な男だ。
私がいなければ暫くカノーザ領の経済は徹底的に混乱し、領の財政は悲惨なものになるだろうに。
だが、今更そのようなことを説明するわけにもいかない。
この男が見ている天秤は、馬鹿でも分かるよう、まさに私自身が用意して見せたものなのだ。
そして今、ラウラ・サヴォイアが介入してきたことで、フルマリフが信じるこの天秤のつり合いは、劇的に変わってしまったのだ。
他の貴族との関係性に比べれば、私との二十年は実に軽いものだったようだ。
結局それによって切り捨てられた私は、この男と同様、いやそれ以上に愚か者だということだ。
「逃げる他ない……」
王都、あるいは西側の領地で再起を図るか、タミル帝国へ亡命するか……。
いや、貴族と敵対し、他の貴族からの擁護も得られぬ以上、もはや王国に居場所はあるまい。
名を変え、顔を変えるには、私は年を取りすぎた。
やはり帝国へ行くしかないのだろう。
根回しは十分すぎるほどしてきたはずだが……、あまりに文化の違うあの帝国へ足を踏み入れるのは恐ろしい。
魔人や呪術など得体の知れ無い者を大切にしている国だ。
とはいえ、そんなのん気なことを言ってられるような状況ではない。
後は……船だ。
船を呼び寄せるまでの時間稼ぎと帝国への手土産だ。
フルマリフは手を出さないと言った。
あの男は愚かで軽薄、そして傲慢だが、嘘だけはつかない。
であれば本店で籠城し、なんとか時間を稼ぐしかない。
そのついでにあわよくばラウラ・サヴォイアの首を手土産としていただこう。
帝国は貴族の亡骸を歓迎する。
亡命時に貴族、魔法使いの亡骸を手土産にすると、相当な待遇で迎え入れてくれるという話は有名だ。
なにやら政治的な価値以外にも様々な価値を持つらしい。
あの国では何やらおぞましい呪術もあると聞くが……それが私の身を保証するのに寄与するのであれば、そのおぞましさも歓迎しよう。
だが……、ラウラ・サヴォイア。
私は貴族を――魔法使いを殺せるだろうか。
魔法には抗しがたい恐怖を感じる。
本能的、生理的な恐怖だ。
いや……だからこそ、覚悟を決めなければ。
たとえ魔法使いであっても、首を断てば死ぬ、胸を突けば死ぬ、毒を盛れば死ぬのだ。
魔法を使える以外、何も私達と変わらないはずだ。
魔法使いが絶対のこの国において、フルマリフもラウラも、まさか私がそこまで踏み込んだことをするとは思ってもいないはずだ。
もちろん、レナス王国で貴族に手を出すことは破滅を意味する。
だが、もうそんなことはどうでもいい。
ラウラが私を破滅させるというならば、私が先にラウラを殺し、王国を出る。
ただそれだけだ。
あの恐ろしい黄金色の瞳を持つ魔法使いは……果たしてどれほどのものだろうか。
学者としては相当優秀らしいが、彼女本人の魔法については聞いたことが無い。
ただ、その父親は国でも有数の魔法使いだ。
戦争になるとまさに人をゴミのようにすり潰す、かなり恐ろしい魔法を使うと聞く。
普通のやり方では無理だ……毒か、それとも不意を突くほかない。
それにきっとボナス商会の鬼も報復しに来るだろう。
名誉にうるさい連中だ。
自分たちの頭を潰されて黙ってはいまい。
わざわざ手紙をよこしたメナス商会も、何かしかけてくるかもしれない。
気が付くと本店へ到着していた。
ここからは時間が勝負だ。
「船はいつ着きますか?」
「え、あ、はい……すでに船は着岸しています」
「よろしい。すぐに荷物を積み込めるように、以前言った通りにお願いします」
「本当に……金庫のものはすべて……でしょうか?」
「以前、言った、通りに」
「わ、わかりました……」
すでにシュトルム商会が破滅へと向かっていることを部下たちは気づいているだろうか。
いや、この連中はたとえそう疑っていたとしても、ただひたすら私の命令に従うだろう。
習慣や日常の外側を簡単に受け入れられる人間ではない。
こういう時、自分で考え動ける人間はそう多くは――。
「ああ、サイード……あの男……。急ぎサイードを本店へ呼び寄せなさい。サイードの集めた私兵も指揮権を移譲させ、連れてくるように。逆らえば殺しなさい。サイードも、サイードへ同調する連中も」
「わかりました」
そうだ、いつかはバレることもあっただろうが、今回、ラウラ・サヴォイアの動きはあまりに早かった。
サイードが裏切っている、あるいは口を滑らせた可能性がある。
あの男は私を恐れていたはずだ。
それにサイードこそ、私が破滅すれば真っ先に、そして誰よりも不利益を被るはずだ。
あの男は頭は悪くない。
そのことを誰よりも理解しているはずだ。
私を裏切って得られるものなど何もないはずだ。
少し……怖がらせすぎたのだろうか。
「カ、カミラ様!」
「要件を」
「み、南地区の支店、および倉庫が襲撃されているようです!」
「……っ、どの支店、どの施設ですか?」
「わかりません! つ、次々に、鬼たちが扉を破り乗り込んできて、全ての部屋を破壊しながら何かを探しているようで……シュトルム商会の関連施設も、商会の紋章を付けている荷車や倉庫も、手あたり次第破壊されているようです!」
「支店とはいえ、相当数の護衛を配備していたはずですが?」
「降伏したもの、あるいは逃げたもの以外は瞬く間に……全滅したとのことです」
「……そう、ですか……」
吐き気がする。
自らのものとは思えないほど、心臓の音がうるさい。
青い顔で呆然とする部下を放置し、手洗いへと移動し、のどへ指を突き入れ吐けるものを吐いた。
頬を伝い鼻先から涙がこぼれ落ちる。
自分の涙を見たのは何時以来だろうか。
口内に苦味と酸味、そしてわずかにスープの味がする。
まだ足りない。
もう一度指を突き入れ吐くと、少し落ち着いたきがする。
水瓶から何度か水をすくい取り、口をゆすぎ水を飲み顔を洗う。
いまだ手の震えはなくならない。
恐怖と同時に怒りがこみあげてくる。
自分でも思いがけず、手に持った椀を床へ叩きつけ、水瓶を引きずり倒し割ってしまった。
「カ、カミラ様?」
「……手が、滑りました」
音に驚き部下が駆けつけてきたようだ。
化粧もすっかり落ちてしまった。
今の私はさぞ酷い顔をしているだろう。
引きつった顔で私を見る部下にまで殺意を覚えてしまう。
冷静に……いや、そんなことはもうどうでもいい。
「移動します」
「ど、どちらへ?」
「本店は、あなたに任せます」
「任せるとは!? いったい……どうすれば、私は……私の家族は!?」
「私の話を聞きなさい――。あなたも、あなたの家族も、私の言うことを聞けば、必ず生き残るでしょう」
床に散らばった水瓶の破片へと視線を移す。
あれほどたっぷりあった水は、全て床石のわずかな隙間へと吸い込まれてしまったようだ。
部下を諭しつつ、自らに気持ちを落ち着ける。
まだ死ねないのだ――必ず生き残らねば。
大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
南の小窓からは日差しばかりが差し込み、まるで風を感じない。
この時刻はいつも心地良い海風が吹き込んでくるのだが、今は時が止まったかのように感じる。
わずかに湿り気を帯びた空気は確かに熱を帯びている。
だが、体は凍えるほどに冷たく重い。
目の前を斜めに横切る陽光、その向こう側、部下のいるその場所は、まるで別世界のことのように思えてくる。
「し、しかし……い、いえ……わかりました」
「大丈夫です――、あなたも、あなたの家族も、あなたの財産さえも、大丈夫です。いいですか……いいですね。まず、本店の防衛機能は二段構えに設計されています」
「は、はい、存じております」
「よろしい。まずは外壁での対応です。ここでは、敵の戦力を分析することが重要になります。弓矢で牽制しつつ敵の人数や特徴、狙撃手たちの分担を決めるのです。打ち漏らしの無いように、誰が誰を狙うのか見定めることが重要です」
自らの冷静な部分が、私の意志を介することなく、まるで自動人形のように指示を与えている。
次第に部下は冷静さを取り戻してきたようだ。
一方の私は、いよいよ限界が近い。
私が人生のすべてをかけて築いてきたシュトルム商会が、巨大な波にのまれ、あっけなく崩れていく海辺の砂城のようだ。
すべてが崩れ、溶けていく。
その絶望に、今にも叫びだしそうだ。
「敵戦力の把握が済み次第、中庭へ誘導しなさい。弓兵は中庭を取り囲むように配置し、一斉射撃を。一射目は毒矢を使いなさい。そこからは歩兵に盾を持たせ、攻撃より防御重視、相手を疲労させるよう戦わせるのです」
「鬼に……通じるでしょうか?」
「わかりません。ですが、あなたの勝利条件は鬼を打ち負かすことではありません。少しでも旗色が悪くなれば、直ぐ降伏し、私がカノーザ領から逃亡しようとしていると叫ぶのです」
「て、敵を中庭へ呼び込む前に降伏してもよろしいでしょうか?」
「なりません――。必ず一斉射撃の後、判断を下すのです。いいですね? そのまま押し切れそうであればより話は簡単になるのですから」
「わ、わかりました……」
「最終的に敵を倒すことができれば良し、できなくとも、敵は私を追い、この場所を後にするでしょう。私は逃げ続ける必要がありますが、残された不動産の多くはあなたのものになるでしょう。それに……私がいなくなった後、混乱した領内の経済を落ち着かせるため、領主様は必ず直属の部下であったあなた方を重用してくださるでしょう」
「は、はい……」
「私は、いきます」
「え、もう? カ、カミラ様!?」
部下はすがるように、なにかを言ってくる。
だが、もう猶予はない。
私には、もうわずかにも余裕が残されていないのだ。
これ以上この愚か者が喋るようであれば、懐の短剣を眉間へと叩きこむ。
部下を睨みつけるように一歩踏み込む。
頬に当たる陽光すら憎々しい。
「ひっ……」
「では――、よろしく、頼みましたよ」
「……かり、ました……」
もはや私は自らの表情すら制御できなくなってきたようだ。
部下はかすれた声を返し、怯え切った様子で私から身を隠すように道を開けた。
港へ、急がねば――。




