第148話 夢
奇妙な夢を見た。
ぴんくの夢だ。
水曜日の夜。
仕事帰りにいつものようにジムに寄り、プールへ直行する。
比較的この時間帯は空いているものの、人が一人もいないのは初めてだ。
そういえばいつも混雑しているはずの受付はどうやって通ったんだろうか……いまいち思い出せない。
今日は妙に照明も暗く、夜なのに天窓から見える夜空が明るく感じるほどだ。
「そんな日もあるか……」
あまり深く考えず泳ぐ。
ジムの営業時間はそれほど長くない。
規定回数泳ぎ終えるころには、いつも閉店間際だ。
深夜営業もやってくれればいいのだが、この人の入りでは無理だろうな……。
気にせずいつも通り泳ぐ。
なんだか、今日はかつてなく調子が良い。
いつもより深く長く潜るが、息が無限に続くようだ。
体も軽いな。
これなら少し目立つようになってきたこの腹も、今年中には引っ込んで……いや――違う、おかしい。
腹は既に引っ込んでいる。
当たり前だ、アジトは素晴らしく豊かだが、腹が出るような生ぬるい暮らしでは無い。
「そうだ……俺はボナスだ」
水面から顔を出すと、そこは満天の星が輝くアジトの湖だった。
けれども、いつもと少し様子が違う。
あまりにも静かだ。
ニーチェも顔を出してこない。
そして空にはオリオン座、そして月も……。
あまりに慣れ親しんだ空なのに、悲しくて仕方がない。
これは――アジトの空ではない。
「ああ……」
路地裏であったことを思い出す。
なぜあんなことに……、アジール、そして――。
「ぴんく……?」
湖にただ一筋、向こうからぴんくが泳いでくる。
トカゲにしてはたどたどしい、へたくそな泳ぎ方。
間違いなくぴんくだ。
「お前……ああ、夢か」
手を差し出すと、当たり前のようにその上に乗ってくる。
一瞬そのままポケットを目指すようなそぶりをするが、当然今の姿ではそれは不可能だ。
「まぁ夢でもいいかぁ。またお前が一緒にいてくれてうれしいよ」
ぴんくはなんだかいたずらでも見つかったかのような、妙に気まずそうな顔をしてこちらを見ている。
俺の方が申し訳ないくらいなのに、なぜそんな顔をするのだろうか。
「俺が勝手に見ている夢なんだ。もっといつもみたいに、ふてぶてしい顔を見せてくれよ」
しかし妙な気分だな。
こんなにはっきりと夢を自覚するのは初めてだ。
よっぽど精神状態がおかしくなっているのだろうか。
たしかに、はじめてこの世界に来て、干からび死にかけていた時でさえ、もう少し気持ちは安定していた気がする。
「実際は大変だったはずだけど、思い返すとただただ楽しい毎日だった気がするな……あ~あ、お前と一緒に始まった、俺のおまけの人生も、もう終わりみたいだ。ああっ、くっそ~……うん?」
アジトを発見し、ぴんくと出会ってからの毎日を思い出していると、それだけで涙が止まらなくなる。
ぴんくはそんな俺の腕を駆け上がるとペチペチと頬を叩く。
なにやらぴんくは言いたげな様子だ。
もちろんぴんくの声は聞こえない。
「よくそうやって怒られたけど……どうしたんだ?」
いや、なんだかおかしい。
アジトの景色とぴんく……何か違和感がある。
この少し変なアジトは、そのあり得ない夜空といい、いまいち捉えどころのない全景といい、いかにも夢の中の現実離れした情景だ。
それなのに……。
「なんか、ぴんく……おまえだけ、やたらリアルじゃない? あっ、いたいいたい」
ぴんくが再び小さな手で激しく頬を叩く。
そんなことくらい早く気がつけと怒っている……ような気がする。
確かにこのやりとりは夢というにはあまりにも生々しい。
この世界で俺とぴんくだけがあまりにも異質だ。
「もしかして……本当にぴんく……なのか?」
ぴんくが小さく頷いている。
いや、俺の頭が見たい幻想を見せている可能性だってある。
そうだった場合、いよいよ俺は立ち直ることができないだろう。
「お前、切られただろ? まだ……生きてるのか?」
ぴんくは小さくうなずくが、その後に少し首をかしげたり、明後日の方向を見たりして、なんとも微妙な反応を示す。
よく考えたらどうなんだろうなぁ~……、みたいなすっとぼけたこの感じ、これはぴんくだ。
俺が想像する以上に、ぴんくらしい反応だ。
「何にしろ――、夢の中で俺が勝手に作り出した妄想、というわけじゃなんだろ……?」
ぴんくは小さく、しかしはっきりと頷く。
やはりぴんくは何らかの形で生きている、あるいは存在しているようだ。
なぜ夢の中に出てきたのか。
切られたぴんくはどうなったのか。
「聞きたいことだらけだけど……ああ……良かった。もう……会えないかと、ぴんく……良かった……」
夢の中でも泣けるのか。
いや、むしろいつもよりコントロールが効かない気がする。
先程以上にボロボロと涙が出てくる。
ぴんくはそんな俺の涙をぺろりと舐めて、やっぱりやめときゃよかったみたいな顔をしている。
「相変わらずだなぁ……まぁ、何にしろ、ははっ、また会えてうれしいよ……ほんとに。しっかし……、一体何がどうなってるのか――」
それからは俺が一方的に喋り、ぴんくが適当に身振りや表情で反応する。
これまで何度も繰り返してきた、いつものやり取りだ。
俺とぴんくは付き合いも長いので、それだけでも普段は大概の意思疎通が可能だ。
ただ――、今回ばかりは状況が謎過ぎて、何が何やら分からなかった。
たまに申し訳なさそうにしたり、なにかつまみ食いをした時のように誤魔化そうとしていたりするのでさらに分かりにくい。
ただ、一番重要なことははっきりと確認できた。
ぴんくは存在しており、少なくとも夢の中ではまた会える。
「まぁ、夢の中でもいいさ。ほんとうにまた会えるんだよな……?」
いい加減にしろと言った様子で、鼻をハムハムと噛まれる。
よし、これで俺がすべきこともはっきりした。
「なんだかこうしてると、アジトに来たばかりの頃、俺とぴんくだけでひたすらいろんなものに怯えながら隠れ暮らしていた頃思い出すなぁ。延々と俺はぶつぶつとお前に話しかけて……、アジトに帰らなくっちゃな」
生きて、アジトに帰る。
目の前の偽物のアジトが、余計その気持ちを強くさせる。
「本当のアジトはもっとずっと、きれいだ。それに自由で……そうだ、みんなの顔が見たい。クロ、シロ、ギゼラ、ザムザ、ミル、オスカー、エリザベスやラウラも、マリーも帰って……アジールは……、いや、まずはアジトへ帰ることだけだ」
急に皆の顔が見たくなる。
アジトへ帰りたい。
気弱になっている場合では無い。
頭を働かせなくては。
「あれ、ぴんく? ああ、まぁ夢だもんな……またよろしくな、ぴんく!」
気が付くと俺は湖に張り出したウッドデッキに立っていた。
当たり前のようにジャケットのポケットにはぴんくがいる。
慣れた調子で両手をひっかけ、首を逸らし俺を見上げている。
そう、これが正しい姿だ。
これだ――これを現実に取り戻さなくては。
それから毎晩、ぴんくは俺の夢の中に現れるようになり、まるでアジトで出会ったばかりのように、延々奇妙な対話を繰り返すことになる。




