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第1話 プロローグ

 横断歩道を渡ろうと信号待ちをしていたら、なんだか嫌な予感がした。


 久々に仕事も早く終わり、春めいた夜の街を、せっかく少し浮かれた気持ちで、歩いていたというのに……。


 気が付くと、目につく範囲には、車や人が見当たらない。

 人気のない街に、ただ桜の花が舞うばかり。

 この道は普段から交通量は少ないし、偶然そんなこともあるだろう。

 けれども、一度気になってしまったら最後、通いなれたはずのこの道が、まったく別のものに見えてくる。


 横断歩道や信号、目の前のものすべてが嘘くさく、頼りないものに感じられる。

 そうなると、春の少し生ぬるい空気や、舞い散る桜の花びらさえも、何か不吉なものに思えてくる。

 不安感がむくむくと膨れ上がり、不気味な妄想が次から次へと頭に浮かぶ。

 空を見上げると世界の割れ目から自分を見つめる目が見えるのではないか。

 後ろを振り返ると死ぬ瞬間の自分がいるのではないか。

 前に足を進めると、地面が無くなり無限に落下し続けたりはしないだろうか…………。

 普段なら、くだらないと捨て置くような、子供じみた妄想が、今は恐ろしく感じてしまう。


 信号が青になった。


 ただ、この6mに満たない横断歩道を渡るだけなのに、何か動作を誤ることで、もう二度と戻れないことが起きるのではと不安になる。そんなあるはずも無いことに対する、不安感が抑えられなくなる。

 全身に鳥肌が立ち、凄い量の汗が噴き出てくる。


 とは言え大丈夫だ。

 なぜなら、この予感は何度も経験したことがあるからだ。

 一番はじめは小学校の卒業式だった。

 一通りの行事を終え、卒業証書を貰い、その後ずっと我慢していた尿意を開放するために、急いでトイレに向かった。

 無事に用を足し、すっかり安心して誰もいない廊下を一人で歩いていると、急に嫌な予感がした。

 その時は、その感覚から逃れたくて、ずっと手に持った卒業証書の紙の感覚に集中しながら、出来るだけ何も考えずに歩いた。

 体育館に戻る頃には、嫌な予感はさっぱり消えたが、卒業証書は汗でふにゃふにゃになってしまっていた。

 それ以来、数年に一度は、唐突にこんな感覚に陥るときがある。

 そんな時はいつも、卒業証書でしたように、視覚以外の感覚、特に重さや手触りに集中する。

 そうすることで、余計なことは考えないようにする。

 後は、慎重にゆっくり歩き出せば何も問題ない。

 徐々に世界は安定していていつも通り、とてもしっかりしたものだという実感を取り戻せる。


 

 今回もそうすればいいだけだ。


 例えば、この馬鹿みたいにでかくて重いカバン。

 持ち手が肩に食い込むのを感じる。

 分厚い図面や筆記用具、水筒やちょっとしたおやつまで入っている。


 左手首を回すと腕時計の存在を感じる。

 昔、仕事に慣れはじめたころ買ったものだ。

 薄給の癖に見栄を張り、随分奮発してしまった。

 風防ガラスのつるつるとした手触りを、右手親指で確かめる。

 サックスブルーのシャツはリネンで、独特のコシがある肌触りだ。

 ジャケットのボタンを手探りで留めなおし、ネイビーのニットタイは少しだけ緩める。


 さて歩き出そう。

 この調子で大丈夫。

 一歩ずつ慎重に、でも不自然にはならない程度に、いつも通りを意識して、ゆっくりと歩みを進める。

 あっという間に横断歩道の半分も過ぎた。

 もう大丈夫だ。

 あの嫌な予感も今は薄くなっている。

 その時ふと下を見た。

 靴紐が解けている。


 ああ……何てことだ……。

 見なければよかった。

 こんな時に限って……嘘だろ……。

 

 急激に嫌な予感が戻ってきた。

 それも前よりもはるかに強く。

 とりあえず今は紐を結ぶか、渡りきるかを決めることが重要だ。

 いや本当にそんなこと重要か?

 こんなことは別に大した話じゃないはずだ。


 思考がどんどん整理できなくなっている。

 動悸がする。

 心臓が今までに感じたことがないくらい早く、強く打つ。

 全身に鳥肌が立つ。変な汗が止まらない。

 ……とりあえず落ち着いて靴紐結ぶか。


 そう思い、身を屈めた瞬間、地面の抵抗がなくなった。

 そして次の瞬間、体に感じていたすべての感覚を失った。

 思わず顔を上げるが、そこにはもうすべてが無い。

 

 自分自身の意識もそこで途絶えた。








 

 そして気が付くと、俺は荒野に一人ポツリと座り込んでいた。

 

8月25日書籍一巻発売!

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