エイブルスキーバー
「ねえ、楽しそうだね」
一つ前の席、背もたれを抱きかかえるように座り、彼女は笑った。奥歯まで見えるほど、かっと口を開けて、目尻にくしゃっと皺を寄せる。もう高校生だというのに、彼女の笑みには子供のような無邪気さが宿っている。
「急にどうしたの?」
彼女が何を言い出したのか、私はすぐには理解できなかった。彼女の笑みをまっすぐに見据えたまま、怪訝げに小首を傾げる。
「最近、凄く楽しそうだなって思って」
彼女はそう言った。ビシッと指を伸ばし、私の座る席の隣、テーブルの側面に向けている。
そこにぶら下がるバッグを目にし、私は彼女が婉曲に何を伝えようとしているのか、ようやく察した。
「これね。楽しいよ」
私は軽くバッグを持ち上げる。やや長く、斜めに傾いて、片側が今にも床につこうとしている。持ち上げてみると、特別に重いわけではないが、それなりにしっかりとした重さを感じる。
その中にはラケットが入っていた。高校生になってから、部活動として始めたスポーツのための道具だ。
「そんなに楽しいの?」
彼女は嬉しそうに聞いてくる。何よりも、誰よりも、私がこうして楽しんでいることが嬉しいと彼女は前に言っていた。そういうものが見つかると思っていなかった、と。私の姿はそう見えていたらしい。
「やってみたら分かるよ」
私は軽くそう言う。具体的に面白さを説明しようにも、何を面白いと感じているかは感覚的なことで、それを言葉にするのは、とても難しかった。全くできないわけではないが、とても時間がかかってしまう上に、それで私の感じている面白さの何パーセントが伝わるのか分かったものではない。
「でも、私、ルールも知らないしな」
彼女は迷うように答える。更に強く背もたれに抱きつくように、身体をゆっくりと折り曲げる。
「私もそうだったよ。ルールなんて、やっていたら、その内に覚えるよ」
尻込みする彼女の背中を押すようにそう言っているが、実際のところは私もルールはあやふやだった。もちろん、大まかなルールは把握できているが、細かい部分はその場の雰囲気で合わせているところが大半だ。実際にそういうシーンになって、そうなのかとルールを把握したのも束の間、次の試合ではもう忘れ、同じ場面が来る時まで思い出すことはない。それくらいの感じでやっている。
「ちょっとだけやってみようかな……?」
私の気紛れな説得が功を奏したのか、最後の方には彼女もそう言っていた。とはいえ、その言葉もどれくらいに本気かは分からない。こういう場面は過去にもあったが、実際に彼女が始めたのはその一部だけだ。その始めた一部でさえ、続いたものは私の覚えている限りは一つもない。
これも軽い口約束で、明日には忘れているのだろう。私はそう思いながら、彼女の言葉を聞き流していた。
そして、彼女が私の所属する部活に入部することになったのは、その一ヶ月後のことだった。
◯ ◯ ◯ ◯
何でも、というわけではない。が、私の経験上、それは何度か味わった覚えのあることだった。
私が始めてから彼女が部活に入るまで、あるいはその手前の競技を始めてみるまで、私の方が数ヶ月のアドバンテージがあった。私の方が早くから始めているので、当然のように知識も技術もあった。
そのはずだった。
それがほんの数週間前までのこと。気づいた時には、彼女は私の隣に立っていた。いつもの無邪気な笑顔で、私と同じように駆けていた。
胸の内にざわつくものを感じた時には遅かった。
その数日後には、私もできないことを彼女がやっていた。誰の目に見ても、それがルールの知らない素人でも、きっと私よりも彼女の方がうまいだろうと言うと分かるくらいに、彼女は私の先を走っていた。
どうして、と頭の中を過った時には遅かった。どれだけ練習を重ねても、彼女の何倍もの時間を費やしても、私の身体が彼女に追いつく様子はなかった。
私には才能がないと、そう思うのに時間はかからなかった。
そして、気づいた時には手遅れだった。何もかもが手遅れで、昨日まで、数日前まで、数週間前まで、確かにあったはずの感覚は消え、私の頭の中であの日の彼女が語りかけてくる。
「ねえ、楽しそうだね」
その問いかけに今の私なら、きっとこう答えるだろうと思う。
「何も楽しくないよ」
いや、違う。
「君がいるから、楽しくなくなったよ」
これが正解だ。
◯ ◯ ◯ ◯
「ねえ、どうしたの?」
彼女が不安そうに聞いてきた。一つ前の席で、いつものように反対に椅子に座り、背もたれを抱きかかえるようにしている。
「どうしたって、何が?」
「最近、様子が変だよ」
「……そんなことないよ」
「嘘だ」
うん、嘘だ。そう言いたかったが言えなかった。
自分が楽しくなくなったことを理由に、彼女の楽しみを打ち砕くだけの意地汚さは、今の私にはなかった。
「何があったの? 悩みなら聞くよ?」
彼女は本当に心配した様子でそう言ってくる。その様子を見れば見るほど、今の自分が惨めになって辛くなる。
だが、それも言えない。
「ねえ、部活って楽しい?」
私はそう聞いていた。それだけを聞いていた。
彼女は私の質問に驚いた顔をして、しっかりと頷いてみせる。
「うん、楽しいよ」
「そうだよね」
彼女の返答に、私の中のもやもやが膨らむ。
彼女が楽しんでいることを嫌だと思っているわけではない。寧ろ、その反対だ。嬉しいと思っている。良かったと感じている。
だからこそ、今の私の気持ちを押しつけられないと、私の中のもやもやが肥えていく。
何も言えないと、何もできないと、私の中のどうしようもない感情が叫ぶ。
「楽しくないの?」
不意に彼女が聞いてくる。私の顔をじっと見つめ、不安そうな眼差しで、そう言ってくる。
私は開きかけた口を閉ざし、テーブルの横に目を向ける。今日もかかっているバッグの中にはラケットが入っている。不思議なことにどれだけ楽しくないと感じても、このラケットだけは忘れることがない。いつも気づいた時には握っていた。
楽しくない。そう言おうとして、そう言えなかった。
彼女の楽しいという気持ちを壊したくないと、そう思ってしまったからではない。
もっと単純に気づいてしまったからだ。
自分の気持ちに嘘をつきたくないと、そう思ってしまったからだ。
彼女に追い抜かれ、私は追いつけそうになくて、才能がないと諦めて、楽しくないと感じ始めて、そうして、せっせと拵えたそれらを理由にして、私は逃げようとしていただけだった。
本当にそうなのかと問いかけたら、すぐに分かるくらいの偽りの気持ちだ。
本当は違う。楽しくないと感じていたら、本当に辞めたいと思っているのなら、私は彼女がどれほど先を走っていても、何も気にしていないだろう。
私はここに居場所を求めているからこそ、いつまでも進まない自分自身に苛立ちを募らせているのだ。
そうと気づいたら、そうと分かってしまったら、私はもう何も言えなくなっていた。
楽しいと認めるように、彼女の質問にそう答えるように、私は今日もラケットを持って、部活に向かう。彼女と一緒に、少しでも前に進めるように、昨日の自分よりも少しでもうまくなって、遥か先にいる彼女に追いつけるように、私は没頭する。
どれだけ辛くても、どれだけ楽しくないように思えても、どれだけ才能がないと思ってしまっても、どうしても辞められないものがある。
私にとって、それは高校に入ってから始めたスポーツ、エイブルスキーバーだった。